私は27のときに仙台に移り住んで,最初の妻とおよそ7年間そこで暮らした.仙台に移住したときにはすでに子どもが2人あって,ほどなく3番目が産まれた.妻は九州の生まれで,高校を卒業してすぐに友達を頼って上京してきた妻と,フーテン学生であった私が同棲を始めたのは私が20歳の夏だった.20歳から27歳まで,私はいまで言えばフリーターのような定職を持たない暮らしを続けていたが,いよいよ行き詰まりが見えてきたころ,突発的に友人を頼って仙台に移住したのである.

私たちは仙台に隣接する泉市の南光台という,まだあちこちに剥き出しの斜面の見える新興の団地に1棟2戸の借家を借りて住み,私は大工見習いの職に付いた.それから3年ほどしていくらかは日給も上がり,子どもたちも大きくなってきたので,今度は隣の旭ヶ丘に新築のこざっぱりした家を見付けて移ることにした.家賃もそれほどには高くなかったし,いつ家を持てるようになるのか見当も付かなかったから,妻にもいくらかはよい思いをさせてやらなくてはという気持ちがあったと思う.

私が大工という職種を選らんだのは,仕事を決めようと考えた日の朝の新聞の求人欄でたまたま一番先頭にあった3行広告の勤務先がなんとか徒歩で通えるくらいの距離だったということによるのだが,同時に私はこの仕事が「イエスの嗣業」でもあるということに惹かれるものを感じていた.私はどうせ仕事に就くのならよい仕事に就きたいと考えていた.イエスは大工ヨセフの長男であり,30を過ぎて伝道を始めるまで父の仕事を手伝っている.没後2千年近くも経ってなおその誕生日の祝いが続いているほどの男の従事していた仕事が,悪いものであるはずはないだろうと私は考えた.

実際,私はこの7年間を私の生涯の最善の期間であったとためらいなく言うことができる.(さらに付け加えれば,最初の妻が子どもたちを連れて仙台を出ていった後,連れ戻した3人の子供たちと暮らした仙台の残りの8ヶ月こそ,至高の日々であった)私の筋肉は太陽に焼かれて固く引き締まり,高い棟木の上を端から端まで歩くことに何の不安も感じることはなかった.