「……と、散々な目に遭いました」
「た……大変だったんだな、セイバー……」
苦渋の表情で語るセイバーに、俺も遠坂も言葉がない。
頭の中でざっと世界地図を開いてみる。イギリスから西へ、ということは、まずアメリカ大陸にぶつかるはずだ。
そこからさらに西に行こうと思うなら、北アメリカか南アメリカを迂回して太平洋に出るしかない。
今ならばパナマ運河が整備されていて、そこを通ってゆくのが一般的なのだが、アーサー王の時代にはそんなものはなかった。北と南のアメリカ大陸は地続きになっていたはずだ。
イギリスは北半球だから、北アメリカ迂回路をとったんだろう。季節や海流にもよるが、普通に考えればかなり寒い。
「で、そこから先はどうなったんだ?」
「はい。3日か10日か――。どれだけ経ったかはわかりませんが……」
〜interlude〜
やがて小舟はどこかの島に到着した。
「やあ、やっと到着したね。気分はどうだい?」
「……最悪です……」
日にちをうっかり忘れるくらい長時間、波に揺られていたのだ。気分のいいはずがない。
サーヴァントとして騎乗スキルBを持つ彼女ですら、それは過酷な状況であった。
「――それで、ここはどこなのですか……?」
「どこって。君が傷を癒すべき理想郷だよ」
「理想郷?」
「とりあえず傷はふさいであるけれど、彼――モードレットにつけられた傷は深いんだ。ここで有事になるまで、ゆっくり眠って傷を治しなさい」
「……わかりました」
どことも知れぬ場所で無防備に眠るなど、今までの彼女には信じられなかった。
それでもここは……なぜか、懐かしかったから。
眠るなら、こんなところがいい。
ユメの続きを見るならば。
「いい夢が見られそうです」
懐かしい、彼の夢を。
そんな予感がした。
柔らかい笑顔を浮かべる彼女を、魔術師は同じく穏やかな顔で見つめていた。
そうして。
彼女は、魔術師の導きどおり、岸から離れた森の中に身体を横たえ。
永き眠りについた。
彼の夢を見られるようにと願いながら。
しかしその願いは叶うことなく。
次に少女が感知したのは、激しい頭痛だった。
「――っ、これは、何事ですか……!?」
頭を鈍器で殴られたような、頭蓋全体を襲う頭痛。
そのせいかわからないが、身体が重く、関節のあちこちが痛む。
どういうことだろう。こんなことは初めてだ。
跳ね起きるようにして少女は上半身を起こす。頭痛は止まらない。
「ああ、起きたのかい?」
上からふりかかる声に、顔を上げれば。
そこには、眠りにつく前と変わらぬ位置に、かの魔術師の顔があった。
「マーリンっ……! 一体なにがあったのですか!」
「とても残念だよ。私としても、君をこんな形で起こしたくはなかった」
沈痛な魔術師の表情に、彼女は覚悟を固めた。
言うまでもない。彼女はそも、そのために生き長らえることを望んだのだから。
だとすればこの痛みは、おそらく警告。ブリテンについに迫った、危急の刻を告げるための。
「私が戦いの場に赴く時が来たということですね?」
それは質問ではなく確認。
しかし。魔術師は沈鬱な顔を変えぬまま、首を横にふった。
「王よ。いま君は、頭が痛くて目が覚めたのだろう。その痛みは……
――ただの眠りすぎだ」
「……え……?」
「いやまさか私も、ここまでブリテンの平和が続くとは思わなかったからね。
君が自分で起きてくるより、私が起こす方が早いだろうと予想していたんだが」
魔術師の言っていることを未だ理解できず、呆然としている少女に向かい、魔術師は続けた。
「人間っていうのは、そういつまでも眠り続けていられるものじゃない。それが傷を癒す眠りであっても同じだ」
「わ、私はどのくらい眠っていたというのです……?」
「ざっと、1500年」
「1500年……!?」
唖然とした。50年の時すら生きていない少女にとって、1500年など数字としてしか理解できない。
「不覚です。そんなに眠りこんでいたとは――」
「さすがに身体の方が眠っていられず、起きたようだね。よく眠りすぎると頭が痛くなる、って聞いたことはないかい?」
「そ、そういえば、シロウがそんなことを言っていたような……」
あんまり長く寝ていると、頭が痛くなってきて、いつまでも寝ていられない、と。
いつかのとき、彼女のマスターはそう言っていた。
あのときは、自分にはそんな経験がないので、実感がわかなかったのだが――
「こういうことだったのですね……」
頭が痛い。手足が重い。関節が悲鳴をあげる。
およそ疲れをとるための眠りをとった後とは思えなかった。
むしろ、眠りすぎて疲れた、という表現の方がしっくりくるだろう。
「ということは、今回私が目覚めたのは、ブリテンの危機と関係は――?」
「ない。まったくない。
まあちょうどいい機会だから、少し起きて身体でも動かしたらどうかな。いざというとき、頭や関節が痛くて、おまけに勘も鈍っているというのでは、ろくに動けないからね」
「うう……」
なんだか情けない。しかし彼の言うことは正しい。そもそもこれ以上眠れないというのであれば、あとは起きているしかないではないか。
「とはいったものの、起きているとして何をすればいいのでしょうか?」
「とりあえず起きているだけでいいと思うがね。起きてる間なにをするかは、君が決めればいいだろう」
「はあ……。それでどのくらい?」
「100年ぐらいかな?」
「は……!?」
さらりと言われた言葉に、彼女の思考回路が止まる。
「1500年も眠っていたんだよ。100年ぐらい起きてなきゃ釣り合わないじゃないか。
ああそうだ。これを持っておきなさい」
どさり、と投げ渡されるナップザック。
「――これはなんですか」
「生活に必要最低限のものが入っているんだ。用意するのはなかなか大変だったよ。これがあれば、この世界でも1人で生きていける」
「待ってください! 1人で!? 私1人でということですか!?」
「そうだよ。私は別に、ここで生活をするメリットはないからね」
「だからといって、こんな見ず知らずの世界で1人きりというのは……!」
「大丈夫。君ならきっと、どの時代の男もほっておかないさ。さすがカリスマB」
「どういう意味ですかっ!? いえ、というより、それは私にどこかの男に媚びて生きろと――!」
「それじゃ〜ね〜」
「ああっ、待ちなさい、マーリンっ!」
痛む身体を無理やり動かして、少女は木陰に隠れゆく魔術師を追った。
魔術師の姿が消えた一瞬後に、それを追って木陰を覗く。けれどすでに誰もいなかった。
「……どうすればいいのでしょう……」
少女の心中を占めるのは、それだけだった。
たとえ1万の敵軍の中に100人の味方だけで孤立しても、ここまで戸惑うことはなかったかもしれない。
迷う時間はいくらでもある。だが彼女は、わずかの逡巡の後、面を上げた。
判断する材料がなにもないことに気づいたからである。
「ひとまず現状確認から始めなければ――」
周囲を見渡せば森。上を見上げれば空。
森と空の境界に、ほんのわずかになにかの建物が見えた気がする。
まずはそちらに向けて、彼女は歩き始めた。
〜interlude out〜
「……それで?」
なんだかだんだんムチャクチャな話になってきたからだろう。遠坂が額をおさえて聞いた。
「はい。とりあえず目についた建物に行ってみようと、近づいたのですが……」
いいかげん冷めてきた緑茶の、最後の一口を飲みほし、ため息まじりに声を出す。
「着いてみれば、それはイリヤスフィールの城でした」
『……は?』
今度はこちらの目が点になった。
「イリヤの城……って、もしかして郊外の森の中にある、あれか?」
「ええ。以前シロウが浚われた、あの城です。
驚きました。まさかあんなものが、あんなところにあるとは思わなかったものですから」
そりゃ驚くだろう。たとえば海外旅行中に飛行機が不時着して、民家を探して彷徨ったら、日本家屋を見つけてしまったみたいな驚きだ。
「記憶にあったとおりの道をたどり、およそ半日かけて――このあたりに着いたのは、2日前の夕方ごろでした」
2日前……?
なんとなく覚えのある符号のような気がしたが。
遠坂の声が俺の思考をかき消した。
「だったらどうしてもっと早く来なかったわけ!? まさかわたしたちに黙って、1人で生きていくつもりだったわけじゃないでしょう!?」
「それはもちろんです。でも……あの……」
セイバーは言い淀み、空になった湯飲みを手の中でくるくると回した。
単に言いにくいことを迷っているだけとはわかっていたが、なんとなく新しいお茶をつぎ足してやる。
「あ、ありがとうございます。シロウ」
「まあ、お茶でも飲んで落ち着け」
「はい」
熱いお茶を二度ほど吹いて冷まし、セイバーは一口飲んだ。
それから意を決して。
「わからなかったのです。……その、本当に私が、この家に入っていいものか」
「む。なんだそれ。俺がセイバーを追い返す、なんて思ったのか」
ちょっと声に不満が入ってしまったのは、しょうがないと思う。
たとえ誰がセイバーを追い出そうとしても、俺がそんなことは許さない。
「いえ違うのです。なんていうか……シロウが本当に、私を見てわかるのか、と」
「???」
頭にハテナマークを浮かべる。
その一方、遠坂は少し考えこんだ後、大きくうなずいた。
「なるほどね。それはたしかに不安かもしれない」
「おい、遠坂。1人で納得してないで、教えてくれ」
「つまりね。セイバーはわたしたちのことを知っている。けど『今』のわたしたちが、セイバーのことを知っているとは限らない。
もっとわかりやすく言うと、もし『今』が聖杯戦争の前だったとしたら、わたしたちはセイバーの存在すら知らなくて当たり前でしょう」
「あ」
そうか。俺たちは聖杯戦争が始まって、初めてセイバーという存在を知った。
けれど1500年ぶりに目覚めたセイバーが、たとえば聖杯戦争の前年にでも目覚めていて、その当時の俺に会ったって、俺がセイバーのことをわかるわけがない。
「……初めは、すぐにでもシロウに会いに行こうとしました。けれどこの家の前で、知らない人が出入りしているのを見て、やっとその可能性に思い至ったのです。
もしかしてこの家には、シロウでも切嗣でもない人が住んでいるかもしれない。
シロウが住んでいても、私を知らないシロウかもしれない。――あるいは、年月を経て忘れられているかもしれない。
それを確認するまで、感情のままに行動することはためらわれたのです……」
「そうか……」
それは、とても辛いことだったんじゃないだろうか。
会いたいのに、相手は自分を覚えていないかもしれない。だから気持ちを抑え込んで。
最悪の状況を常に想定する、なんて。
――想いは期待を否応なしに煽る。けれど現実はそんなに甘くない。期待が高まれば高まるほど、外れたときの落胆は大きい。
なればこそ期待をしてはいけない。
しかし。
好きな相手が目の前にいて、その想いをどうして抑えられようか?
「絶えず家を見張り、シロウの姿は確認しました。私の覚えているシロウと変わっている様子もなかったので、聖杯戦争からそれほど時が離れていないこともわかりました。
でもいくらシロウを尾行しても、聖杯戦争の前か、それとも後か、となると――」
よくわからなかった、と。
セイバーの形のいい眉が、悲しそうに歪められる。ひざに置いた手にも力が入っているようだ。
そんな彼女に向かって、遠坂が首をかしげながら、
「けど、わたしが士郎と会っているのは? 見なかったの?」
「それも見ました。しかし私には、シロウと凛が聖杯戦争以前から知り合いだった、という記憶しかありません。
貴方たち2人がどれだけ親しかったのかは、よく知らないのです」
なるほど。たしかに俺は以前から遠坂を知っていたし、遠坂も俺のことを知っていたようだった。
正確には互いに面識があっただけで、ほとんど話したこともなかった。話すようになったきっかけはセイバーを喚び出したあの夜からだ。
だがそれより前を知らないセイバーにとって、俺と遠坂が話しているのは自然なことだったのだろう。
これでイリヤでもいればすぐにわかったのかもしれないが、あいにくイリヤは2日前の朝を最後に、まだうちに来ていない。
大事な人が手を伸ばせばすぐ届くところにいる。それでも手を伸ばしてはいけないジレンマ。
セイバーだから耐えられたようなもので、内心はすごく葛藤があったのだろう。
それもきっと俺のせいで。
知らなかったとはいえ、セイバーにそんな想いをさせていたなんて、申し訳なさでいっぱいになった。俺がもっと早く気づいてやれれば、こんな目に合わせないですんだのに。