■コンサートの会場となった市民会館は私の仮想地図上では鈎当台公園の近くに位置している.大ホールは多分1200人規模のものだったと思うが,超満員の盛況だった.その中で,私の席の一列だけが,歯の抜けた櫛のように空いていた.そこは,今夜の特別な招待客のために用意された出入禁止の予約席だった.私は髭を念入りに剃り,少し早めに家を出て会場に入ったが,いくら待っても想い人は現われなかった.
■私の席から右に2つ置いた席に一人の女性が入ったのは,演奏の始まるぎりぎりのタイミングだった.つまり,彼女は代理人を立ててきたのである.私たちはボタンを掛け違えてしまった.私の隣に座るべき人は現われず,私は空席2つを移動して彼女の代理人の席に寄り,その人に声を掛けるべきであったのにそうすることができなかった.
■というより,私は思いもよらぬ彼女の仕打ちに少なからず腹を立てていた.私は,その代理人を否認していた.代理人はこちらをちらりとも見なかったが,私自身もそちらを「見たくなかった」というのが偽らざる気持ちである.重要な使命を帯びてきたに違いない彼女の代理人は,1回目の休憩時間に席を離れるとそのまま消えてしまった.私は最後まで会場に留まったが,それはただ,そうしている以外の何も為し得なかったからというに過ぎない.
■今にして思えば,この代理人が単純に余ったチケットをもらって只でコンサートを楽しむために来ていたのでないことは明らかである.それは,彼女が早い時間に退席してしまっていることからも容易に推察できる.私は,なぜそのとき,彼女の後を付けなかったのだろう.彼女がまっすぐに戻って行く先にこそ目指す王女の隠れ処があることは間違いなかったはずであるのに...
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