ガシャン
金属が物にぶつかる、耳障りな音がする。
けれど何でもいいから、とにかく音が聞きたかった。
ガシャン
なかば本能から、アルトリアは金網を鳴らす。彼女の細い指であっても、揺すられた金網は音をたててくれる。こんな静寂の中にいなくてもすむくらいの。
ガシャン
そう、こんな音のない世界で、嫌なことを思い出してしまわないための――
「……………………っ」
唇をかみしめる。何を逃避しているのか。
認めなくてはならない。士郎を傷つけたのは彼女自身。
精神のコントロールの未熟な彼女が、混乱のまま彼を傷つけた。
「………………………………」
とっさに逃げてきた屋上の金網に、軽く額をうちつける。今度はさっきよりずいぶん小さく、カシャンと音がした。
ひとつ、大きく息を吐く。よくよく耳を澄ませば、ここは無音などではない。
屋上へは校庭からの生徒たちの活気が音として伝わってくる。文化祭の準備をする生徒たちの声は、どれも楽しげで祭り前の喜びに満ちていた。
それなのになぜ、こんなにも音が――世界が遠い気がするのだろう。
――――ガチャリ。
ふいに背後から、別の音がする。
同じ金属音でも、金網を揺らした時の音とは別のもの。もっと重たい音だ。
それと対比させるかのように、高く澄んだ音がする。
「……アルトリア?」
音は、彼女の名前を呼んだ。
振り向けば、そこには黒髪の少女が立っていた。
「…………凛」
「どうしたのよ、急にいなくなったりして」
「……………………」
どうしたもこうしたもない。
彼を傷つけてしまった上、こんなみっともない顔をさらしているのでは、士郎に会えるはずもない。
思えばあの日から、ずっと彼を傷つけ続けている。
告白を突き返し、拒絶し続け。そのたびに彼が傷ついているのは、誰の目から見ても明らかだった。
毎日傷ついて。ボロボロになって。それでも立ち上がる姿は、夢の中で見た、過去に見た、戦いの記憶とまるで同じ。
あんな目に合わせてはいけないと思っていたのに。
今、彼を傷つけているのは、まぎれもなく彼女自身なのだ。
そして今日、ついには彼の身体までも――――
「凛。…………貴女は」
「――――」
「貴女は、私の事を笑いますか」
「は?」
わけがわからないと訝しげな凛の声。アルトリアは、一瞬だけうかべた自嘲を消してつぶやく。
「私は『セイバー』の記憶を得るずっと昔から、シロウの事を知っていました。何度も、何度も夢に見た。
……そう、私はシロウに憧れていたのでしょう。だから日本へ来て、彼に会ってみたかった。会えるのか、それどころか実在するかもわからなかった夢の中の彼に。
それなのに」
ぎり、と奥歯を噛み締める。自分のふがいなさに目眩すらした。
「彼に会ったとたん逃げ出し、それでも勇気を出して近づいてみればこのザマです。
セイバーではない私には彼の告白を受け入れるだけの器がない。それは自分でよくわかっています。
ならば、早く離れた方がいい。そうとわかっていながら今まで、ずるずるとここに居残ってしまった私を、凛、貴女は笑いますか」
あの日、士郎がセイバーのことを語った瞳を思い出す。
――――今の俺は、そんな二人がいてくれたから頑張れる。きっと目標に手が届くって信じられる。
彼の生き方を決定した衛宮切嗣と同じぐらい、彼の中で神聖な、特別なものとなっている『セイバー』。
それに比べて、今、自分は何をしているのか。
迷ってばかりの弱い、どこにでもいる普通の人間。それがはっきりわかってしまった。
だからもう、これ以上彼の傍にはいられない。
こんなに変わってしまった『セイバー』を見せて、彼の中の思い出まで打ち砕くことはできない。
「……………………」
凛は答えない。ただ黙って、表情ひとつ変えず、アルトリアを見ている。
沈黙の重さに耐えかね、アルトリアは再び姿勢を金網へと向けた。
それから数秒の間を置き。
スタスタと足音が響いたかと思うと、凛がアルトリアの隣までやってきた。
ただし視線は互いに合わせない。彼女もまた、金網越しに遠い夕暮れの校庭を見ている。
「貴女、後悔してるの?」
簡潔な凛の問いかけは、それゆえ深く耳に染みた。
「…………。正直、よくわかりません。
シロウに会える事を内心期待して、日本に来ました。
会えて嬉しかったし、親しくなれて嬉しかった。彼からの告白を断ると決めた時も、正しい事だと信じていた。
なのに、どこをどう間違えて、こんな事になってしまったのか」
間違った行動をしたつもりは何一つない。
けれど結果は目を覆うばかりだ。好きな相手を苦しめ、傷つけ、自らもまた責め苦を負っている。
それでも、間違った行動をしていないと言うのなら。
「おそらく、どこかに間違いがあるとするならば。
……深く考える事などなしに、彼と会おうとした最初のところがそもそも間違いだったのかもしれない。
『セイバー』ではなくなった私が、彼に近づこうなどと……見果てぬ夢で終わらせれば良かったのです」
「……………………」
間違いがあるのなら、それは最も始めの部分。
あの不思議な夢をただの夢だと片付けていれば、彼女は『アルトリア』から逸脱することはなかっただろう。
ただ、たまに不思議な夢を見るだけ。それだけの少女で大人になり、誰かと普通に結婚をし、生涯を終えていたはずだ。あの夢を、ずっと不思議に思いながら。
衛宮士郎と出会ってしまった事。それこそがこの状況の根源なのだと。
アルトリアは、自嘲の笑みに顔を歪めた。
「……………………」
凛は口を開かない。相づちすらもうたず、黙って聞いている。
遥か遠くからは生徒達の声。
風が運んできた音は、たった一瞬だけ少女たちの耳に届き、また風と共に消えてゆく。
二人の少女は動かない。互いに顔を見合わせようともしない。
そして、わずかにも永遠にも感じ取れる、短くて長い沈黙の後。
「ねえ…………『セイバー』」
凛は初めて、少女に向かい剣の英霊の名で呼びかけた。
「……私はセイバーではありません」
「いいから黙って聞きなさい。
貴女が望むのなら……その記憶、消してあげることもできるのよ」
「え?」
アルトリアが弾かれたように凛を見る。
それは聖杯戦争の時、凛が短い間だけ考えていた事だった。
教会からの帰り道。参加を表明した衛宮士郎は、あるいは遠坂凛の敵に回るかもしれない。半人前とすら呼べないへっぽこで、人の好い彼がそうなる可能性は低かったが、それでも絶対ではなかった。
桜の事を考えると士郎は殺せない。そもそも自分の手で殺せるような相手なら、ランサーにやられた時点で見殺しにしていた。
ならば令呪を奪い、聖杯戦争の記憶を全て消して、『日常』に立ち返らせる。
幸いにして、凛にはそれを為し得るだけの力があった。
もっともバーサーカーの襲撃により、彼を敵に回さない計画は同盟へと切り替わっていったのであるが。
「貴女の中にある『セイバー』の記憶を、全部封じられるとは限らない。たぶん既視感くらいは残るでしょうね。
でも少なくとも、今みたいに『セイバー』と『アルトリア』の板挟みになって悩むことはなくなる。それで十分楽になれると思うけど」
「過去から逃げても良い、と。貴女はそう言うのですか、凛」
「ええ。『セイバー』を知る人間としては辛い事だけどね。
でも貴女や士郎が悩んでいる事は、きっといつまでたっても答えが出ない。そうやって悩み続ける貴女たちを見ているのは、同じくらい苦しいの。
だったらいっそ、『セイバー』の記憶を消してしまえばいい。そうすれば貴女も士郎も、真っ白なところから新しい関係を作っていける。
貴女が今言ったとおり、間違う前の、最初の部分に戻してあげられるのよ」
「………………………………」
アルトリアは自らの二の腕を抱え込んだ。凛は動かない。
『セイバー』の記憶を失くし、『アルトリア』に戻る。忘却による過去の消去。
それは。
「どうする?」
「その提案には……頷けません」
それは、全てを無かったことにすることだから。
これまで何度も逃げてきた。力のない今の自分には、悔しくともそれが最善の策に思えたからだ。
けれど、これだけは。自分自身から逃げることだけは。
「『私』には……過去を無かったことにする事などできない。
いつかシロウが言っていました。たとえどんなに辛い事でも、置き去りにしてきた物のために、自分を曲げてはならないと」
『――――その道が。今までの自分が、間違ってなかったって信じている』
あの火事の中、誰も助けられない無力感。助けを求める人を見捨てた罪悪感。そうして一人だけ助けられた後ろめたさ。
自らの瑕と痛みと後悔と。その、己が抱え続けてきた、これからもずっと抱えていくであろう苦しみを今一度神父に見せ付けられ、聖杯ならばそれをなかったことにできると言われ。それでも誘惑をはね除けた、魂からの士郎の答え。自分が踏みつけてきたもの全てに頭を下げて、それでも、彼は道を曲げないと言い切った。
『アルトリア』のものではない、『セイバー』の記憶。けれどその光景と、懺悔するような叫びを聞いた時、『彼女』は確かに。
「『私』はシロウの言葉に、感銘を受けたのです」
その答えを美しいと思ったのだ。
尊いと、思ったのだ。
「……それじゃあ、アルトリア」
「ええ。過去は変えられず、捨てられない。だから認めます。『私』は確かに、かつてセイバーと呼ばれた存在だった。そして、おそらく今も」
必死に『セイバー』を否定したのは、ただの一少女である『セイバー』の存在があの日の士郎の決断を汚してしまいそうで恐かっただけだ。
決して『セイバー』が嫌いだったわけでも、過去の記憶が認められなかったわけでもない。
自分が『アルトリア』だからではなく、アルトリアという名が象徴する少女の部分が入り込み、『弱くなったセイバー』であるからこそ、彼の傍にはいられないと思った。
あの決断を守りたかった。過去を重んじ、失ったものを忘れないあの生き方を守りたかった。二人で戦い抜いた二週間を、あの思い出を守りたかった。
けれどあの時二人で選んだ誇りを守るために、彼女の中の『セイバー』を殺してしまったら。
その過去は、記憶は、想いは、願いは、どうなってしまうのだろう。
国を救いたいという想い。選定の剣を抜いたときの誓い。王の選定をやり直したいという迷い。士郎を守り抜くという願い。
セイバーの記憶を消すということは、その全てを捨てるということだ。
「同様に、アルトリアとして生きてきた十七年間も捨てられない。この十七年間、『私』は確かにアルトリアとして過ごしてきたのです。
アーサーやセイバーに比べると、とるに足りない平凡な時間かもしれない。それでも、私は――――」
今の両親も彼女を慈しんで育ててくれた。兄もひねくれながら妹として大切にしてくれた。誰かの助けになりたいと医者を目指したことも、夢の中で見た『シロウ』に憧れたことも、内心かすかな期待を抱いて冬木の町に来たことも。全て、アルトリアとしての十七年間である。
『アルトリア』としての十七年間と『セイバー』としての過去が、互いに『彼女』の存在を邪魔しあっているのはわかっている。
『セイバー』の記憶を消してしまえば、彼女は元のアルトリアとなる。凛の言うとおり、セイバーのしがらみから解放され、士郎の決断を傷つける怖れすら忘れて、ただの高校生として士郎の傍にいられるだろう。
『アルトリア』の記憶を消すことができるなら、たとえ身体は普通の人間のままであっても、自分は『セイバー』だと胸を張れる。セイバー以外の自分として、普通の人間として過ごした十七年の時間などという不安要素がなくなれば、あの頃と変わらぬ心のまま、余計な少女の面を持たない英雄として、士郎の目標として在り続けられるはずだ。
互いに反発しあう、『アルトリア』という少女と『セイバー』という英雄。ならばどちらかを切り捨てどちらかを残せば、いずれにせよ今のような悩みは生まれない。
それでも――――彼のあの時の答えを、美しいと思った。
ならば。
「私はあるいは間違えているのかもしれない。シロウの夢に焦がれ、その夢を叶えようとした。シロウにもっと近づきたかった。その結果、こうして彼を傷つけている。
――――それでも。
正しいと信じて進んできた以上、後から振り返って間違っていたとしても、それはきっとその時点では正しいことなのです」
後悔はしてもいい。もっと良い結果を望むことはいい。
けれど自分の行いと、自分の過去だけは決して否定してはいけない。間違いを、なかったことにしてはいけない。
どんなものであれ、過去を積み重ねて、現在が作られてきたのだから。
騎士の子アルトリアとして育った十五年。アーサー王としての十年。セイバーのサーヴァントとしての数週間。そして現代の少女アルトリアとしての十七年。
その全てで、今の『彼女』がある。
「だからこそ、私は『セイバー』の記憶を持ち続けます。たとえこれから先、どれだけ悩み苦しもうと、確かにこれは『私』の過去なのです。
かつて屠ってきた敵のためにも、戦いの折り見殺しにした民のためにも、聖杯戦争の犠牲者のためにも、そして士郎のためにも。もちろん今日まで私を育ててくれた今の両親のためにも。
私がこれまで関わってきた全ての人たちのために、私は、『セイバー』であることも『アルトリア』であることも辞めてはならない」
どんな理由で今、アルトリアの中に『セイバー』の記憶が残っているのかはわからない。しかし残っている以上、彼女はたしかに『セイバー』として生きている。
己の過去を誇るのならば。
『セイバー』も『アーサー』も『アルトリア』も、何一つ捨てられない。
アルトリアは迷いなく告げる。その瞳に強い決意の光をみなぎらせ。
いつのまにか彼女の方を向いていた凛は一瞬息を呑み、そして小さく微笑むとちょっと前にかがんでアルトリアの顔を覗きこんだ。
「ふーん……。いいんじゃない?」
「……いいのですか? 本当に?」
結局、何も解決していないのに。
これからも彼女のスタンスは変わらない。アルトリアとセイバーの間をいったりきたりする、中途半端な存在だ。
彼女はすでに『セイバー』ではない。と同時に純粋な『アルトリア』でもない。アルトリアが混じってセイバーには戻れないように、セイバーが混じってアルトリアにも戻れない。セイバーとアルトリアが両方混ざった、ゆえに明確にどちらでもない、どっちつかずの不安定な人間。
だというのに、凛は笑う。とてもとても嬉しそうに。
「そうかしら。少なくともひとつだけ変わったことがあるわ」
「???」
「貴女、これまでずっとセイバーだってことを拒み続けてきたじゃない。
これまでは『セイバーの記憶を持ったアルトリア』だったけど、はっきりセイバーを認めたことで、貴女は『セイバーでもあり、アルトリアでもある存在』になった。
セイバーとアルトリアは同じもの――貴女自身だって、答えが出たんでしょう?」
「――――――――!」
驚いてアルトリアは目を見開いた。
どちらでもない存在、ではない。凛は、セイバーとアルトリアが両方混ざった、どちらでもある存在だと言っている。
騎士王という英雄のセイバー。普通の少女であるアルトリア。王であった彼女は個としての存在を許されず、ゆえに両者は全く別個の存在で、頭から相容れないものだと思い込んでいたけれど。
凛は言う。両者はひとつの存在でいいのだと。セイバーが、ただの女の子でもいいのだと。
ふいに士郎の言葉が脳裏に蘇る。
――――お前と一緒にいるときの、今の俺って前と違うか?
――――いえ、同じです。貴方はずっと、あの頃の通りのシロウでした。
それは昨日のやりとり。どこかで覚えのある会話だと思っていたが――
「………………そうか」
思い出した。あの冬の日、一日中ずっと士郎の休日につきあって――彼はセイバーの日だと言ってくれた、初めてのデート。
先日同じぬいぐるみ屋に連れて行かれたときは、彼が自分をセイバーとしか見ていない証拠のように思えて、ずっと忘れていたけれど。
そもそも、あそこに初めて連れて行かれた理由は。
”だって女の子にはこういう場所のが似合うだろ”
”普段通りもなにも、セイバーははじめっから女の子じゃないか”
あの日、士郎はそう言った。サーヴァントとして扱って欲しい、非戦闘時でも女性扱いする必要はないと主張したセイバーに対し、彼はたしかに。
そう。士郎は初めから最後まで、ずっと『セイバー』を少女として見ていた。
女の子には戦わせられないと怒り、同じ部屋には寝られないと慌て、幸せになってほしいと愛してくれた。
セイバーがアーサー王という英雄であることを、自分より多大な力を持ったサーヴァントであることを充分知って、認めていながら、彼はずっと――――
「シロウ……」
士郎は赦してくれるだろうか。
こんな『セイバー』の存在を。
胸の奥がジンと熱くなる。頭から認めてはいけないと思っていたものが、存在が赦される希望に揺れる。
黙り込んで動かなくなってしまったアルトリアに、凛の声が優しく告げた。
「それじゃ、わたしはそろそろ行くわね。今日は衛宮邸で夕食を作る約束なの」
鮮やかに、華やかに。
同性のアルトリアでも惚れ惚れするような笑顔を残し、凛はぽかんと見ている彼女を置き去りにして立ち去った。
残された少女の口の端に、やがて小さな笑みが浮かぶ。
「…………貴女という人は…………」
まったく、呆れるほどお人好しな魔術師。
その余分を心の贅肉などと呼んで嫌っているくせに、彼女にはそちらの贅肉を取ることはできないようだ。
だからこそああまで美しい。
「…………感謝します。凛。
貴女がいてくれて、良かった」
祈るように気持ちを込めて。
アルトリアは小さく呟いた。