天高く馬肥ゆる秋。
 と言ったら隣の遠坂に殴られた。
「女の子の前で太るなんて話をするんじゃないわよ!」
「だって……単なることわざだぞ?」
「ことわざでもなんでもよ。これは全世界の女の子の常識なの」
 女の子の世界とやらは、全世界よりよっぽど複雑にできているらしい。
 昼休みもそろそろ終わるので、俺たちは昼食をとっていた屋上を後にする。三年生の教室は一階か二階、毎朝遅刻しそうな生徒には大好評だが、屋上までの距離はちょっと遠い。
 屋上から四階に続く階段を下りながら、遠坂が話しかけてきた。
「そういえば衛宮くんのクラスは、文化祭で何をするの?」
「うちか? えーっと……無難に喫茶店だったと思ったけど」
 十月も後半に入り、いよいよ文化祭まであと三週間を切った。各クラスとも準備に大忙しだ。
 当然うちのクラスもてんてこまい―――と思いきや、みんな案外のんびりしていたりする。
「喫茶店? 飲食系なんて忙しそうなのに……まさかC組のやつら、士郎に料理を作らせて自分たちは楽するつもりじゃないでしょうね」
 じろり、と遠坂が睨み付けてくる。等価交換の原則が芯まで染み渡っている根っからの魔術師は、最近俺が無償で人の役に立つことがあまりお気に召さないらしい。
 正義の味方として見返りを求めていたら務まらない気がするんだけど。
 いずれにしろ、今回はその心配は杞憂だ。
「そんなわけないだろ。高校の文化祭に生徒の料理なんて出さないよ。
 商店街のケーキ屋とパン屋に仕入れを頼んで、あとは紅茶のティーバッグと衣装や小道具をそろえて終わりだ」
「それもそっか。いくら衛宮くんが上手だからって、調理師免許もない高校生の料理をお金とって他人様に食べさせるわけにはいかないものね。
 うーん……当日は忙しそうだけど、準備に手間がかからないって手もあったか……」
 遠坂は腕組みして呟いている。会話の途中で思考の海に沈んでしまうのは彼女のクセだ。
 階段は四階から三階へ。俺たちの教室へはもう一階分下りなければならない。
「そういう遠坂のクラスは何するんだ?」
「うち? うちは平凡よ。おばけきのことヤカンヅルが目玉のお化け屋敷」
 それのどこが平凡なんだ。
「……なんなんだ、そのおばけきのことヤカンヅルって……」
「これが傑作なのよ。綾子が提案したんだけ……ど――――――――――――」
 不自然に言葉が切れた。
 あれ、と思って遠坂を見ると、彼女は食い入るように三階の廊下を見つめている。
 顔には表情が全くない。大きく目を見開き、まるで幽霊を見たような。
 手に持っていた弁当がバサリと落ちる。
 遠坂? と声をかけようとして。
 彼女の目線の先に気付いた。





 ――――――――――――――――――――――――――――――――。





 瞬間、全ての物が停止した。
 思考も。息も。周囲の音も。時間さえも。

 そこに佇むのは一人の女生徒。
 生徒だから、当然穂群原の制服を着ている。
 けれど、そんな姿は一度も見たことがなかった。
 俺の記憶の中とまったく変わらない、光り輝く金砂の髪。驚いたようにこちらを見つめるエメラルド色の聖緑の瞳。柔らかそうな白磁の肌。小柄で華奢な体付き。
 想い出として大切にしまっておいたけど、忘れようとしても忘れられるもんじゃない。
 たった二週間しか一緒にいられなかった、俺の愛した少女。
 あの日、黄金の朝焼けの中で別れた――――――




(セイ……バー…………?)




 たくさんケンカもした。たくさんぶつかりあった。
 でもそれ以上に、一緒にいることで、共に戦うことで創り上げた絆があった。
 真っ直ぐで、一度も振り返らず理想に向けて駆け抜けた姿を美しいと思い、強いくせに弱い姿を見て、守りたいと思った。
 どうしようもなく好きになって、どんなになっても放っておけなくて、幸せにしたいと願った。
 それでも、彼女の人生で大切な物を守るため――――俺たちは別れを選び――――



『シロウ――――貴方を――――』




「えええぇぇぇぇっっ!?」
 隣で遠坂の悲鳴が上がる。その声で俺も硬直が溶けた。
 同時に、金髪の少女も弾かれたように大きく身体を震わせる。
 と、何をする間もなく。
「あ…………!?」
 思わず口から驚きの声がもれる。
 ――――信じられないことに。
 彼女はいきなり踵を返し、その場から走り出したのだ。
「ま、待っ……!」
 慌ててともかく声をかける。しかし待ってほしいという言葉すら、うまく口から出てこない。
 あまりに混乱が大きくて思考回路がちゃんと働かない。なんで彼女がここにいて、なんで俺から逃げるんだ。
 代わりに彼女の後を追う。足はよたよたと、面白いくらい力が入らなかった。
 俺の声が聞こえていないのか、それとも聞く気がないのか、彼女はそのまま近くの二年B組の教室へ逃げ込んでゆく。ピシャリと拒絶するように教室のドアが閉まった。
 その後を追って、教室を覗く。ドアの窓ごしに彼女の姿はすぐ見つかった。
 一番窓際の席でうつむいて、こちらを決して見ようとはしない。わずかに青い顔をしてるのが気になる。いったいなんでそんな顔してるんだ。
 ドアを開けて彼女の元へ行こうと、手をかけた時。
「待った。どこ行く気、衛宮くん?」
 左手をグッと掴んで止められる。
 見ると同じく追いかけてきたのか、遠坂が怖いぐらい真剣な顔で俺を睨みつけていた。
「どこって……! そんなの決まって……」
「三年生がいきなり縁もゆかりもない二年生の教室に押し入って、騒ぎを起こそうっていうの? あんまり得策じゃないと思うわ」
 氷のように冷静な―――いや、冷静でいようと努める声。俺の腕を掴む右手には痛いほど力が入っていた。
 揺れる瞳を見ればわかる。本当は遠坂だって混乱してて、今すぐにでも彼女を問い詰めたいはずだ。
 しかしそれを制して、もっと落ち着けと、俺と自分に言い聞かせている。
 改めて周囲を見れば、あたりの生徒は一人残らず俺たちに注目していた。遠坂は学園の有名人だし、俺も上履きの色で上級生だとわかる。たしかに悪目立ちしすぎだった。
「でも…………あれは…………」
「一見すると、たしかにそうだけど…………
 そうじゃない可能性だってあるでしょ?」
「――――――――」
 言われるまでもない。
 むしろ、そうじゃないと考える方が普通だろう。
 だが、それでもあの少女は――――本物と見間違ってしまうほど。



 セイバーに、そっくりだった。



「衛宮くんの気持ちはわかる。でも、とりあえず落ちつきなさい。
 今からじゃ次の授業の先生も来る。放課後、ゆっくり続きをすればいいわ」
 放課後。二時間もこんな気持ちのままでいろっていうのか。
 そんなに待てない。本当は今すぐにでも、あいつのところに行きたい。
 けれど遠坂の言うことはまったくの正論で、文句のつけようがないこともわかっている。
「――――――――」
 ぎり、と奥歯が鳴る。正しいことと感情の板挟みになって動けない。わずか数秒の逡巡の間に、
 きんこんかんこーーん
 予鈴が鳴った。
 生徒たちが次々と教室に入ってゆく。こうなってはますますよそのクラスに入ることはできない。……それでも。それでも、やっぱり俺はあいつを。
「…………。行くわよ」
 遠坂も、ちらりと二年B組の教室に視線をやって。
 後にも先にも進むことを選べない俺の腕を強引に引っ張り、その場から引き離した。










 きんこんかんこーーん
 待ちわびていた、三時十五分のチャイムの音。
 六時限目が終わり、俺は教諭の挨拶もそこそこに教室を飛び出した。
 目指すのは言うまでもない。三階、二年の教室。
 砂漠でオアシスを見つけた旅人みたいに走る。二時間のお預けを食らった分、勢いは増していた。
 足を強化して、一秒でも早く辿り着きたい衝動を必死に耐える。
 三階に到着。B組の教室に駆け寄る。
 こちらの教室もすでに授業が終わっていた。開いた扉から生徒たちが何人も出てくる。
 その中に彼女の姿はない。ならば教室の中か。
 たった一階分走っただけにしてはやかましいほどうるさい心臓の音を聞きながら、教室を覗くと―――
「…………あれ?」
 探していた、金髪の少女の姿はなかった。
 二度、三度と教室の中を見渡す。けれど何度見ても同じだ。
 手近にいた生徒の一人を捕まえて、尋ね人の特徴を告げる。と。
「ああ、あの留学生ならもう帰りましたよ」
「帰った……!?」
「はい。なんか転校初日だってのに、慌てて」
 帰った。慌てて。……なぜ。
 待ってて、くれなかったのか。いや、待つどころの話じゃない。
 慌てて帰ったということは、つまり―――
 ダダダダダダダッッ!!
 その時、後ろから大きな足音がして思わず振り向く。ズザザザザ、とスライディングの勢いで滑り込んできたのは、
「遠坂」
「あ、衛宮……くん」
 さっき俺を止めた手前、自分も焦っていたのが恥ずかしいのか。
 遠坂はバツの悪い顔をして、急に勢いをなくす。
 けれどすぐに眼光鋭く、囁くように、
「衛宮くん。セイバーは?」
 どうでもいいが、もうセイバーって決定してるぞ、お前。
 でもそんなこと、本当にどうでもいい。
 俺は力なく首を横に振って遠坂への答えとした。
「帰ったって。……それも慌てて」
「慌てて、帰った……?」
 遠坂も俺と同じ疑念を持ったのだろう。眉をひそめて言葉を反芻する。
 いつまでも彼女のいない教室にいても仕方がない。二人ですぐ傍の下級生に騒いだことを詫び、二年B組の教室を後にした。
 廊下に出て、なんの気なしに窓の外を見た瞬間。
「あ……」
 見覚えのある後ろ姿。いや、見覚えなどなくともすぐにわかるだろう。うちの学校で金髪の生徒など、これまで一人もいなかったのだから。
 セイバーそっくりの、穂群原学園の制服を着た少女。
 それが…………走って校門を出てゆく。
「………………………………」
 脇目もふらず、全速力で駆け抜ける後ろ姿。
 みるみるうちに小さくなってゆくその姿は。
 まるで、俺たちから逃げているようだった。










「……………………」
「……………………」
 ふらふらとおぼつかない足取りで家の門をくぐる。
 いつもなら交差点で別れる遠坂も、まるで磁石に引き寄せられるように衛宮邸へ歩を進めていた。
 居間に鞄を置き、普段の習慣でつい二人分の緑茶を入れると、遠坂が渋い顔をする。
 それを見てようやく、少しだけ落ちつくことができた。
「緑茶、ダメか?」
「嫌いじゃないけど……紅茶もうないの?」
「あんまり飲むやついないからな」
 たまにイリヤが飲むくらいだ。それも衛宮邸に贅沢な紅茶は期待できないので、自分で高級茶葉を買って持ってくる。
 そのくせうちの粗茶である緑茶は、あまり濃くなければ文句も言わず飲むのだから、彼女の基準はよくわからない。
 遠坂もティーバッグの紅茶は飲みたがらないくせに、今もさっきまでの文句を引っ込めて緑茶を飲んでいるし。
「ふう。たまには良い紅茶が飲みたいわ」
「自分で買えばいいじゃないか」
「なによ、自分でも買ってるわよ。でも自分で買って自分で飲むだけじゃわびしいじゃないの」
 ―――わかってる。本当に話したいことはこんなことじゃない。
 わかってるけど、なんとなく切り出しづらかった。
 だが、遠坂は違ったようだ。
 ふう、と一息、疲れたような声をもらすと、
「逃げた、のかしらね」
「――――――――――――」
 突然投げかけられた容赦のない遠坂の言葉に、一瞬心臓が凍り付く。
 目的語のない言葉。
 それでも、遠坂が何をさしているのか、考えるまでもない。
 俺たちの顔を見るなり踵を返して教室に駆け込んだ彼女。学校が終わるのと同時に走って帰った彼女。
 どちらかひとつだけなら、あるいは他の理由があるのかもしれない。だが両方合わせると答えはひとつだった。
「…………どうして」
「さあ、どうしてかしら。でも不思議よね。
 もし彼女がセイバーなら、わたしたちから逃げる理由はない。昼休みも、放課後もね。むしろ待ってるなり、会いに来るなりが普通だと思うわ。
 逆に彼女がセイバーでないなら、やっぱり逃げる理由はない。なんで初対面の相手から逃げなくちゃいけないの? 帰りだってそうよ。せいぜい昼にたった一分も会ってない相手から。
 ………衛宮くん。あの短い時間で、よっぽどあの子に嫌われることでもしたのかしら」
 茶化すように意地悪く笑う遠坂。冗談だとわかってるけど、ついムキになって言い返す。
「そんなわけないだろ。遠坂だって見てたじゃないか」
「どうかしらねー。初対面の女の子を追いかけ回すなんて、嫌われて当然だし」
 きしし、とあくまがなお笑みを深くした。くそう、からかいやがって。
 ジト目で睨んでいると、遠坂はふいに表情を真面目に戻した。
「――ま、いずれにしてもわからない事だらけよ。その中でも一番わからない事は――」
「あいつが誰か、って事か?」
 後を継いだ俺の言葉に、小さく遠坂は頷く。
 たしかにそれが一番の問題だ。
 セイバーによく似た少女。いや、似てるなんてもんじゃない。生き別れの双子だってあそこまで似ないだろう。
 けれどセイバーはたしかに自分の時代へ還っていった。それはしっかりと見届けている。
 ならばあいつがここにいるはずはない。頭ではそうわかっている。
 それでも、セイバーが戻ってきたんじゃないかと思えるぐらい、あの少女はそっくりだった。
「……………………」
「……………………」
 二人とも後の言葉が続かない。
 何かを言いたい。けれど頭の中がぐちゃぐちゃで、何を言ったらいいのかわからない。
 いや、何を言いたいのかすらわからない。
 ただただ、あの少女の面影が脳裏に蘇る。
 信じられないものを見たという、驚きと混乱と怯えの表情―――

 ピンポーーーン。

 その時、玄関のチャイムが来客を報せる。次いで。
「お邪魔します」
 同じ場所から女の子の声がした。
 反射的に思考を放棄し、そちらを見る。俺と遠坂が見守る中、想像通りの人物が姿を現す。
 その人物は、居間に陣取る俺たちを―――正しくは遠坂を見て、目を丸くした。
「遠坂――先輩」
「こんにちは間桐さん。わたしもお邪魔しているわ」
 遠坂を見た桜は驚きをかくせない。一方の遠坂は平然としたものだ。なんだかいつかも見た構図のような気がする。
「…………えっと、先輩?」
「あー、その、なんだ。ちょっと遠坂に相談に乗ってもらいたいことがあって、だな」
「ええ。今夜はわたしもここでごちそうになるわ。一人分の追加、いいかしら?」
「え……あ、はい。も、もちろんです」
 桜は突然一人増えた食客に驚きを隠せなかったが、そうとわかれば食べさせる相手が増えて嬉しいのだろう、喜び勇んで夕飯の準備に取り掛かった。
 桜がエプロンをつけて台所に消えると、ほどなくしてまな板を包丁でたたく音が聞こえてくる。
 遠坂が小さく目配せをしてきた。桜がいなくなるまで今の話は保留、ということだろう。
 俺も頷く。一般人である桜や藤ねえには、セイバーは『故郷のイギリスに帰った』という話しかしていない。彼女達の前で、セイバーかもしれない少女の話などできないだろう。
 しかしじっと座って待っているのも手持ち無沙汰だし、どうにも落ちつかない。いつも食事の準備をさせてもらえない時は落ち着かないものだが、今日はあんなことがあっていつも以上に座ってられないのだ。
 自分のエプロンを取り出して、桜の隣に立つ。
「桜。俺も手伝わせてくれ」
「あ、わたし一人でも大丈夫です」
「いや、やらせて欲しいんだ」
 体を動かしていれば、少しは気もまぎれるだろう。
 桜はいつになく強引な俺に首をかしげていたが、
「じゃあジャガイモの皮をむいてくれますか?」
「ああ。何作るんだ?」
「今日はマッシュポテトにしてみようかと思うんです」
「それじゃ皮を剥いた後はつぶせばいいんだな」
 いいストレス解消になりそうだ。
 茹でたジャガイモの皮を包丁で剥いていく。
 半分ほど剥いたところで、桜が声をかけてきた。
「そういえば先輩。今日わたしのクラスに留学生が来たんですよ」
 ぴたり。
 思わず手が止まる。
 ――――そうだ。たしか桜のクラスは――――!
「本当に!?」
「と、遠坂先輩!?」
 気がつけば、まるで瞬間移動でもしたかのような素早さで、遠坂が桜に詰め寄っていた。
 そう。桜のクラスは二年B組。
 あの少女が逃げ込んだクラス、だった。
「どうしたんですか、遠坂先輩?」
「あの留学生の事、桜は知ってるの!?」
「知ってるってほどではありませんけど……。
 あ、遠坂先輩も彼女を見たんですね?」
 遠坂の勢いに翻弄されていた桜は、そこに気付くと納得がいったように微笑を見せた。
「わたしもビックリしました。本当にセイバーさんとそっくりなんですから。
 だからつい、『もしかしてセイバーさんですか?』って聞いてみたんです」
「それで!?」
 遠坂が身を乗り出す。普段の優雅さをかなぐり捨てる必死な形相。
 ごくり、と自分の喉から音が聞こえた。そこで初めて、さっきまで息を止めていたことに気づく。
 桜の唇が動くのが、スローモーションのようにゆっくりと感じられる。


「別人でした。
 わたしのこと知りませんでしたし、名前も”セイバー”じゃありませんでしたから」


「…………あ…………そう」
 落胆したような、安堵したような、遠坂の吐息混じりの声が漏れる。
 俺としても心境は似たようなものだった。
 やはりそう都合のいい話があるわけないんだ。
 彼女は、セイバーとは別人で。
 容姿の一致は、単なる偶然だったんだろう。
 ほら、世界には三人同じ顔の人間がいるっていうし――――
「――――それで。彼女の名前、なんて言うんだって?」
 なかば義務のように、惰性のように遠坂は、雑談の話題としてそれを聞く。
 そんな遠坂に気づかないまま、桜はにっこりと笑って、


「アルトリアさん。アルトリア=ペンドラゴンさんって言うそうですよ」




次へ
戻る