学校は6時間目で終わり、バスに乗って新都へ向かう。
 今日はコペンハーゲンでのバイトの日。最近は食い扶持が増えたから、ムリを言ってバイトの日を増やしてもらっている。
 その理由がおやじさんからネコさんの耳に入ったらしい。「1時間も説教されちゃったよー」と半泣きになりながら、藤ねえが食費という名のついた、およそ藤ねえの手から渡されたことのない、金の入った封筒を持ってきたのは記憶に新しい。
 できれば毎月、と願うのは、たぶん贅沢な悩みなんだろうけど。
 バスを降りて駅前方面へ歩く。深山町と違い、ここでは人混みに阻まれて真っ直ぐには歩けない。
 右も左も前も後ろも人人人人人。どうやら帰宅ラッシュのようだ。今この場では人がたくさんいて当たり前。人の気配も人の声も、当然あり得るものばかりだ。
 だから、前を歩く女性の姿も、別段不思議なものではないはず、なのに。
 ふと、その人に言いしれぬ『懐かしさ』を感じた。
 前を行く女性の髪は、金髪だった。
 ただそれだけ。髪も肩上までだし、背も『彼女』より高いし、そもそも同じ金髪でも微妙に色は違うし、白い服は似てるけどはいてるスカートの色は違うし、感じるフンイキは全くの別人だし。
 ――――それでも。
 その女性の髪が、金髪だった。ただそれだけの事実が、どうしようもなく『彼女』を――あの青い少女を思い出させる。
 知らず、足が早くなっていた。前の女性を、『彼女』の残滓を見失わないように。
 周りの人にぶつかりながら、早足で歩きだし、わずかの間が経ったとき。

「ぁっ…………!」

 後ろの方で声が上がる。
 音からして少女のもの。それも別段珍しくはない。なんたって今ここでは、人があふれかえっているのだから。
 ――――それでも。
 その声は、まだ想い出と呼ぶには新しく、日常と呼ぶには遠い、たった今脳裏に思い描いていた声と寸分違わないものだった。
「え――――?」
 思わず振り向く。雑踏の中、瞬時に描かれる『彼女』の姿。
 しかしそれは単なる幻だったらしい。瞬きをする間もなく、目にやきついていた残像は消え去った。
 そこに変わらずあるのはただ、他人に無関心な雑踏と、それを堰き止める俺を迷惑そうに見やる人の視線。
「……………………」
 わかってる。
 そんなことはわかってる。
 いるわけはない。『彼女』が、こんなところに。
 さっきの声だって、実際に響いた声じゃない。あんまり強く想っていたから、脳が勝手にテープレコーダーのように再生しただけに過ぎない。
 そんなことは、嫌になるほど、わかっている、のに――――
「セイ――――」
 バー、と。続く声を飲み込んだ。
 ここで『彼女』の名前を呼ぶのは、あんまりみっともない気がして。
 代わりに右の拳を握りしめる。強く。高ぶる思いのまま強く。
 その拳を、左手に一度、強く打ちつけてから。
 俺は踵を返し、再びコペンハーゲンに向けて歩き出した。




 冬の名残もすっかり消え、夜の空気はあたたかい季節を謳歌している。
 もっとも冬の長い冬木市では、春の夜も寒くはないという程度で、やはり昼間に比べると温度はずいぶん違っていた。
 頭を冷やして帰るには、これぐらいが丁度いい。
 来る途中にあんな出来事があったものの、バイトをしているうちに、だんだんと気持ちは落ち着いてくれた。
 しかしどうやら自分で思っているほど俺は冷静ではなかったらしい。
 普段は絶対にしないレジの打ち間違いを4度もして、お客さんやおやじさんにひたすら迷惑をかける始末。
 そのたびに平謝りする俺を、おやじさんやネコさんは笑って許してくれた。
 けれど、ネコさんがバイトの上がり際、ふとからかうようにもらした一言が、結構効いた。

 ――――エミヤんってば好きな女の子でもできたの? なんか思いつめた顔してるよ。

 正直心臓がドキリとした。そういえば彼女の親友である虎も、意外なところでバカにできない鋭さがあったっけ。
 やっぱり今日はどうかしている。なぜ今頃になって、こんなに強く思い返してしまうのか。頭から離れてくれないのか。
 それとも、元々こんな状態だったのを、自分でも知らないフリをしていただけなのか。
 たしかにずっと考えていた。たった二週間を共に駆け抜け、そして消えていった少女のことを。
 本気で愛して、幸せにしたくて、けれど叶わなかった。そのかわり互いに一番大事なものは守り切れたと信じている。
「……セイバー」
 名前を、つぶやく。口の中で転がすように。
 ただ一言だけの名前に、万感を込めて。
 あの日、朝焼けの中で別れて以来。俺の中であいつの輝きは、今も変わることがない。朝焼けの太陽が決して色褪せぬように。
 未練はない。
 後悔もない。
 けれど想いは、今も変わらずある。
 衛宮士郎には10年前のあの日から、1番大事な席がぽっかりと空いていた。『自分』というものを入れるべき、1番大事な席が。
 本来ならば誰にもある特別の、そして不動の席に何もなかった。
 だがあの戦いを経て。そこには今、セイバーがいる。
「……忘れることは、ないよな」
 10年前のあの日。全てを変えた地獄も、俺を救った切嗣の顔も、鮮明に思い出せる。
 5年前のあの日。俺が夢を形にしてやる、と告げたときの切嗣の最期も、鮮明に思い出せる。
 ならば2ヶ月前のあの日。愛していると言ってくれたセイバーの顔は、いつ忘れるというのだろう……?
 ――いや、そんなことはありえない。
 衛宮士郎には10年前のあの日から、1番大事な席がぽっかりと空いていた。『自分』というものを入れるべき、1番大事な席が。
 本来ならば決して他の誰にも変わらぬ、そんな特別席に、今もセイバーはいる。
 ……そんな特別席に、セイバーを押しのけて入ることのできる存在など、ありはしない。




 家に帰りつくと、居間では藤ねえがせんべいをかじっていた。他に人影はない。
「あれ? 藤ねえ、桜と遠坂は?」
 この時間なら、まだ2人とも家にいると思ったんだが。
 最近遠坂と桜が11年前に別れた姉妹であると公表し、堂々と姉妹のつきあいをするようになった。主にこの家で。
 なんでもまだ事情をよく知らない他人の前で、呼び名を変えたり態度を変えたりすることは抵抗があるらしい。
 気にしなくてもいいと俺は思うんだが、女心はフクザツなんだと、遠坂になんだかよくわからない説得をされてしまった。
 だから2人ともわりと積極的にこの家に集まる。そして時間の許すかぎりお茶を飲み、世間話をして帰っていく。今日もその例にもれないと思ったのに。
「桜ちゃんならもう帰ったわよ。遠坂さんは今日は来てないし」
「来てない?」
 おかしいな。たしか学校では、今夜来ると言ってたんだが。
 首をかしげ、荷物を部屋に置くため居間を出ようとしたそのとき。まるで待っていたかのように電話が鳴った。
「はい、衛宮です」
『もしもし士郎? わたしよ』
「遠坂? どうしたんだ、今夜来るんじゃなかったのか」
『………………』
 電話の向こうで不自然な沈黙。なぜかものすごく嫌な予感が、稲妻のように背中を駆け抜けた。
『許せないのよ――――』
「……え?」
『絶対許せないわーーー!! 今度こそコテンパンにしてやるんだからーーーー!!』
「どわっ!」
 慌てて受話器を耳からはなす。くっそお遠坂のヤツ、叫ぶ前に聞き取れないくらいの小声で話す、なんて高度なワザ使いやがって。これじゃあ誰だって受話器に耳を密着させてしまう。
「いきなり何すんだ遠坂!」
『士郎。わたししばらく、そっち行けないかもしれない』
「は?」
 突然の話題転換はカンベンしてくれ。わけがわからない。
「遠坂?」
『もっと強い、最強の使い魔を作ってやるわ。フフフ、それこそサーヴァント並のね…………』
 どこか据わった目つきの想像できる遠坂の説明によると。
 昼間言っていた、怪しい気配を追わせていた使い魔は、あっけなく追跡対象に捲かれた上、消されてしまったそうだ。
 おかげで相手の情報はなにひとつ手に入らなかったらしい。ただひとつ、相手がとんでもなく強い、ということを除いては。
『使い魔だってタダじゃないのよ! せっかくわりと高性能の、使い回しができるのを送り込んだのに! このまま泣き寝入りだけは絶対にしない――!』
「それで、しばらくは学校以外に外出しない、ってことか」
『そうよ。遠坂のプライドにかけて、正体を掴んでやるの。そんなわけでしばらく工房にこもるわ。じゃあね』
 がちゃん、と音をたてて電話は切れた。言いたいことを言ったら用はないらしい。
 それにしても。
「士郎ー。遠坂さんなんだってー?」
「あ、いや、たいしたことじゃない。……うん、しばらく家の都合で、こっちに来れないかもしれないってさ」
 藤ねえに適当な返事をし、もう一度考えこむ。
 遠坂だって若いとはいえ、相当な力を持った、一流とも言える魔術師だと思う。その彼女の使い魔が軽くあしらわれるなんて…………。
 何かとんでもないものが、今、冬木市にいる。それは言いしれぬ不安を呼び起こした。
 初めてサーヴァントを見た、あの時のような不安を。
 ――視線は昨日と変わらず、また俺を見ている。
 その視線が悪いものでないのは昨日のままだ。
 この不安を拭い去るには、今はそれだけが頼りだった。