衛宮家の台所は戦場と化した。
 とりあえず買い置きしておいたパンを、バターやジャムやマーマレードとセットにして差し出す。セイバーが空腹をしのいでいるうちに米を炊き、できるだけ早く作れる総菜に取りかかる。
 幸いにも今朝下拵えした魚が冷蔵庫の中にあった。今日の昼食に使おうと思っていたものだ。それを手早く火にかける。
 手の空いた隙を使って、援軍も呼んだ。桜は弓道部の部活動に出ているし、他にうちで料理を作ってくれそうな人間を、俺は1人しか知らない。
 そうして緊急レベル特Aで呼び出した援軍は、突然の呼び出しに不機嫌そうな顔で我が家まで走ってきてくれた。
 もっともその不満顔も、居間でパンを頬ばるセイバーを見るまでのことだったが。
「せっ………………!」
 そのまま二の句が継げず、ポカンと大口を開けた遠坂は。
 きっちり10秒後に再始動し、一気にセイバーへ詰め寄った。
「ちょっとセイバー!? どういうこと!? 本物なの!? なんでここにいるのよ! どうやって帰ってきたの白状なさいっ……!」
「り、凛。それはいささか苦しい。手を離してください」
 セイバーの肩をつかみ、がっくんがっくん前後にゆさぶる遠坂。相当興奮しているらしく、目が血走っている。――あれ? 前、「どんなときでも優雅たれ」が家訓だとか言ってなかったか?
「おーい遠坂。セイバーの目を回してもらうために、おまえを呼んだんじゃないぞ」
「じゃあどういうっっ…………!」
 叫びかけて、どうやら気づいてくれたようだ。俺の目の前にある大量の食材に。
 予備のエプロンを取って、ほら、と手をふる。遠坂は不満そうな顔で俺を睨み、セイバーの手元にある食べかけのパンを見、そして大きくため息をついた。
「――――はあ。わかったわ。なんかすごく納得いかないけど、それは後回しにしてあげる。
 そのかわり、食べ終わったら全部説明してもらうわよセイバー」
「ええ。元よりそのつもりです」
 力強くうなずくセイバーに、遠坂が微笑み返す。
 心強い援軍のおかげで、なんとかセイバーの腹の虫に追い付きそうだった。
 やっとできてきた料理の数々を次々セイバーの前に並べる。セイバーはそれをかたっぱしからたいらげる。
 相変わらず一口食べては、
「ふむ……ふむ、ふむ…………」
 とうなずいていた。それは嬉しかったが、以前よりうなずくスピードが3倍増しなのはどういうわけか。
 いやそれだけ腹が減ってるっていうことなんだろうけど。
 とうぜん食べるスピードも3倍増し。前はゆっくり大量に食べるのがセイバーのスタイルだった。今回はそれにスピードが加わり、藤ねえもびっくりの食いっぷりを見せている。
 俺も遠坂も料理を作るだけで手一杯で、セイバーの食べた食器を下げる暇がない。自然セイバーの前には、食べ終わった食器が積まれて山をなしてゆく。
 その光景を見て、俺は昔なにかのアニメで見た、行き倒れキャラを思い出した。
 たとえば道に迷ったとかで数日なにも食べていない人が、人家を見つけて立ち寄る。そこで出された常人の数人前はある料理を残らずたいらげ、みんなの度肝を抜く。とかいうようなヤツ。
 そんなどこかの猿のシッポを持った宇宙人顔負けの食欲を見せたセイバーは、衛宮家の食糧を91%食べ尽くした時点で、ようやく止まってくれた。
 ごちそうさまでしたと両手を合わせ、行儀良くごあいさつ。そして。
「やはりシロウと凛の作る食事はとても美味しい。戻ってきたのだと実感がわきます」
 にっこりと幸せそうに微笑まれてしまったら。
 もう彼女が帰ってきた疑問も食糧をあらかた食われたこともどうでも良くなるあたり、男ってやつは単純かもしれない。
「おそまつさまでした。セイバー、食後のお茶飲むか? 江戸前屋のどらやきもあるぞ」
「それは嬉しい。ぜひとも――――」
「ってちょっと待ちなさいよアンタら。もしかして何か忘れてない?」
 すっかりくつろぎモードに入っていた俺たちを、遠坂がジト目で見る。
 いや悪かった。おまえの言いたいことはわかってる。だから魔術刻印を輝かせるのはやめてくれ。
「まったく……。こっちは料理しながらずっとあれこれ考えてたってのに。あんまり焦らさないでよね」
 遠坂は、わたしにもお茶、なんて言いながらとっとと居間の食卓についてしまった。食器はとりあえず洗い桶につけておいて、お茶とどらやきを持ってゆき、セイバーの隣に腰かけた。
 遠坂が真剣な顔になり、改めて問いかける。
「それで。どうやって戻って来られたの、セイバー」
 俺がお茶をそれぞれに渡し終わるのを待ってから、セイバーはおもむろに口を開いた。
「聖杯を破壊した後、私は自らの時代へと還りました。
 あのカムランの、血塗られた丘で、アーサー王として死を迎えるために――――」



 〜interlude〜


 聖剣が湖の貴婦人に返されたのだろう。全身から力が抜けていく。彼女は終わりが近いことを悟った。
 自分の人生が頭の中を素早く駆け巡る。
 決意を持って剣を抜いたこと。王として国のために働いたこと。そして自分の愛した少年のこと。
 彼と別れたかった訳ではない。共に生きることを夢想しなかった訳ではない。
 けれど彼は自分の誇りを守ろうとしてくれた。自らの気持ちを押し殺して、それでも彼女の誇りを守ろうとしたのだ。
 ならば自分には、それに答える義務がある。それこそ、自分の気持ちを押し殺してでも。
 だからアーサー王は、一片の後悔もなく最期の刻を迎えるべきだった。
 ――――ただ。
 今この時。ほんのわずかな時間だけ。
 王としてではなく、彼のことを、一時のユメを見る弱さが許されるだろうか。
「――すまないなベディヴィエール。今度の眠りは、少し、永く――」
 傍らの騎士にそう告げて。偉大なる王は眠りについた。
 おそらくは、二度とは覚めぬ、永劫の眠りに。
 騎士も、そして王自身も、そう思っていた。
 しかしそれは大きな錯覚だったのだ。

(……ん――?)
 自身の身体が揺られる感覚で、彼女は目を覚ました。
 ぎぃこ、ぎぃこ、と規則的に奏でられる、木製のなにかを動かす音。
 耳に届く水音。そして潮の香り。
 ……潮? おかしい。自分は森の中で最期の刻を迎えたはずなのに。
 なぜ、潮の香りなどするのだろう……?
「…………これは…………?」
 重いまぶたをムリに押し上げ。彼女の漏らした第一声はそれだった。
 まず視界に映ったのは、一面の海原。そして星空。
 すでに岸は見えない。かなり沖へ出ているようだ。
 自分の身体が揺れているのも道理。なにせ小舟に乗せられているのだから。
「おお、お目覚めかい。王よ」
「なっ……貴方はマーリン!? なぜここに……!」
「なぜもなにもないだろう。迎えに来たに決まっているじゃないか」
 かけられた声に驚き、飛び跳ねるように起き上がり、そこには見慣れたお抱え魔術師の姿があれば、驚愕もひとしおというもの。
 さらに、まるで多く作りすぎたおかずを隣家にお裾分けに来ました、と言う奥さんのような気軽さで。
 本当になんでもないことのような口調で、魔術師はトンデモナイことをのたまった。
「む……迎えに……?」
「そう。お迎え、というヤツさ」
 こういう場合、あの世へ連れていかれるためのお迎えなのだろうか? いやしかし、この魔術師が自分より先に死んだとは、どうしても信じられない。
 頭がグルグル回りはじめる彼女の耳に、今度は別の声が届いた。
「もう、マーリンったらイジワルなのねえ」
 今の今まで気づかなかった存在に、彼女はパッと振り向く。
「あ、貴女はたしか、湖の妖精の姫……っ!」
「ヴィヴィアンでーす♪ 王さまお元気ー♪」
 やたらカルいノリの婦人に背中をバン、と叩かれ、彼女はすこしむせた。
「ケホッ……。それで、いったいこれはどういうことです!?」
「ふむ。やはりちゃんと説明しないのはまずいね」
 いたずら好きでいつもにやにやしていた魔術師は、彼女でも数えるほどしか見たことのない、真摯な顔つきを向けてきた。
 自然、彼女の態度も真剣なものになる。この魔術師がこんな顔をするときは、間違いなく大事なことなのだ。
「君は、息子であるモードレットと戦い、相討ち同然で死んだ。それはわかるね」
「……ええ。わかっています」
 その死の間際に、彼女は聖杯を望み、しかし聖杯に願うべき望みは間違ったものだと教えられてきたのだ。
 遙か遠い国の、遙か遠い時代の少年から。
「けれど君には、もう一度チャンスが与えられているんだよ」
「……チャンス、ですか?」
「うん。ひとつはこのまま、死に行く道。
 もうひとつは、彼女の案内で理想郷に行き、やがてブリテンの危機に復活して戦う道だ」
「ブリテンの危機、とは……今のことではないのですか? このままでは、ブリテンは異民族に攻め込まれる。ひとつ間違えば、ブリテンという国名自体、消えてしまうことでしょう」
 唇を噛み締める。自らの力及ばず国を滅ぼしてしまうことは、わかっていても納得できないようだ。
 彼女にとっては想像するだに悔しい話に違いない。
「たしかに消えるかもしれない。しかし、民は残る。いつかこの世界の国がたったひとつになったとしても、民の平安に勝てるものがあるのかな?
 王よ。君は何を守りたいのかな。ブリテンという国名か? それとも民の笑顔か?」
 少女は驚いた顔で魔術師を見る。しかしその表情も、すぐに和らいだ。
 そんなものは決まっている。あの聖剣を抜いた時より、いやその前からずっと、彼女が守りたいと願ったものはそれなのだから。
「――言うまでもありません。たくさんの人が笑っていること。それが私の望んだことです」
「だろうね」
 全てわかっている、という顔で、魔術師はうなずいた。
「それで、どうする? 君にはまだ、その手段が残っているわけだけど――」
「是非もないことです。その話、受けましょう」
 王として生きた誇りを胸に、王として死ぬ。それは彼女の愛した少年に誓った事。
 しかし彼は、こうも教えてくれたのだ。もしやりなおすのならば、過去ではなく今からやりなおすべきなのだ、と。
 王として生きて、けれど王としての望みは果たしきれなかった。それを成し得る可能性があるのなら――
「王としての責務を、果たします」
「よし、話は決まった。それじゃあ行こうか。とりあえずはあっち、陽の沈む方に……」
 魔術師は――いつも彼女を困らせてきた、非常に不吉な――にやりとした笑みを浮かべた。


 それから数日間。
 彼女は海原を漂う小舟の上での生活を余儀なくされた。
 なぜか食事やその他の生理的衝動がなかったのは幸いなのだが――
「マッ、マーリン!! この大波はどういうことです!?」
「どういう、と言われてもね。海が荒れれば波は立つよ」
「やだなあ王さま。知らないのー?」
「ヴィヴィアン! 貴女は湖の妖精でしょう!? なんとかできないのですか!」
「あっはっは、ここは海だもん。あたしの領域じゃないよー」
「――っ、シロウ、シロウ……!」
 またある時は、異常な寒さに襲われたりした。
「……あの、お二人とも……。寒くありませんか……?」
「うーん、寒いね。けど仕方ないね。ここを迂回しないと、この先へは行けないから」
「う、うかい……?」
「『あめりか大陸』とか言うらしいですよ王さまー♪」
「あめりか、ですか……。とても寒いところなのですね。ブリテンの冬よりも……
 ――なんだか、眠く…………」