そう。ここ数日のことは、わかってみれば不思議でもなんでもなかった。
 ずっと見張り続ける視線が不快ではなかったのも、何かにつけてセイバーのことを思い出したのも。
「セイバー」
 名前を呼んで、手を握る。
 自分でやっておきながらなんだけど、頬が赤くなるのがわかった。でもこれは絶対外せないことだ。
 俺と同じかそれ以上に顔を赤くしたセイバーがこちらを振り仰ぐ。
「シッ、シロウ……!?」
「ありがとな、セイバー。おとというたた寝してた俺に毛布かけてくれたの、おまえだろ?」
「あ…………」
 おとといの夜に土蔵で寝てしまった後、誰かが俺にかけてくれた毛布。明けて翌朝、メシ泥棒をした誰か。
 ああ、あの時は勝手に食器を使われた腹立たしさがあったけど、それも考えれば当たり前のことだった。
 きっと俺を見張っていたセイバーは、土蔵で寝てしまったことに気づき、部屋から毛布を持ってきてくれたんだろう。
 そして――空腹に耐えかねて、冷蔵庫の残り物を漁ってしまったのだ。食器棚の奥から、自分がいつも使っていた食器を取り出して。
 昨日の朝、誰かにセイバーの食器を使われたときはショックだった。想い出を踏みにじられたような気がしたのだ。けれどセイバーが自分の食器を使うのは、ものすごく自然なこと。
 セイバーの赤くなった頬から、わずかに血の気が引く。
「…………すみませんでしたシロウ。盗み食いなど、本来ならば決してしてはならぬことだというのに――――」
「いいさ。1500年も寝てりゃな。腹だって減るってもんだ」
 たぶんセイバーには他に食糧入手の方法が思いつかなかったのだ。
 いくらサーヴァントとして現界し、聖杯からこの時代の知識を得ているとはいえ、俺はセイバーに買い物や外食なんかさせたことがない。きっと切嗣だってそうだろう。
 いやそもそも、セイバーが金を持ってないんじゃ、方法以前に手段すらない。
 セイバーは少し上げかけた顔を再び伏せて、
「そっ……それでですね、シロウ。1500年ぶりに目覚めたため、私はこの世界で行くあてがありません。
 たしかにサーヴァントとして過ごしたことがありますから、全く不案内というわけではないのですが。
 それにもう、聖杯戦争は終わったわけですけど、私は戦ってシロウを守ることしかできないかもしれませんが、それでも、あの………………」
 ここにいて、いいですか、と。
 うつむいた頬をもう一度赤くさせながら、文脈のまとまっていないことを一息で言ったセイバーの、唇だけでつぶやかれた声にならない最後の言葉を。
 俺はたしかに読み取った。
 握ったセイバーの手に力をこめて、伏せられたままの顔を覗き込む。
「――前も言ったろ。メシだって布団だって、ちゃんとセイバーの分を用意してある。
 おまえが帰るところは俺んちだ。
 それどころかいらないエンリョして、勝手に出ていってみろ。絶対見つけ出して、連れ戻すからな」
 今繋いだ手を離さない。今度は、絶対に。
 セイバーが戻ってきて、やっと気づいた。自分がこんなにも彼女のことを欲していたのだと。
 もうこの手を離すことなど、できそうにないのだと。
「シロウ…………」
「おかえり、セイバー」
「はい……ただいま帰りました、シロウ」
 セイバーが顔を上げる。潤んだ瞳が俺を見て、柔らかく微笑む。
 ずっと見たかった、心からのセイバーの笑顔。
 ただそれだけで本当に嬉しい。
 思わず見惚れてしまった俺の耳に、遠坂の咳払いが届く。
「あ………………」
 パッ、と視線を逸らす俺とセイバー。けどやっぱり手は離していない。
 俺たちの手元をジロリと見てから、遠坂はニヤリと笑う。
 不吉な予感。エモノを見つけたあくまの笑みだ。
「見せつけてくれるわねえ。独り身には辛いわあ」
「み、見せつけてって、凛、私達はそんな……!」
「あら気にしなくていいのよセイバー。せっかく巡り会えた運命のコイビトたちを引き裂くなんてできないもの。あー、熱い熱い」
 慌てふためくセイバーと余裕の表情の遠坂。こんなセイバーを見てると、俺まで落ち着かなくなってくる。
「運命って……ちょっと大げさだぞ」
「だって考えてみればすごい確率じゃない。セイバーがこの時代を選んで起きてくるのって。
 一度目は偶然、二度目は必然って言葉があるけど、もしかして衛宮くんが呼んだのかしら?」
 にやにやとあくまの笑みが深くなってゆく。絶好調だな遠坂。
「それは違います、凛。正確に言えば、一度目は偶然ではなかった。私の鞘がシロウの中にあったため、私はシロウに呼ばれたのです。偶然と言うならば二度目の方が偶然でしょう」
「一度目は必然、二度目は偶然か……。ふうん、二度目の方が偶然なんて、まずあり得ないけどね」
 口元に手をあて、遠坂は何やら考えこみ、そのままぶつぶつ呟いている。
 俺とセイバーはふたたび顔を合わせて首をひねった。
「……凛は何を考えているのでしょうか?」
「さあなあ」
 俺にはわからない複雑なことを考えているのはおそらく間違いないだろう。しかし遠坂の場合、悩んでもしょうがないことを考えていることも多い。
 まもなく遠坂は一息ついてこっちに戻ってきた。
「まあいいわ。どうせ今考えてもわからないことなんだし。
 それにしても――」
 ちら、と視線を、セイバーの傍らにうつす。
「そのナップザックの中には、お金とか入ってなかったの?」
 魔術師マーリンがセイバーに渡したという、この世界で生きていくために必要な物一揃い。普通ならば金ぐらい入っているはずだ。今も昔も、生きていくためには元手が必要なんだから。
 セイバーも困惑ぎみに袋を見やる。
「はい。実は私も真っ先に、この中を調べたのです。しかし金銭は入っていなくて……。
 入っていたのは、私にはよくわからないものばかりでした」
「よくわからないもの?」
 遠坂は手を伸ばし、ナップザックをたぐりよせると、机の上に中身をぶちまけた。
 まず出てきたのは――どこかで見たことがある、えんじ色の手帳。
 衛宮家ではあまり馴染みがないので、実物を見るのはこれが初めてだが、誰もが知ってる黄金の文字が書かれている。
「っておい! これパスポートじゃないか!」
「しかも日本のよ。普通イギリスのじゃない?」
 中を開くと、そこには確かにセイバーの顔写真。
「ななななんですかこれは! いつの間に……!」
 撮られたおぼえがないんだろう。セイバーの顔は、困惑から混乱に変わっている。
「身分証明書、ってことか?」
 たしかにこの時代で生きていくなら、戸籍はちょっとした金より、はるかに重要な物だ。
「士郎、これ。名前の欄を見て」
「ん……?」
 遠坂に指さされた場所を注視すると。
「アルトリア=セイバー=ペンドラゴン……?」
 なんかおかしなミドルネームが入っていた。
 いや別に、俺たちにとってはおかしくもなんともない。むしろセイバーと呼ぶ俺たちと彼女の本名の間で、他人に余計な詮索をされずに済むことになってありがたいぐらいだ。
 そんな事を考えていると、遠坂はそうじゃないのよ、と前置きして、セイバーに聞こえないよう耳打ちしてきた。
「つまりこれを作った人間は、『セイバー』という名前を知ってるってことよね」
「あっ……!」
 たしかにそうだ。彼女を『セイバー』と呼ぶのは、聖杯戦争関連者――つまりこの時代の人間でしかない。
 もしこのパスポートを、魔術師マーリンが作ったというのならば。
 それは。
「他にもいろんな書類が入ってるわよ。うわ、なにこれ」
 考えをまとめる俺をよそに、遠坂が次々と、ナップザックの中身をたしかめていく。
 戸籍謄本。住民票の写し。健康保険証。大型バイクの免許証なんてものまである。
 しかもそれら全てが。
「セイバーの住所がこの家になってる……」
「決まりね。どうやってかは知らないけど、聖杯戦争のことを調べたに違いないわ」
 その上で、この書類を作り上げた、ってことか。
 でも――――いったいなんのために?
「どうかしましたか、シロウ? 凛?」
「あ、なんでもないなんでもない。それよりセイバー。貴女、お腹もいっぱいになったことだし、今度はお風呂にでも入ってきたら?」
「え?」
 こっちで出た結論を聞かせる気がないのだろう。遠坂は話を変えるように立ち上がった。
「もう2日もお風呂に入ってないんでしょ。おまけにいつまでその服着てるつもり?」
「はい……。けれど他に着替えは持っていませんし」
「じゃあわたしの服を家から持ってくるわ。前に着ていた服とよく似た春物が、どこかにしまってあるはずだから。
 あのエセ神父からもらったものだけど、構わないでしょ?」
「もちろん。服に罪はありません」
 さりげなく2人して麻婆神父をこきおろしてから、セイバーも立ち上がる。
 それじゃあ俺は、セイバーが風呂から出てくるまでに、お茶請けの準備でもしておこうか。
 2人がつれだって部屋を出て行こうとするのを見ながら、俺も立ち上がった。その瞬間。
『――少年』
 とつぜん声が聞こえた。
 老人のような青年のような、年のわからない声。しかし声にその人のすごした年月が出るのであれば、間違いなく長い月日をすごしたことを感じさせる、深みのある声だった。
 その声には聞き覚えがある。
 かつてセイバーの記憶を夢に見ていたころ、何度も聞いた魔術師の声。
 だからすぐにこれが誰の声なのかもわかった。
 思わずあたりを見回すが、セイバーも遠坂も気づいていない。
 聞こえたのは俺だけなのか?
『彼女を頼むよ、少年』
 ふたたび聞こえる声。
 しかし今度は、声よりも話している内容の方が気になった。
 彼女。それはやはり――
 一度目は偶然。二度目は必然。あるいは逆に、二度目の方が偶然。
 けれど始めから、偶然なんて存在しなかった。
 星の数ほどの可能性の中から、この時代のこの場所へ、偶然で彼女が来るはずはない。
『こうでもしないと、あの頑固者は、好きになった男のところへ行くこともできないのだから』
 声は、笑みを含んで、そう告げた。
 声の言い草に、俺もつい笑みをもらす。
「ああ。本当に――あいつらしい」



 夢の続きを、見よう。
 今度は起きても覚めないユメを。
 ユメならばどんな奇跡とて起こり得るのだから――――