あたしは毎日、ガウリイのアパートに通った。
病院にいても、何もすることはなかったし。彼も、できるだけ早く絵を描きたがっていたし。
それになにより、ガウリイの部屋の窓辺は、とても居心地がよかったから。
毎日お昼ごはんを食べてすぐ、病院を抜けだし、夕方の門限ギリギリに帰る。外出許可はもらっていたから、誰に咎められることもない。
ただ、毎日同じ場所に通っていることは、他の人には誰も――姉ちゃんにも、言っていない。
なぜか、言う気にならなかった。ガウリイの部屋の窓辺が、とても静かで、あまりにあったかくて。その時間を邪魔されたくないから、彼と二人だけの秘密にしておきたかった、というのが、もしかすると一番近いのかもしれない。
「……よし、これでいい。あとは、仕上げだけだ。明日にはできるぞ。
見てくれるよな? オレの描いた絵を」
ガウリイの部屋に通い始めて5日目の夕方、ガウリイは絵筆を置いてそう言った。
あたしは、小さくうなずく。……そっか、完成したんだ。
絵ができあがってしまえば、もうここに来る理由はなくなってしまう。それ以前に、あたしの手術の日も明日に迫っていた。
たとえいつまでも絵が描きあがらないとしても、手術が終われば帰らなくてはならない。
そう思った瞬間、あたたかい部屋が少しだけ、寒くなった気がした。
あんまり、ここが居心地よくて、忘れていたけれど。
明日、あたしとガウリイの時間は……終わりを告げる。
「はい、それじゃあ声を出してみてください。とりあえず、『あ』、を伸ばして」
「…………あーーー」
「結構です。今日はまだ、あまりしゃべらないでくださいね。あと2、3日様子を見て、そしたら治療は終わりです」
にっこりと、白衣のおじさんが微笑む。久々に聞くあたしの声は、かなりノドに引っかかった声となっていた。
「最初はこんな声しか出ませんが、すぐに元の声が出せるようになりますよ。
ムチャして声を出させないようにしてください」
「わかりました。どうもありがとうございました、先生」
主治医の先生が、姉ちゃんに注意事項を説明する。姉ちゃんは、丁寧に頭を下げた。
ガウリイの絵ができているであろう、その日。手術も成功し、ようやくあたしの声は出るようになった。
久しぶりに声が出たのだから、ほんとはもっとおしゃべりしたいところなのだが、まだもう少し辛抱が必要なようだ。
手術の経過を見に、主治医の先生はもちろん、なぜか病院長まで来ている。
姉ちゃんが病院長にニッコリと微笑み、
「ありがとうございました、病院長先生。おかげさまで、妹の手術も成功しましたわ」
「い、いや。こちらこそ、長らく施術をお待たせして申し訳ない。成功してなによりです」
笑顔の姉ちゃんとは対照的に、病院長の口もとは引きつって、脂汗まで流している。
……そういえば……あたしが病院長に、手術の件で怒鳴り込んだ日から、ちょうど姉ちゃんが泊まりこみで、あたしの見舞いに来たんだった。
『病院長先生に、挨拶に行ってくるわね』とか言って、院長室へ行ったはずなのだが……。
……………………
いや、考えるのはやめよう。今さら考えたところで、どうなるわけでもなし。
姉ちゃんはあたしの方へ向き直ると、ゆったりと笑った。
たぶん、病院長に向けた笑顔と、ほとんど同じ表情で。
「リナ。あと2、3日で、この国ともお別れよ。
ちゃんと、帰りの準備をしておきなさいね」
う゛っっ…………!
姉ちゃんにガウリイのことは話していない。話してはいないのだが……
こりは……なんか、勘づかれてる……?
こんな笑顔で姉ちゃんに言われては、あたしにはただ、コクコクとうなずくことしか許されていなかった。
きっとあたしの口もとは引きつって、脂汗が流れていたことだろう。
軽くノックを3回。いつもなら、ガウリイはそれで扉を開けてくれるのだが、どうしてか今日は開けてくれない。
念のため、もう3回。それでもやはり、扉は開かない。
(まさか、栄養失調で倒れてたりしないでしょうね)
ちょっとだけ、ほんの少しだけ心配になって、ドアノブを回す。すると、ノブはあっさり回った。カギは開いている。そっと押すと、扉は簡単に開いた。
ガウリイは、机に突っ伏して眠っているようだ。そういえば昨日は、あの絵を完成させるんだとはりきっていたっけ。
きっと、少しでも早く仕上げたくて、夜遅くまでがんばっていたんだろう。
あどけない寝顔を見ていると、自然と笑みがこぼれる。
(バカね、カゼひいちゃうじゃない)
あたしは、彼のベッドから毛布を持ってきて、ガウリイの背中にかけてあげた。
その時、視界に入ったのは、布をかけられた一枚のキャンバス。
やっぱり、これがあたしを描いた絵なのかな。
(見ても……いいよね? どうせ、見せてくれるつもりだったみたいだし)
ガウリイは、描き途中の絵を、あたしに見せてくれなかったのだ。見せてくれ、と何度かせがんだのだが、いつも答えは同じだった。
「もうちょっと待ってくれないか? 完成したお前さんに会ってほしいんだ」
どこの吟遊詩人からもらってきたのか、そんなキザなセリフを言って。
さすがに無理やり見るわけにもいかず、おまけに彼は困ったような顔で言うものだから、強引に見ようという気にもなれず、おとなしく待っていたのだが……
描きあがった、となれば、きっと彼も止める理由はない。
ガウリイに無断で見る後ろめたさはあったけれど、それでも好奇心が勝る。自分への言い訳を思いつくかぎり並べたて、あたしはそっと、キャンバスにかけられた布を取った。
柔らかな曲線で描かれた、一枚の、人物画。
そこには――あたしじゃない『あたし』がいた。
わずかにクセのある長い髪。身体的な特徴はなにも教えていなかったけど、彼に近づいたとき、あたしの髪が触れたのだろう。長さや質感は、あたしのものとよく似ていた。
ただし、色はつややかな黒。瞳の色も、落ち着いた濃いめのグリーン。
それはいい。ガウリイに、あたしの顔は見えていないのだから、きっと想像の色なのだろう。
けれど……違っていたのは、それだけじゃなかった。
『あたし』は、あたしよりずっと大人っぽくて……パッと見て、20歳近くにも見えた。あたしの実年齢は16歳だから、同じ年の女の子で、これっくらいの外見の子はいくらでもいる。
でも、あたしは違う。背が低くて、幼い外見のせいで、今でもよく13、4に見られていた。
この絵の『あたし』とは正反対に。
もうひとつ。絵の中の『あたし』は、とても優しそうな笑みを浮かべている。たとえて言えば、月並みな表現になってしまうけど、聖母のような慈愛に満ちた、とでも言うんだろうか。
そばにいるだけで、こちらまで優しくなれそうなほど、優しい微笑み。こんな顔ができる人を、あたしは知らなかった。
『優しい』なんて、あたしとは一番対極にある言葉のひとつだ。「強そう」「元気」「明るい」など、いろいろとほめられたことはあるけど、「おしとやか」だの「やさしい」だのとは、ついぞ言われたことがない。
これは…………<<あたし>>じゃない。
…………いったい…………ダレ?
(まったく……これじゃ、モデル料もらえないじゃないの)
ちょっと苦笑して、小さく息をはく。
<<あたし>>じゃなくても、彼があたしを見てこの絵を描いたのは事実。
なぜか彼が、他の人を描いた絵だとは思わなかった。絵の具のあとが真新しいせいだろうか?
だとすれば、たぶんこれはガウリイの心の中の『あたし』なんだろう。
あたしを心で見て、彼の中に描かれた、イメージ。
しかし、それは元のあたしと似ても似つかない、別人。これでは、モデルとしてここに座っていた意味がまるでない。
普段なら、それでも座っていたことに違いない、とモデル料をせしめていたのだが――こんなに優しそうな表情をしている、彼の中の『あたし』のイメージを、崩したくはなかった。
取った時と同じくふんわりと、再びキャンバスに布をかける。
(まあ、あなたもともと、貧乏な絵描きのタマゴだもんね。
モデル料は、出世払いってことにしといてあげるわ)
……たぶん、もう二度と会うことはないだろうけど。
会ってしまえば、現実のあたしに、イメージの『あたし』はきっと消されてしまうから。
――だから。
「…………。……Au revoir(オー ル・ヴォワール)。ガウリイ……」
彼の耳元に口をよせ、一言だけ、小さくささやく。これは、この辺り特有の、あいさつだと聞いている。
意味は……『さようなら』。
普段使っている「さようなら」の言葉は、胸につかえて言えなかった。
治ったばかりでかすれた声。いつものあたしの女の子っぽい声とは違って、少しだけ大人っぽく聞こえる、ハスキーボイス。
ガウリイの知ってる、『あたし』によく似合いそうな。
いつもの声が出て、いつものあたしに戻る寸前の。
あなたしか知らない、『あたし』から。
――――サヨナラ。
あたしは、そっとドアを開け。
自分の身体を滑り込ませて部屋から出ると、音をたてないよう、静かに扉を閉めた。
白い朝日は、ガウリイの背に一瞬だけあたり、そして消えた。