絵描きになるのは、オレの小さいころからの夢だった。
物心ついた時には、もう絵を描いていた。たぶん、自分の名前を、『ガウリイ=ガブリエフ』と正しく書けるようになる頃には、すでにクレヨンを握っていたんじゃないだろうか。……よく覚えていないけど。
ずっと、『なにか』を描きたいと思っていた。 それを探しながらも、オレは息をするように、毎日、絵を描いていた。 「残念ですが……視力が失われています」
医者の、その宣告を聞いた時。 そして、オレは……
涙も出なかった。あまりにショックが大きすぎて。 「…………なんで?」
そう。たしか、そんなマヌケな質問をかましてしまったんだ。
兄は押し殺した声で、色もわからない、何を描いているかもわからない人間に、絵は描けない、と。
その意味が、頭に染みいった、瞬間。 オレは喉が涸れきるまで、魂(こころ)の底から絶叫していた――――
それでも、人間ってヤツは案外丈夫にできている。
今までと同じ絵を描けなくても。画家になる夢を捨てることはできなかった。 「画家になりたいんだ。勉強させてほしい」 初めて、真剣に頼んだオレの頼みを、両親はものすごくためらいながらも受け入れてくれた。
絵の具の色は匂いで覚えていたし、筆の動きでキャンバスに描いているものの形はわかった。絵を描くのに不足しているものは、何もない。
心が見た風景を、そのままキャンバスに描く。オレには街が『見えて』いた。 ……けれど。オレの絵は、他人には不評だった。
「きみの絵は、うまいんだけど……寂しいんだよ」
道に並べていたオレの絵を、覗き込んだ初老の男が言った、衝撃的な一言。 「…………『人』、か…………」
小さく呟いて、ためいきをもらす。車は、並木道は、公園のベンチはしっかり街の中に感じることができるのに。
人の存在自体はわかった。足音や気配や話し声は、『見』ようと思わなくても聞こえてきた。
あの日は、そんな決意をして、キャンバス片手に外へ出た。
四月だというのに、空から落ちてきたのは、雨ではなく雪。まるでオレの今の心のように、オレの描く絵のように、冷たい雪だった。 「それもまた、オレに似合いなのかも、しれないな」 すっかり、絵を描くことに楽しさを覚えられなくなり、ほとんど義務感のみでキャンバスをセットしてゆく。昔、これから絵を描くという高揚感で、胸を高鳴らせながらキャンバスを用意していた自分は、もうどこかへ行ってしまった。 耳をすます。街を見る。最後の絵を描くために。
しかし……オレは、その人が『人』として『見え』た。
初めて人の『色』を掴み、それに魅了された。一目惚れに近い感覚。 気がついたら、声をかけていた。 「……なあ、お前さん。オレに、お前の絵を描かせてくれないか?」
でも、オレはかまわなかった。『彼女』の持つ『色』は、口がきけるかどうかなんて関係ない。『彼女』の『色』がある限り。オレは『彼女』を感じることができた。 声もかけてもらえず、オレに『彼女』の姿が見えないとなると、普通ならある時突然、本当にそこに人がいるか、不安になるものだと思うのに。 不思議と、『彼女』の『色』は、オレの前から決して逃げなかった。
「だいじょうぶか? 今日、寒くないか?」
言葉を聞けなくても、彼女がうなずいたのはわかる。そのしぐさで、彼女の言葉がわかる。
彼女の方からしゃべりたい時は、オレよりずっと細い指が、意志を伝えようとオレの手に文字を書く。
『彼女』が動く。このアパートの扉を開けて出入りする時だけでなく、身じろぎする時も、わずかに空気の流れを感じる。 言葉なんていらない。大事なのは、『彼女』の『色』を側で感じられることだから。
ある日、『彼女』がオレの手に、書いてきた疑問。そういえば、まだ話してなかったな。 「お前さんに――『色』を感じたんだよ」 彼女が首をかしげたと、気配でわかる。オレは、その『色』を感じながら言った。
「視力を失ってから、オレは人の『色』がわからなくなった。目が見えてた頃には、人がどんな色の肌で、どんな服を着てたか、迷うことなんてなかったんだけどな。 彼女に言いたいことが伝わるとは思わなかった。自分でも、言いたいことがうまく言葉になっていない自覚があるのだから。
オレの使う『色』という意味は、たぶんオレの感覚でしかわからない。他人にわかってもらうのはムリだし、説明するのはもっと難しい。
「――ともかく、お前さんなら、描けると思ったんだ。
お世辞にも、問いかけに答えてるとは言えない、不器用な答え。
自分の胸が、『彼女』の優しい色に染まってゆくのがわかる。 絵筆をとってから、誰かに見てもらいたくて絵を描いたのは、もしかすると初めてだったかもしれない。
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