――――衛宮くん。あなたの騎士からの伝言よ。
弓道部の舞台の後、やきもきしていた俺にかけられた声は、遠坂からの伝達事項だった。
――――ないと?
――――そ。貴方にとってのナイトなんて、一人しかいないでしょ?
それが誰であるか、疑う余地もない。後にも先にも、俺に騎士の礼をとってくれた人物なんて一人だけ。
ただ、遠坂が彼女を『騎士』と呼ぶことが気になった。
セイバーの生まれ変わりである少女。しかし彼女自身は、セイバーである自分を頑なに否定していたはずだ。俺にセイバーとして扱って欲しくない、と。
それを押して、遠坂は騎士という表現を使う。
思い出すのは、舞台の上での彼女の言葉。
――――主の剣である私の務めです。
忘れるはずがない。いつもそう言って、未熟なマスターを守ってくれた少女騎士のことを。
期待してしまうのは、正直なところしょうがないんじゃないかと思う。どういう心境の変化が彼女にあったかは知らないが、期待するだけならいいじゃないか。
文化祭の一日目が終わり、生徒は軽く明日の準備をした後、二日目にそなえて帰宅している。
校舎の中はほぼ無人。夕暮れの中はやる気持ちをおさえ、長い影を引きずりながら遠坂に伝えられたとおり、3−Cへ行くと。
果たして、彼女はそこにいた。
夕陽でも月の光でも、もちろん日中の太陽でも。常に空からの光を反射して、美しく輝く金髪。
そこにあったのは――日輪の少女の後ろ姿。
「悪い。待たせた」
「いいえ」
背中を向けたまま、彼女は返事をした。
そしてゆっくりと。こちらへ振り返る。
もう何度も見てきた聖緑の瞳に射抜かれる。それは今日まで何度もあったことのはずなのに。
なぜか、初めてセイバーと会ったあの日を思い出させて、ドキリとした。
「お呼び立てしてすみません。シロウにどうしても伝えたい事がありまして」
「それって……」
「はい。どうか私の話を聞いてほしい」
無言で頷く。俺も話してほしい。おまえがずっと胸に抱え込んで、苦しんできたものを。
「シロウには謝らねばなりません。私はずっと、貴方を傷つけていた」
「そんなこと、」
「いえ。貴方の想いを拒むたび、シロウは辛そうな顔をしていました。シロウのその苦しみは、まぎれもなく私のせいなのです。貴方は私を恨んでいい。むしろそれが当然です」
俺の言葉を遮って、少女は悲しそうな顔でうつむいた。
――ほら、またその顔をする。
たしかに辛かったのは本当だ。どうしてわかってくれないのかと。
セイバーだから好きになったんじゃない。今の彼女を好きになって何がいけないんだとたくさん悩まされた。
でも、俺に拒絶の言葉を投げつけるたびに。
そうやって拒絶する彼女の方がずっと泣きそうな顔をしていた。
どうしても、思い出すのはあの時の顔。傷だらけになって、それでも戦うセイバーや、あの橋の上で彼女と二度もケンカした顔が思い出されて。そんな顔を俺がさせている方が辛かった。
「逆だろ。俺が自分の気持ちを押し付けて、おまえを苦しめてたんだ」
「いいえ。……本当は嬉しかったのです。シロウが私を好きになってくれたことも、過去のセイバーではなく今の『私』を見てくれたことも。
貴方は過去を大切にしつつも、過去にこだわってなどいなかった。
……こだわっていたのは、本当は私の方だった」
窓から差し込む夕暮れが、少女の髪を朱金に染める。逆光で細かい顔の表情までは見えない。それでも彼女の顔が切なそうなのは見てとれた。
「貴方の想いを拒み続けていたのは、それが貴方にとっての最善だと思ったからです。
知ってのとおり、今の私には竜の因子も、魔力もない。あの頃のような騎士としての『セイバー』でも『アーサー王』でもない。昔戦った技術も経験も、欠片ほどしか残っていません」
そんなのは気づいてる。
でも、それがどうしたっていうんだ。
彼女はわずかに声を震わせながら続ける。それを告白するのが罪であるかのように。何かを失うことを恐れているかのように。
「自分の過去のことは、全て夢で知りました。それは今の私から見ても、充分己の在り方に誇れるものだった。あの時の私のままならば、貴方の傍にいるのをためらうものではなかったでしょう。
でも今は違う。今の私はあの時の、シロウの知っているままの『セイバー』ではない。
十七年も普通の人間として過ごした今の私は、もはやアーサー王という英雄ではなく、ただの一人の人間です。あの頃ほどの強い理想もなく、あの頃ほどの強い心もない。迷いながら進み、時に間違えては後悔する、ただの人間でしかありません。
そんな私に貴方が『セイバー』を重ねることは、貴方の中の『セイバー』をいつか損ねることになる。あの日シロウに背中を押してもらい、王としての誇りを取り戻した『セイバー』を、普通の人間にしてしまいたくなかったのです」
小さく首を横に振る。
そんなことはない。
俺が夢で見たアーサー王は、たしかに迷いのない人間だった。目指した理想へ向けて一度も振り返らず、立ち止まらず、鮮やかに走り続けた誇り高き英雄だった。
しかし俺が出会った『セイバー』は、自らの王の道に迷い、間違いをおそらく気づきつつも聖杯を求めた、見惚れるほど強くて儚いほどに弱い、一人の少女だった。
いつかの彼女の言葉を思い出す。
――――貴方の愛した『セイバー』は、もう、この世のどこにもいないのです。
あのときは、彼女をセイバーの生まれ変わりとして見てしまう俺を諫めて言っていたのかと思っていたけれど。
もしかすると、あれは彼女自身への自戒でもあったのかもしれない。
自分はセイバーではないと。頑なに、自分自身へ言い聞かせる言葉。
逆に言えば。
それは、自分が『セイバー』だと、誰よりも知っていたからではないだろうか。
その昔、本当は戦いの嫌いなセイバーが、自分は戦うためだけの存在だと宣言して自分や周囲を誤魔化していた事を、彼女自身ですら気付けなかったように。
俺の否定は、単なる慰めとしかとってもらえなかったのか。彼女の顔からはまだ憂いが消えない。
――いや。違う。
彼女の顔に浮かぶのは、憂いではなく。
「……この決断が、後で貴方を今よりもっと苦しめるかもしれないと思うと、私は怖い。
けれどもしもシロウが、こんな私を――『ただの少女でしかないセイバー』でも許容してくれるなら」
その表情には、固い決意と。
それを受け止めてくれるのかという不安があった。
「私はシロウの傍で、貴方を守りたい。逃げることでではなく、戦うことで貴方を守りたいのです。
すでに力なき身ではありますが、万一の時は盾の役割ぐらいはできます。私という存在をかけて、シロウを守りたい」
「なっ、バカ、女の子が盾になるなんて言うな!」
彼女の言い分に思わず声を荒らげる。
まったく、いつまでたってもなんでこいつはこうなんだ。せっかく女の子だと自覚したなら、もう少し戦うことより守られることを覚えたって誰も文句は言わないのに。
まして他人の盾になるなんて、冗談でも言ってほしくない。
「そもそもお前はもう戦う必要なんてないだろ。せっかく平和な時代に生まれてこれたのに――」
「いいえ。私はシロウを守りたいのです。シロウの理想は大きく、ゆえに困難もきっと大きい。だから私は、貴方のために戦いたい。
それが命を介した戦いではなくとも、シロウのために尽力したい。いつか貴方の理想に手が届くとき、傍で見ていたいのです」
「……………………」
いつしか、彼女の顔からは不安も憂いも消えていた。
夕陽に照らされて朱金色に輝きながら、少女は祈るように言葉を紡ぐ。
それは彼女の誓い。
今はまだ、俺の答えがない以上、願いという形でしかないけれど。
彼女自身には一片の偽りも誇張もない、それは確かな誓いだった。
強い彼女の意志を顕わした、俺を射抜く澄んだ聖緑の瞳。それはいつかの遠い日と、先日俺の理想を信じていると断言してくれたときに見たものと同じ。
声もなく彼女を見つめる。あまりにも綺麗な誓いの瞬間から目を離せない。
二人だけの教室に響く声は、いつかの日を思い出させる。
『――これより我が剣は貴方と共にあり――』
かつての約束を。
形を変え、言葉を変え、けれど心は同じまま。
もう一度誓おうとしてくれている、一人の少女。
あの時と違う柔らかい声に全身を包まれる。心臓は壊れそうなぐらい早く鼓動を刻んでいた。
彼女の声は驚くほど優しい。まるで気持ちの方が先に俺を抱きしめているかのように。
少女は胸へ手を当てて静かに告げる。
「過去は取り戻せない、と貴方は言った。
そんな貴方にこんな事を言うのは、もしかしたら罪なのかもしれない。
けれど、もしも―――」
さっきまで柔らかかった口調が、ふいに固さを増し。
「…………もう一度。赦されるのならば」
声にのせられた言葉も、眼差しも、あくまで真摯なもの。
しかしなぜだろう。
本来ならば表情の読めない平坦な口調のその中に。
おさえきれない切望と、溢れんばかりの愛情が感じとれたのは。
「貴方を、好きになってもいいですか?」
もう一度。それはどの時点からだろうか。
黄金の朝日の中で、俺に別れを告げた時からか。
先日の橋の上で、告白をはね除けた時からか。
ああ、でもどちらにしたって、答えだけは決まっている。
「そんなのいいに決まってるだろ。
俺も、きっと何度でもお前を好きになる」
この気高くも高潔な魂を。
眩しいほど清らかな精神を。
強さの裏に隠された弱さと、弱さを抱えながら走り抜ける強さを。
触れるたび、愛おしくなる。
出会うたび、好きになる。
二度でも、三度でも――――何度でも。
昨日より今日、今日より明日と。ずっと、ずっと。
本当はすぐにでも駆け寄って抱き締めたいのを必死に耐え、一歩一歩近づいてゆく。
彼女は、逃げなかった。
理性を強くもって、静かに彼女の眼前へ立つ。小さな少女をゆっくり見下ろす。
視線が絡む。聖緑の瞳の中に俺が映っているのが見えた。
「俺も、お前のことを愛してる」
思いをこめてはっきり言った。自分の胸の中を簡潔に。
そう告げると、少女の顔が花のようにほころんだ。
「――――私もです。貴方を、愛しています」
それが限界。
衝動のまま、強く、強く彼女を抱き締めた。
彼女の躰に触れたとたん、女の子の甘い香りが優しく鼻孔をくすぐる。
……それはセイバーのものとは違っていた。
やはり彼女は、かつての『セイバー』そのままではないのだろう。
けれど人は変わっていく。一生のうち何度でも変わっていく。
自分では気付かないだけで、俺も、周囲のみんなも、きっと少しずつ変わっているのだ。
時を経て新しいものを入れていけば、その分昔と全く同じではいられない。人は立ち止まってはいられない。
けれど愛したものが変わらないのであれば。
今この腕の中にある柔らかい熱が、あの頃と変わらないように。
最も大切な、根幹のところが変わらないのであれば。
そんな些事など、どうして気になるというのか。
教室に差し込む夕陽は次第に光度を落としてゆく。
少しずつ闇色が広がっていく部屋の中。
今度は月の光が入り込み、教室の中を幻想的に照らすのだろう。
あの始まりの日の、土蔵にも似た。
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