最初に気が付いたのは夕食の頃だったろうか。
他のことに集中していたら気づかないほどのかすかな視線。
それが食事の間中、ずっと俺に注がれているのを感じた。
「む……?」
「どうかしましたか、先輩?」
きょろきょろと視線をさまよわせた俺を不審に思ったのか、桜が食事の手をとめて問いかける。
きょとん、とした少女の大きな瞳に、とりあえず返事を返しておいた。
「いや、なんでもない。……気のせいかな」
と口では言っておいて、我ながらその言葉をちっとも信用していなかった。
今、この食卓についているのは3人。俺と桜と藤ねえ。
しかしそれとはまた別の視線を、たしかに感じる。
(結界が反応しないから、問題はないと思うけど――)
「そういえば藤村先生。イリヤちゃんはどうしました?」
考えこむ俺をよそに、向かいの席で桜が隣の藤ねえに話しかけた。藤ねえはむっと眉をよせて、
「ここに来る前、電話があったわよ。もう旅館に着いたんですって」
「ああ、この間言ってましたね。たしか温泉に行くとかなんとか……」
「そう! 藤村組のみんなで三泊四日の温泉旅行! いいなー、わたしも行きたかったのにー」
食事中にもかかわらず、ぶんぶん、と両手を振って暴れる大トラ。
その姿に二十代後半女性の持つ落ち着きはまるでない。どう見ても彼女が教える生徒と同レベル、いやそれ以下だ。
「教師が学校休んで旅行行く算段を立てるな、藤ねえ。責任ある社会人だろ、それでも」
「ううー。だから我慢したんじゃないの。でなきゃわたしだって……」
「まあまあ藤村先生。かわりにいっぱいお土産頼んだじゃないですか。それで良しとしましょう」
よしよし、と子供をなだめるように、桜が猛獣を人間に戻してくれる。うう、苦労かけるな、桜。
しかし、こうやって改めて見ると。
「三人だけ、っていうのも、ずいぶんと久しぶりだよな」
ぽつりともらした言葉に、他の二人も首肯する。
「そうですね。この家もずいぶん人が増えましたし――」
「居心地がよくて、ほとんど減らないのよね」
言って桜は野菜炒めを、藤ねえは鮭の切り身を口に運んだ。
魔術使いとしての俺の在り方を大きく変えたあの聖杯戦争以降、この家にはさらに人が増えた。
イリヤは藤ねえと一緒に毎日襲撃に来るし、遠坂も朝は来ないものの週の半分は、うちへ夕食を食べに来る。
独りでとる食事は味気ないのだろうから、俺もそのことについて言及するつもりはない。人が多いのはいいことだし。
――ご近所や同級生の一部から、ハーレムだとか大奥だとかエロ学派だとか言われることを除けば問題はない。
ともかく人数の多いのに慣れてしまっているから、いつも見慣れているイリヤが抜けただけで、妙に寂しい気持ちになる。
だって、食卓から見慣れた姿が消えたなんて――――
「この家からいなくなっちゃったのって、切嗣さんと、セイ…………」
言いかけて、藤ねえは不自然に言葉を切った。
目を泳がせて、そのまま俺をチラリと見る。
「どうかしたか、藤ねえ」
「あ、ううん、なんでもないのっっ!
そうそう、士郎、夕方に荷物届いた!? 届いたよね!?」
強引に話を別の方向へ持っていこうとしているが、その挙動不審っぷりじゃ子供だってごまかせないだろう。
聖杯戦争終結から二ヶ月。俺は三年に進級し、一週間ほど前から新しい生活が始まった。
いろいろな物を得、そして喪った聖杯戦争。けれど二ヶ月もたてば気持ちも落ちつき、自分の心に折り合いをつけて、改めて自分の道を歩いてゆくのに十分な期間だ。
だが藤ねえはその間ずっと、とある少女の名前を出すのを極端に避けようとする。何も知らないはずなのに、野生の本能で何か感じ取っているのだろうか。
全く見当違いではあるんだけど。――だって俺は――
しかしまあ、そこを突っ込んで聞くのも趣味が悪いので、俺は藤ねえのふった話題に乗ってやることにした。
「ああ、届いた。中身なんだったんだ? 『開封厳禁』なんて書いてある藤ねえの名前入り荷物なんて、開ける勇気がないからまだ開けてないんだけど」
「ふっふっふ、士郎、若さがないなー。若者なら好奇心を持って、キケンに突入するのが特権ってものなのようー」
勝手に開けたら間違いなく暴れるくせになんか言ってやがりますよこの虎は。
「お爺さまがね、わたしがお世話になるから士郎に送りなさいって。産地直送のカニさんなのだー!」
カニカニー、と言いながら両手でピースサインをする姿は、カニと言うよりバルタン星人。
ふと藤ねえの隣に視線を移すと、桜の目が輝きを増している。
「カニですか!? わたし食べたことありません! 先輩、明日のお夕飯はカニ鍋にしましょうね!」
「あー……それもいいけど。明日の夜は遅くなるからなあ……」
明日の放課後はバイトが入ってしまっている。鍋はみんなで囲むから楽しいのであって、一人で取り分けたものを食べても空しいだけである。
桜は目に見えてしおれてしまい、
「そう、ですか……そうですよね。先輩もアルバイト、お忙しいでしょうし…………」
「あ、でも! 別に俺の分だけ取り分けておいてもいいぞ!」
あんまり意気消沈されると、さすがに罪悪感を感じてしまう。
しかし桜は顔を上げて、ニッコリ微笑んだ。
「いえ、いいんです。カニはやっぱりみんな揃った時にしましょう。冷凍しておけばしばらく保つでしょうし、せっかくいただいた物ですもの」
「じゃあカニ鍋はあさってね。けってーい!」
ご近所中に響くような、鶴の一声ならぬ藤ねえの咆吼で、二日後のメニューが決定される。
「…………ん?」
その瞬間。さっきから感じていた視線が、少しだけ、強くなったような気がした。
首をひねっている間にも夕飯は終わり、桜と藤ねえが帰路につく。
後かたづけをして、なんとなくテレビを見て、風呂に入り。
――――そして、その間。
ずっとおかしな視線が、俺につきまとっていた。まるで監視でもしているかのように。
いや、正確に言えば、風呂の間は視線がなかったように思う。気がついたらその視線がなくて、なくなったかなと思っていたら、また気がつくと視線に追われていたり。
正直これはあまり気持ちのいいものじゃない。冷たい緑茶を一杯いれて、振り払うように一気にあおる。
けれど、なぜだか。
こんな状況に自分が置かれることは不安だけど、視線そのものは不快に感じなかった。
「……ま、いっか」
そんなふうに思えてしまったのも、きっとこの視線のせい。もっとイライラさせられるとか、警戒心を抱かせるとか、そういうものなら気になって眠れもしなかっただろうけど。
この視線はどうしてか時間がたつほど、あってもいいのだと思えてしまう。
生死をかけた戦いの二週間で、『彼女』に叩き込まれた感覚が、そう告げていた。
ぎぃぃ、と扉のきしむ音で目が覚める。
うっすらとまぶたを開けると、土蔵の窓から入り込む朝日がまぶしかった。
「おはようございます、先輩」
「ああ、桜か。おはよう」
首を巡らすまでもなく、枕元に座っている少女のことがわかった。
桜は嬉しそうに、まだ目の開ききっていない俺に話しかける。
「起きてくれないとまたわたしが朝食作っちゃいますよ?」
「……む。それは困る」
ここのところ、バイトが忙しいせいで、夕飯も桜にまかせることが多くなってきたのだ。この上朝飯までまかせるのは、ちょっと心苦しい。
「じゃあ、早く起きてくださいね。台所で待ってますから」
「着替えたらすぐ行く。それまで待っててくれよ」
はい。と笑顔で返事をして、桜は立ち上がった。
その後ろ姿を見送ってから、俺は上半身を起こす。
「またここで寝ちまったな……」
周りを見回すと、修理しかけのストーブと、適当に投影したガラクタがちらばっている。
ゆうべ魔術の鍛錬をした後ストーブを修理していて、そのまま眠ってしまったらしい。
最近はあたたかくなってきたんで、風邪の心配だけはないのだが、いいかげんこのクセはなおさなきゃな。
腹にかけられていた毛布を横によけようとして――
「………………あれ?」
その違和感に気づく。
おかしい。ゆうべは部屋に戻る余裕もなく寝ちまったんだから、毛布なんかかけてるはずはない。
「……桜か?」
いやいや。桜が来るのはいつも朝だ。この家に来てすぐに俺を起こしに来るのだから、毛布なんかかけないだろう。
他に来そうな面子は、ゆうべ帰ってからこの家に来てもいない。
「――なんでさ?」
わけわからん。
俺は首をかしげながら、ひとまず台所に向かう。寝起きは悪くないが、起き抜けに頭がうまく働かないのは、人間として正しい姿だと思う。
考えるのは後回しにして、まずは朝飯の準備をしなければ。
「って桜? どうしたんだ?」
台所に入ると、桜はエプロンをつけたまま、冷蔵庫の中を見て固まっていた。
俺の声を聞いて我に返ったか、こちらを振り向いた顔は困惑の色を見せている。
「あ……先輩。ちょっと見てください、これ」
桜に指さされ、冷蔵庫の中を見てみると。
「なんだよこれ」
冷蔵庫の中身が減っていた。
正確には、ニンジンやダイコンなどの食材はそのまま残っている。ゆうべの残りのおかず、つまりすぐ食べられそうな物がなくなっている。
量としては大したものじゃない。せいぜい一食の半分あるかないかぐらいだ。元々残しておいた量が少なかった、というのもあるが。
それにしたって、夜中誰もいない台所に忍びこみ、誰かがメシを食った、という事実は変わらない。
「いったい誰がこんなことを」
「藤ねえとかかな」
あの虎ならやる。やりかねない。そんな妙な確信がある。
とはいったものの、実際にやったことがあるかと言われると、さすがにそんなことは一度もない。
藤ねえは夜になれば藤村の家に帰る。夜中小腹がすいたのなら、藤村の冷蔵庫を開ければすむ話だ。わざわざうちまで来るなんておかしい。
「ま、まさか泥棒でしょうか……!?」
「いや、まさかそんなはずは」
この家には悪意ある侵入者が来ると警報を発する結界が張ってある。それをやすやすとくぐり抜けられるはずがない。
しかし他に理由も見当たらないし、そうなると謎はますます深まってゆく。
念のため他の場所も確認したが、金銭には手つかず。貴金属は元々うちにはない。
被害があった場所といえば。
「他にはご飯だけか」
なぜかというか当然というか、ゆうべの残りのご飯がきれいになくなっていた。これもせいぜい茶碗1杯分だから、たいした量じゃない。
つまり侵入者は、敵意なく我が家に忍び込み、メシを食って帰っていったということになる。
「………………なんでさ」
メシ泥棒? それってただの食い逃げとか言うんじゃないだろうか。
「本当に藤村先生じゃないんでしょうか?」
「むぅ。……違うと思うな。ほら」
流し台には、賊が使ったとおぼしき食器一式が、洗われないまま置かれていた。隅っこにきちんと積み重ねて置いてあるあたり、律儀な泥棒なのかもしれない。
それは藤ねえがうちで愛用している食器ではなかった。今は使われず、食器棚の奥にしまってあったもの。藤ねえなら自分の食器を使うはず。それを使うわけがない。
賊に食事を食べられたことより、その食器を使われたことのほうが、ひどく腹だたしかった。
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