秋も深まってきたというのに、満員御礼の体育館は少し蒸し暑い。
 だがこの舞台裏で息苦しさを感じる者は、決してこの空気だけが原因でそうなっているのではない。
 満員御礼。それはつまり、たくさんの観客が入ったという意味での満員御礼。
 文化祭当日、大勢の前で演劇を披露するという大役に、弓道部一同は空気をピンと張り詰めながら出番を待っていた。
 ちょっとつつけば割れそうな風船を彷彿とさせる空気の片隅で、赤毛の少年が呆れた声をあげる。
「なに考えてるんだ、遠坂のやつ…………」
 額をおさえながら、はあ、と大きなためいきと共に漏らされた言葉は、士郎の目の前にある舞台衣装の感想である。
 劇の目玉でもある剣舞を務めるアルトリアは、他の護衛役の美綴実典や敵役の士郎より、少しだけ目立つ衣装に身を包んでいる。そうすることでより一層、彼女が引き立つというわけだ。
 そして衣装担当でもある遠坂凛が選んだのは。

「……なあ、これってどう見ても……」
「はい。私にも見覚えがあります」

 アルトリアも苦笑を浮かべた。立ち回りがしやすいようなズボン姿の彼女は、少女騎士というより男装の騎士にも見える。しかしそんなことは問題ではない。
 彼女へ渡された衣装は、動きやすいズボンとシャツ。そして他の二人にはない、彼女だけの衣装がひとつある。
 苦笑するアルトリアの胸には、白銀の甲冑が光っていた。
 それも青い塗料で、よく見知った形が描かれている。
 今年の二月。冬木の町を駆け抜けた、人に在らざる少女騎士――騎士王の甲冑に似せて作られたそれを見て、士郎はもう一度呆れ顔を見せる。

「よりによってこれでなくてもいいのに……他に見覚えのあるヤツがいたらどうすんだ」
「私も、なぜこのデザインにしたのか凛に聞いたことがあります。なんでもこのデザインしか思い浮かばなかったのだとか。彼女が言うには、『藤村先生に見せてもコスプレだと思ってたみたいだからバレたりしない』と」
「あいつ……」
 その『あいつ』を思い出しているのだろうか。士郎の顔がムスッと不機嫌そうなものとなった。
 凛にどのような気持ちがあったのかはわからない。これで少しはセイバーを身近に感じて欲しいという意図があったのか、はたまた本当にこのデザインしか出てこなかったのかもしれない。
 けれどこれを着て、まあいいか、と思えるのは、アルトリア自身驚くべき心境の変化だった。
 ――もう赦されないと思っていた。この甲冑をまとうことは。
 しかし。

「まったく、凛にも困ったものです。しかしこれはこれで、なんだか昔を思い出して懐かしい気もします」

 へ? と、士郎は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
 そんな彼に小さく微笑を返した。
 士郎が驚くのも当然だ。彼女が覚えているかぎり、『アルトリア』が『セイバー』を肯定的に話すのはこれが初めてなのだから。
 彼が動揺から立ち直るより早く、

「お待たせいたしました。次は弓道部による演劇、『チェリー・パイ』を上演いたします」

 放送部の生徒のアナウンスが舞台裏まで響き渡る。
「行きましょうシロウ。私たちは私たちの役割を果たさなければ」
「あっ……ああ」
 まだ頭の中を整理しきれていない士郎を促し、アルトリアたちは移動を始めた。








「このわたしが隣国へ嫁げば、戦いは終わるというのですね!」
 舞台の上ではお姫さま役の桜が、懸命にセリフをしゃべっている。
 スポットライトの明かりで舞台の上は明るいが、その分、左右の舞台袖は暗い。反対側の舞台袖にいる人を見るのは難しく、輪郭がようやく見える程度だ。
 アルトリアは舞台上手の袖で待機しながら、下手にいるはずの士郎を探した。
 台本ではこの後、隣国へ向かう姫の護衛役としてアルトリアが、その一行を襲う敵役として士郎が出てくる手はずとなっている。
 目をこらして離れた場所の闇を凝視すると、ぼんやりとした人の影が判別できた。向こうの袖では士郎も自分の出番を待っているはずだ。

 昨日のリハーサルで士郎と打ち合っていたとき不意に怖くなったのは、打ち合いに対する士郎の意気込みが彼の言葉そのものに思えてしまったためだ。思い出せばもっと前から士郎の剣はそうだった。何度セイバーに負けても屈することなく、その強情さに彼女も呆れるほどだった。

「シロウ、貴方の心を私に見せてください」
 もう一度。過去の記憶ではなく、今この目で。
 正面から打ち合えば、きっと彼の心根がわかる。
 もう一度、あの強い心を見せてもらえれば。あの不屈の彼自身を目の当たりにすれば。
 きっと今、自分の抱えている気持ちにも、はっきりと整理がつけられるような気がしたのだ。

 着々と舞台は進み、次の場面は姫が隣国に嫁ぐ道中となる。いよいよアルトリアたちの出番が来た。
 一度、舞台の役者が全員下がり、裏方役の生徒たちがここぞとばかりに舞台のベニヤ板を取り替えてゆく。城のテーブルや椅子を描いたものから、草や木を描いたものに。
 大きな馬車の絵のベニヤ板の後ろに、桜と乳母役の綾子がスタンバイする。アルトリアは彼女たちと馬車の絵の手前側だ。これがつまり、『姫の馬車と護衛』である。
 舞台に一同が出ると、愛想のいい生徒数人から拍手が送られる。綾子と桜が台詞をしゃべる。
「姫様、隣国まであともう少しでございます」
「そうなの。でも怖いわ。このあたりには盗賊が出るのでしょう?」
「ええ。しかし大丈夫。我々には頼もしい護衛が――」
 綾子の台詞を遮るように。
「待て、そこの馬車。止まれ止まれ!!」
 少し棒読みの感の残る台詞と共に、敵役の士郎が舞台へ登場した。手にはもちろん竹刀を携えている。
 台本通りアルトリアも一歩前へ出て、腰の竹刀を引き抜く。

「我が主の行く手を遮る者は蹴散らしてくれる!」

 直後、舞台の上に曲が流れ出す。勇壮なリズムに乗ってアルトリアは強く地を蹴り、かつての主に襲いかかった。
 練習の時には違和感のあった言葉が、しっくりと胸に落ちる。

 この感覚を知っている。
 誰かのために剣を振るうこと。大切なものを守るため、何かを成し遂げるために戦う厳粛な昂揚感を、なぜ忘れていたのだろう。
 『彼女』が剣を執ったのは、まさにそのためだけだったというのに。

 今、『彼女』の中にはあの時と同じ気持ちがある。
 衛宮士郎を守りたい。その真っ直ぐな心根と歪んだ生き方ゆえに、傷だらけの人生を送るであろう彼を守りたい。
 そもそも士郎をああまで拒絶したことも、元を正せば士郎の誇りを守りたかったからなのだ。方向性と方法に大きく難があったと今なら認めるが、彼女の気持ちは最初からただひとつ。
 それが『セイバー』の気持ちなのか、『アルトリア』の気持ちなのかはわからない。ただただ胸に湧き上がる、たしかな『彼女』の気持ちだった。

 構えた竹刀を大げさなまでの大上段に振りかぶり、真っ直ぐ振り下ろす。打ち合わせ通りの動きに士郎はちゃんと反応した。身体の重心を後ろにとって、力強い一撃が来るのに備える。たとえ彼女からの攻撃が柔らかくとも、そう受け止めろという助言を、士郎は忠実に守ってくれている。
 彼の竹刀目がけて、パワーよりスピード重視で振り下ろした。
 軽い力で打ち込んだ竹刀は、固定された竹刀に弾かれて高い音を立てる。ハデな音をたてた方が見ている方には迫力となって伝わる。同時に勢いよく弾かれた竹刀の動きを殺さず、アルトリアは動きの向きだけを変えて、再び打ち込んだ。
 何度も連続で上がるハデな音と大振りな動きに、観客は歓声を上げる。どうやら彼女たちの考えた振り付けは、剣舞として合格点までいっているらしい。

 しかし。ここでひとつ、アルトリアに欲が出た。
 基本的にこの剣舞は、アルトリアの動きを主体として作られている。士郎はあくまでもそれを受ける役だ。彼が反撃してアルトリアに斬りかかる、という動きは振り付けにない。
 昨日のリハーサルで受けた彼からの視線は、こちらに切り込みたがっていた。あの時の彼女は、そんなことをされたくはなかったが。
 今なら思える。士郎の打ち込みを、士郎の本心を、見せてほしいと。

 ぐっ、と竹刀の柄を握り直す。打ち込む力はそのままに、スピードだけを本気で振るう。
「っ!?」
 練習より鋭く打ち込まれ、驚く士郎の顔。向けられた疑問の目に、アルトリアは不敵な笑みを返した。
 士郎には、それで伝わったらしい。瞳に力がこもる。
 彼も竹刀を握り直す。ダン! と強く士郎の足が舞台を蹴った。
 そう、それでいい。『いつも』二人の鍛錬は、むしろ士郎の方が積極的に攻めてきたものだ。
 士郎の竹刀が真っ直ぐ突っ込んでくる。そこから軽々と身を躱し、同時に彼の竹刀を打ちつけて向きを変えた。竹刀の力をおかしな方向に逃され、姿勢を崩す士郎。彼が体勢を立て直す前に、

 バシッ!

「――――ッッ!」
 痛みをこらえる士郎の息がもれる。背中に叩き込まれた竹刀の攻撃に一瞬ひるんだものの、彼は構わず体勢を直した。
 さすが、これくらいでへこたれるような根性は持っていない。アルトリアの胸に喜びが広がる。
 士郎も叩かれておきながら、この状況を楽しんでいるようだった。彼の口の端は笑みの形に持ち上がっている。
 士郎が構え直した瞬間を狙い、今度はこちらから打って出た。咄嗟に士郎が受けに回る。教科書どおり正面から斬り込むと、彼はその場で受け止めた。がっちり二本の竹刀が噛み合う。
 士郎の意識が竹刀の力比べに集中してると見るや、
「ハッ!」
 アルトリアは肩をいからせ、思い切り士郎へと体当たりをした。
「がっ!?」
 思わず声をあげながら、士郎が倒れ込む。そのまま舞台をズザザザザと三メートルぐらい滑った。
 舞台の上から小さな悲鳴が上がる。おそらくは桜のものだろう。
 しかしそんなものを意に介さず、士郎は自分の身体が止まると同時に立ち上がった。そのまま再び竹刀を構える。

 ワアアァァアアァァ……ッ!!

 剣舞よりも真剣味のある本気の試合の迫力を、観客も察したのだろう。さっきよりも大きな歓声が上がる。
 けれどそれとて、二人にはどうでも良かった。
 今のここは衛宮邸の道場。二人がやっているのは、かつて聖杯戦争のときに行っていた剣の鍛錬だった。
 士郎が斬り込んでくる。若干右に寄っているが、これは彼のフェイント、本命は左からだ。
 ひゅっ、と呼気を鋭くつき、左からの攻撃に備える。果たして士郎の攻撃は左から。狙いを読まれ、士郎は悔しそうな、けれどどこか誇らしい顔でアルトリアを見た。

 普通の人間であるアルトリアには、かつてのセイバーのような身体能力はない。単純な筋力だけで言えば士郎の方が上だ。彼に本気で打ち込まれればアルトリアの方がケガをしかねないのに、しかし彼女は楽々と士郎をあしらっていた。
 『セイバー』ですら、はっきりとは覚えていない士郎のクセ。足運び、剣への力の入れ方、視線の動きなど、意識して覚えていないそれらを、しかしアルトリアは見ただけでこれからの士郎の攻撃が読める。そこをついて、彼女は優位に立っているのだ。

 竜の因子も魔力もない、ただの人間の身体。それでも、この身体は士郎との打ち合いを覚えていた。頭ではなく身体で覚えたことが、今の彼女にもはっきり息づいている。

 続いてこちらからの攻撃。力は適度に込め、しかしスピードは緩めずに何度も竹刀を振るう。
「くっ……!」
 士郎の顔が焦りに歪んだ。彼にはこのスピードについてくるのも精一杯だろう。しかし目だけは決して諦めず、これをしのいでその隙をつく、という意志に満ちていた。
 絶対に折れない、曲げない、諦めない、士郎の不屈の闘志。それは彼の意志そのものでもある。

 士郎は何も変わってはいない。彼女を女の子扱いするところも、正しいと信じたものは曲げない意志の強さも。理想に向けてまっすぐ突き進むその在り方も。
 サーヴァントは戦うための存在だというセイバーの主張を頑として聞き入れず、とうとう一緒に戦うという士郎の主張に彼女の方が折れ。
 やり直しなんてしてはいけないという、セイバーには到底受け入れられないはずだったことの意味を、その意志の強さで彼女に示した衛宮士郎。

 この呆れるほど頑固な、愛おしいほど純粋な士郎を損ねることなど、何人たりともできることではない。
 少女でしかない自分が傍にいることで、彼の誇りを汚すなんて錯覚だった。そんなことはない。それぐらいで挫けるほど、士郎の心は弱くはない。

 セイバーとして一度。アルトリアとしてもう一度。二度も彼女が心を奪われた、その尊き魂の輝きは、今も、まったく変わらぬままここにある。

 ……変わったのは自分だ。セイバーの力を失ったとはいえ、戦うことではなく逃げることで大切なものを守ろうとしていた。逃げるだけで守れるものなどないと、そんなことはずっとずっと昔から知っていたはずなのに。
 本当に守りたいものがあるのなら戦わねばならない。
 士郎を守りたいなら。身を引く以外に、きっともっと大事な方法がある。
 もしかするとまた昨日みたいに失敗することもあるだろう。そう考えれば、やはり今の自分では、もはや士郎を守りたいなどというのはおこがましいことで、彼には不釣り合いなのではないかとも不安になる。
 それでも、これは譲れない。本当に恐いのは失敗することではなく、失敗を恐れるあまり動けないまま、できたかもしれない事が成せぬ事。

 何度も繰り返されるアルトリアの連撃に、そろそろ士郎は限界に達しそうだった。その前に攻撃をやめ、アルトリアは一度大きく後ろへ退き、彼と距離をとる。
 あえてあのまま押さず、士郎が反撃する機会を作った。おそらく体力的に彼もこれが最後と踏んだに違いない。

「行くぞ!」
「来なさい!」

 互いに声をあげ、激突を宣言する。二人の足が動き出すのはほとんど同時。大きく舞台に響き渡った踏み込みの音は、重なってひとつに聞こえた。
 間合いへ入ると同時に、士郎が竹刀を繰り出してくる。腕のリーチの都合から、彼の方が若干間合いへ入るのは早い。
 ――士郎は、ここぞ、という大勝負のとき、正面から突っ込んでくるクセがある。彼の気性を素直にあらわしたクセだ。気性としては好ましいが、戦いにおいて見破られると悪癖となる。
 アルトリアは予想通り正面から来た攻撃を、思いきり竹刀で横へと弾く。その勢いのままにもう一度、全力で士郎の竹刀を同じ方向へ打ちつけた。
「――――っ!?」
 しまった、という士郎の顔。さらにもう一撃。彼が動揺から抜け出すより先に、士郎の手を加減して叩く。それでも叩かれた手が少しの間赤くなるぐらいには力をこめた。
「づっ!」
 苦悶の声をもらし、士郎は竹刀を取り落とす。
 アルトリアはその竹刀が床へ落ちる前に、弾いて上へ跳ね上げた。
 くるるるる、と素早く回転しながら落下してくる竹刀へ、アルトリアが手を伸ばす。

 ぱしっ!

 小さな音とともに、竹刀は彼女の細い手の中におさまった。
 その曲芸技に、舞台の上下の別なく誰もが目を奪われる。それは彼女の対戦相手も例外ではない。
 本来ならば剣舞の最後に士郎が武器を叩き落とされ、丸腰となった彼が命乞いをし、アルトリアはそれを一喝して追い払うことになっている。しかし、まだ驚きが残る士郎へ、アルトリアは奪った竹刀の柄を差し出した。

「たとえ敵であれ、無用な殺生はしない。それが我が主の願いであり、主の剣である私の務めです」

 士郎の目がますます大きく見開かれる。この言葉の意味がわかったのだろうか。
 今、彼女が言った言葉は、セイバーが聖杯戦争中に言っていたことそのものなのだと。
 かつての戦いの中で、セイバーは初め、それに賛同できなかった。敵は叩けるうちに叩くべきであり、甘い油断を見せてはこちらが命取りとなる。敵を完全に無力化するのは難しく、ならば命を奪うことはやむを得ない。

 けれど士郎はそれを知りつつ、それでも全てを救いたいと願った。
 その気高い願いを、『彼女』は尊いと思ったのだ。

 主の剣。もう自分の口から出ることはあるまいと思っていた言葉がすんなりとアルトリアの唇からこぼれ落ちる。耳に馴染んだそれはまったく違和感なく己へと染み渡ってゆく。
 忘れてはいない。別のものになったわけでもない。たとえどんなに否定しようとも、彼女の身体が、魂が、どうしようもないほど『セイバー』を覚えていた。

 士郎はまだ呆然としたまま、それでも竹刀を受け取った。そんな彼に笑みを残し、アルトリアは当初の予定通り舞台の下手へと下がる。
 彼女の姿が見えなくなるかならないかのうちに。

 ドオオオオォォォッッ!

 体育館中に起こる喧噪は、歓声と拍手と興奮が作り出した。
 士郎も慌ててアルトリアとは反対側に下がってゆく。彼と彼女の出番はこれで終わりだ。
 ふう、と舞台袖で一息ついたアルトリアは、ふと顔をあげ、
「――――」
 暗がりではっきりとはわからないはずなのに。
 物言いたげな士郎の視線が、反対側の舞台袖からじっと彼女を見ているような気がしていた。








「申し訳ありませんでした。台本にはない、出過ぎた真似を……」
 舞台が跳ねて、慌ただしい舞台裏の混乱の中、アルトリアはすぐ綾子を見つけて頭を下げた。
 あれだけ練習していた剣舞の中身を勝手に剣術用の鍛錬に変えてしまったのだ。見映えや段取りなどを一切無視した剣術用の鍛錬では、舞台の目玉として不的確だったかもしれない。幸いにも舞台は続いたが、台本を書いた綾子や弓道部員は怒っているだろうとアルトリアは思っていた。
 しかし、

「あー、いいっていいって、気にしなくて。むしろすっごいウケてたし、こっちとしては結果良ければ全てよし、オールオッケー」

 穂群原でも屈指の大人物である美綴綾子は、細かいことを気にしないタイプだった。
 まして失敗してしまったならともかく、舞台は大成功で幕を下ろしたのだ。多少台本と違ったぐらいでケチをつけるほど、彼女は狭量な人間ではない。
 そんな中、今度は後ろから別の声が聞こえた。

「あ、いた!」

 二人で声の方を振り向くと、あたりの人をかき分けるようにこちらへやって来る赤毛の少年の姿。
 綾子が軽く手を上げて労をねぎらう。
「おー、衛宮。お疲れさん」
「おう、美綴もお疲れ。っ、それと……」
 チラリ、と横に移される視線。自分に焦点が合ったことに気づき、アルトリアも軽く頭を下げた。
「お疲れさまでした。シロウ」
「お、お疲れ。いや、あのさ、それより――」
 話があるんだけど、と士郎はどこか気持ちを急かしながら前置きをする。
 彼の言いたいことはわかっていた。舞台でのあの動きは、かつて聖杯戦争中、士郎の鍛錬で相手をしていたセイバーのもの。本番前の鎧についての感想のみならず、勝手に変えた舞台での動きとセリフがあれだ。どういうことなのかと問いただしたくなるのが普通だろう。
 それに関してアルトリアが口を開こうとしたとき、


「犯人確保〜〜〜〜!!」


 彼女の声を掻き消すぐらいの大声が響き、士郎が無防備な背中をはがいじめにされる。
「な、後藤!?」
「このやろう手間とらせやがって、さあ、3−Cまで来てもらおうか! ムショでお勤めが待ってるぞ!」
 なぜこんな口調なのか彼女にはよくわからないが、とどのつまりクラスの仕事を手伝え、という意味だろうか。
 人助けが身に染み付いてる士郎のことだ。おそらく空いた時間をほとんどどこかの手伝いに費やしていて、弓道部の舞台が終わったらクラスの手伝いをする約束を入れていたに違いない。
 一方の士郎は、唐突な逮捕劇に冤罪を訴え……もとい、待ったをかける。
「ちょっと待て、すぐ終わるから!」
「ダメだ、一刻の猶予もならん! オレの刑事としての勘がそう言っている!」
 ドタバタと二人は揉み合っている。このままでは決着がつくのに時間がかかりそうで、アルトリアは思案した。
 狭い舞台裏で男子生徒二人が暴れるのはなかなかに窮屈だ。それに次の演目をする団体にも迷惑がかかる。かといって後藤某の勘は当たっていて、さっきの行動の意図について説明するのもすぐには終わるまい。ならば答えはひとつ。

「シロウ、行ってください」

 それに。
 できればアルトリアも、心の準備をする時間が欲しかった。

「えっ?」
「私はもう逃げませんから」

 まっすぐ微笑むと、士郎は唖然とした顔で動きを止めた。
 久しぶりに彼の顔を正面から見た気がする。もちろん剣舞の練習などで、毎日士郎の正面には立っていたが、いつも彼女の気持ちはそこから逃げていた。こうして彼と向かい合うのは、きっと久しぶりなのだ。
 しかしそんな感慨を抱いたのも束の間。抵抗を止めた士郎はずるずると後藤刑事に引きずられていってしまった。
「よし、よく観念したな。さあ、ムショでお勤めだ。カツ丼くらいは出してやるぞ」
「あ、っく、ぜ、絶対だぞ!? 今日中に――――!」
 アルトリアに向けられた、約束を求める士郎の声は見る見る遠くなる。
 それに小さく手を振りながら。

「…………はい。必ず」

 たとえどんな結果が出ようとも。
 せめて誠意を持って決着をつけようと胸に誓った。








 窓の外では赤い夕焼けが、今日という一日を終わらせようとしている。
 遠い落日は、いつかの橋の上を連想させた。
 ――そういえば、彼と二人きりで橋の上にいて、良かった記憶が一度もない。
 戦いの最中も、先日も。いつも彼女がその思い出の最後を台無しにしてしまったのだ。彼はあんなにも懸命に彼女のことを思っていたのに、そんな彼の気持ちを踏みにじってしまった。
 ただし、そのどちらも良かれと思って、正しいと思ってした行為である。悔いる気持ちはない。
 それでも詫びる気持ちがあるのなら。

「……………………」

 これは、けじめだ。
 どういう結果に転ぼうと、今日全てを終わらせる。
 いずれにせよ、今日何かが終わり、何かが始まるだろう。
 それが何であるか決まるのは、決めるのは。
 これから彼女が相対する少年次第である。

「…………大丈夫。大丈夫です。もう、覚悟は決めました」

 先の見えない、未来がまったく予測できない事態。
 その不安に押し消されないよう、アルトリアは小さく自分に気合を入れる。
 大きく深呼吸をして、できるだけ心を静めようとする。いつのまにか鼓動の早くなった心臓を、数を数えて落ち着かせる。まるで戦いの前のような緊張感。
 そう、ある意味これは一騎打ち。吉と出るか、凶と出るか。どれだけ実力が伴っていても絶対とは言えない勝負。まして彼女は自分の実力がどれほどのものか、まったくわからない。
 己の武器は、この胸にある想いただひとつ。それがどれほど通用するかは、ぶつけて初めて結果がわかる。
「――――――――――――」

 ――ガラララッ。

 音をたてて。
 教室の扉が開かれる。
 背後からの音に飛び上がりそうになったが、これは予想していた事。

「悪い。待たせた」

 次いで彼女へとかけられる、少し低い声。
 嬉しさと緊張で、せっかく落ち着けた心臓がふたたび激しく動悸を始める。
 彼は来てくれた。

「いいえ」

 震えそうな声を精一杯の勇気で押し隠し、アルトリアは口を開く。
 さあ、一世一代の大勝負の始まりだ。





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