チャオは,そこでこの代理人の報告を待っていたのだ.チャオはそこに私が現われることをあり得ないとは知りつつ,半ばは期待していたのではないだろうか? つまり,彼女は本当はそこで私を待っていたのではないだろうか? 人を待つときの鉄則はそこから移動しないことである.チャオは本能的にそのことを知っていたに違いない.チャオはきっと私の知らないどこかで,傷を負った雌鹿のようにうずくまって,じっと私の来るのを待ち続けていたのだ.

私は,彼女の代理人に手紙を言付けることはできなかったのだろうか? あるいは,率直に「彼女のところまで案内して欲しい」と頼んでもよかったのではないか? 代理人がもし,彼女からあからさまにはそのことを依頼されていなかったとしても,この代理人の使命が直接ないしは間接に私をいざなって,彼女のところまで道案内することにあったということは,今となってはあまりにも明らであるように思われる.彼女が代理人に託して私に手渡そうとしていたものは,紛う方も無いあのアリアドネの糸玉,命の糸であった.糸玉は私の手を逸れて,在らぬ方に転げ去ったのである.

私は掌中にカギを握りながら,そのことに気付かなかった.感情に曇らされた私の目は,目に見えるものを見ることができなかった.そのとき,私ではなく,何者かによって私の目が覆われていたとする解釈は果たして妥当するだろうか?

コンサートは終り,妻はすでに家に帰っていた.それから何日かしたある日,私はまたピーターパンにふらっと寄ってみた.そして,そこでもう一度チャオに出会った.それが最後だった.

チャオは入口からストレートに見渡せる位置,つまり窓際でカウンタよりのベンチに座っていた.彼女は私を認めると「あっ」と声を上げ,立ち上がるなりバッグを鷲づかみに私の横をすり抜けると,ハンターから逃げるウサギの勢いで表に飛び出していった.