おかしなことが立て続けに起こっても、今日が平日ならば学校は変わらず登校日である。
 時刻は12時。4時間目が終わり、日直が号令をかけた。それとほぼ同時に昼休みのチャイムが鳴り響く。
 俺はカバンから弁当を出して立ち上がった。
 教室を出ようとする俺に、背後から声がかかる。
「衛宮。今日は生徒会室に来るか?」
「あー、悪い一成。先約が入ってるんだ」
「む。そうか。たまには衛宮と共に、と思っておったのだが……。まあ良い」
「すまない。来週また誘ってくれ」
「うむ。わかった」
 一成の誘いを断って、俺は屋上に急いだ。
 ドアを開けると、ごう、と吹き込む強い風。そろそろ暖かくなってきたが、幸い他の生徒の姿は見当たらない。
 俺の先約たる遠坂の姿以外には。
「遅いわよ。士郎」
「む。そんなことないだろ。チャイムが鳴ってすぐに来たぞ」
「わたしが来るより遅かったら遅いのよ」
 なんだろう。遠坂はやたらと不機嫌っぽい。さっさと給水塔の影に行くと、俺を待たずに座り込んだ。
 遠坂にならって隣に座ると、ジロリと睨みつけられる。
「な、なんだよ?」
「ふん。なんでもないわよ。――――鈍感」
 最後の一言は口の中でつぶやかれたものだったが、俺はあえて聞こえないフリをした。
 遠坂はすでに持ってきた菓子パンの袋をやぶり、昼食を始めてしまっている。
「なあ遠坂……」
「なによ」
 なんでそんなに不機嫌なんだ? と本当は聞きたかった。しかしそう言おうものなら、何倍にも不機嫌になった視線に射抜かれ、凍死が決定してしまう。
 そんなわけで二番目に気になったことを聞いてみることにする。
「わざわざ呼び出した用ってなんだ? 何か用があって、ここに呼んだんだろ」
 今にして思えば、今朝交差点で会ったときから遠坂はずっと不機嫌だった。
 学校への道はひたすら無言。こっちからいくらか話しかけてみても、ろくに返事が返ってこない。
 あげくのはてに教室に入る直前、
『士郎。昼休み、屋上』
 などといった呼び出し方をされれば、気にならないほうがどうかしてる。
「あら。用がなきゃ衛宮君を呼び出しちゃいけないのかしら?」
 にこーーーりと浮かぶあくまの笑み。う、マズいかもしれない。
「いや、そういうわけじゃ……」
「がっかりだわー。士郎がそんなにつれない人だったなんて。たまには女の子と約束してお昼ごはん、ってのもいいんじゃない?」
 ちくちくと擬音がしそうなほどトゲのある言葉。しかしこのあくまスマイルが浮かんでる場合、彼女はネズミをいたぶる猫の心境で、つまりは楽しんでいるらしいのだ。
 これがニッコリとスキのない笑顔の場合は、怒りが頂点に達していて、つまりは俺の命の危機ってことなんだけど。
 どこをどのようにしてしまったのかはわからないが、どうも俺は藪蛇をつついてしまったらしい、というのは理解できた。まあそのおかげで遠坂のキゲンは戻りつつある。
 ――俺の心労と引き替えに。
「――――と、まあ、士郎で遊ぶのはこれくらいにして。
 ええ、もちろん用があったからよ。それもかなり重要な」
 ふと。
 遠坂が満面のあくまスマイルを消して、真剣な顔をこちらに向ける。
 それは魔術師としての、冬木の管理人としての遠坂凛。
「貴方にも、この町の魔術師として、それからわたしの弟子として聞いておいてほしいの。まあ士郎が戦力になるかどうかはわからないけど」
「戦力?」
 内心首をかしげる。なんだか物騒な単語だ。
 彼女は、そう、とひとつ頷き、
「昨日から、おかしな気配がひとつ。この町にあるのよ。それもものすごく強大な」
「なんだよそれ。おかしな気配? どこがどうおかしいんだ?」
「それがわかれば、もっと的確な表現を使ってるわよ。ともかく異質なの。……正直、こんなの初めてだわ」
 ぶるり、と遠坂が肩をひとつ震わせたのは、武者震いか、それとも――
「なんて言うか……魔力の塊、みたいな感じ。ニンゲンだとは思うんだけど、普通のニンゲンにこんな魔力は持ち得ないわ。
 もしもこの気配がニンゲンでないのなら、サーヴァントか幻想種って言われても、納得するでしょうね」
「そんなにか!?」
 思わず驚いて声をあげると、ジロリと睨め付けられた。
「ホントに鈍感よね。こんな大きな気配に気づかないなんて」
 はあ、と溜息をつき――たぶん弟子のふがいなさに呆れているんだろう――遠坂は手にしたパックのジュースを飲んだ。
「それより心配なのは……これも気づいてないでしょうけど。その気配、今朝からずっとこの近くにあるみたいなの」
「え?」
「昨日、突然現れた不審者――って、人かどうかわからないけど。ともかくソイツは昨日のうちに、町中に入ったみたい。
 そのまま一晩じっとしてたから、こちらも様子見だったんだけど、朝になってまた動き始めたわ。そしてあろうことか――」
 整った顔に緊張をみなぎらせ、遠坂は驚くべき事実を告げた。
「どうやら、わたしたちのすぐ側にいたみたいなの」
「いつから!?」
「ちょうど士郎が交差点に来るちょっと前くらいかしら。さすがに気配は隠してたみたいだけど、あんまり大きくて完全には隠し切れてなかったのよね。
 だから昨日のヤツだってすぐにわかった。
 それから、ずっとよ。学校に着いても、授業中も、昼休みに入ってからも、ずっと近くにいた。まるで見張られてる気分だったわ」
 胸の前に抜き身の剣を突き付けられてるみたいな緊迫感だった、と遠坂は言う。悪意はないけど、正体不明のソレがいつ悪意や殺意を持つかはわからない、と。
 そうなったとき自分では勝てないということを、おそらく彼女は知っているのだろう。だから恐れる。
 俺はこっそり遠坂に耳打ちした。
「……それで。そいつ、まだ見張ってるのか?」
「いいえ。今はいないわ」
 菓子パンの最後の一口を押し込んでそう言った。
「偵察と牽制と、士郎との作戦会議の時間稼ぎを兼ねて、使い魔に攻撃させてるの」
「大丈夫なのか!? それ!?」
「平気よ。普通の人間や三流魔術師相手ならカンタンに対象を殺せる使い魔だけど――」
「おい待て。」
「けどあの相手じゃあ、せいぜいこぜりあいがいいとこね。できるだけ時間を稼いでから、収集した情報を持ち帰るよう使い魔には命令してあるわ。だから今、そいつはいないの」
 そうか。今は見張ってる相手はいないのか。
 ――――と、そこで。
 俺はふと。『あの』気配もないことに気がついた。
「……なあ遠坂。関係があるかどうかわからないんだが――」
「ん? なによ」
 本当に、関係があるかはわからない。
 けれど『昨日』と『見張る』というキーワードが、俺の中でひっかかった。
 昨日から衛宮邸を見張っている気配。そいつは今、感じることができない。
 今でも家を見張っているのか。どこか全く別の場所に行ってしまったのか。あるいは。
 断言はできなかったけど、俺は遠坂に昨日からのことを話してみた。
 話を聞いて、遠坂は深く考えこむ。
「士郎の家を――?」
「ああ、そうなんだ。気配は強く感じることもあれば、まったく感じないときもある。でも…………」
「でも?」
「悪いヤツじゃない、と思う。なんていうか、気配が――」
 気配が、なんだろう。
 まるで久しぶりにどこかへ還ってきたような感覚。彩られた旧い想い出の体温を感じるような。
 そう、これは言葉で表すとするならば、たぶん――――
「士郎の家は悪意に反応する結界も張ってあるしね。今のところは信じていいかもしれないわ」
 遠坂の言葉が俺の思考を遮った。
 思わず顔を向けたときには、彼女はもう立ち上がっている。パンパン、とスカートの埃を払って、いつの間に食べ終わったのか、傍らのゴミを拾い上げる。
「けど士郎の家を見張っていたヤツとその魔力の持ち主が同じヤツかどうかはまだわからないし。そうだとしても正体不明の存在に違いはないんだから、警戒は怠らないで。
 それから、何かわかったらすぐにわたしに連絡すること。わかった?」
「………………」
 思考から戻りきれずに一瞬虚を突かれた俺を、遠坂はどう思ったのか、
「なによその顔。モンクある? 冬木の管理人への登録料と魔術指南代の未払い分として、少しぐらいは働いてくれてもいいんじゃない」
「あ、いや、文句はない。だいじょうぶだ。こっちでも気をつけるよ」
 我に返って慌てて言い繕う。このまま黙ってると後が怖い。
「ならいいわ。あんまり期待はしてないけど、しっかりね。また今夜おじゃまするから」
 ひらひら手を振って、遠坂は俺より一足先に屋上から去ってゆく。
 ふと手元を見下ろすと、弁当箱の中身はまだ半分近く残っていた。
「――遠坂のやつ、食べるの早いな」
 独り事をつぶやき、弁当を片づける。
 10分ほどして、最後のおかずを口の中に放り込んだ時。
「!」
 一瞬だけ、『あの』気配を感じた。しかしすぐにまた消える。
 けれどその一瞬が、俺にこの気配の感覚にふさわしい言葉を思い出させてくれた。
 いつも失うばかりで、この手に戻るものなどなかったから、久しく忘れていたカンカクとコトバ。
 ――――懐かしい、という想い――――
「……どうかしてるな、俺」
 頭を振って、考えを振り切る。
 なぜ思ってしまったんだろう。なぜ連想してしまったんだろう。
 この感じは――『彼女』によく似ている、と。