四月の雪・6


 個展の終わった翌日には、オレはもうこの街へ住むことを決めていた。
 ゼフィーリアの首都、ゼフィール・シティ。この街に、たぶん『彼女』はいる。

 『彼女』と最初に会ったのはオレの郷里なのだが、それでもおそらくこの街に彼女は住んでいるのだろう。
 一年、あの街で探した。ならば、今度は最低でも一年はこの街で探そう。そう思った。

 それに、この街や空には、『彼女』の『色』を感じる。
 彼女を育み、慈しんできたであろう、『色』。

 この『色』が、一度彼女を見失い、絶望しかけたオレに光と希望を与えてくれた。
 まるで一年前、絵を描くことに絶望したとき、『彼女』が『色』を与えてくれたみたいに。










 適当な不動産屋を見つけて、飛び込みで部屋を探す。
 などというと、たいていは怪しそうな、イヤそうな顔で見られるのが相場なのだが――

 「すまない。アパートを探してるんだが」
 「はいはい。前の住所と名前は……え? あんた、あのガウリイ=ガブリエフさん? いやー、びっくりしたねぇ」

 最近名が売れているというのは、こういう時にいい。オレは顔パスならぬ名前パスで、すぐに住居を決めることができた。

 白い壁。貧乏な学生か芸術家が住みそうな、狭い部屋。
 あとは……あたたかそうな、窓辺。
 静かで、優しい日が入り込む、居心地のいい窓辺。

 それが、必要な全てだった。

 「あんたみたいな、売れてる画家だったら、もっといい家あるよ? なんでこんな狭い部屋……」
 「いや、いいんだ。ここがいい」

 不動産屋のおばちゃんは、しきりに首をひねりながらも、オレの希望通りのアパートを紹介してくれた。
 ここを選んだのには、もちろんわけがある。

 部屋には、ベッドと机、それにキャンバスと、必要最小限のものだけを置く。
 そして、窓辺には、特等席のためのイスを。
 一年前、『彼女』が来た時と、同じ位置に。

 験かつぎの意味と、あの頃の感覚を思い出すため、この部屋をつくりあげた。


 今は、まだ四月。『彼女』と初めて会った季節。そしてもう一度、出会った季節。
 すぐに見つかるとは思っていない。だけど。

 何年先でもいい。また、いつかの四月、『彼女』がここに座って微笑んでくれないだろうか、あの日のように。

 四月のやわらかい陽光の中、今もあの日の『彼女』が微笑んでいるような気がして、オレの顔にもやわらかく笑みが浮かんだ。














 「おにーちゃん、お絵かきしてるのー?」
 「てるのー?」

 幼い声がすぐそばで聞こえて、オレはキャンバスに向けていた視線を、下へ落とした。
 5、6歳の少年と、それより小さな少女が、オレの手元を覗き込んでいる。
 絵の具を混ぜる手を止め、オレはその子たちに答えた。

 「ああ、そうだぞ。この公園の絵を描いてるんだ。
  ほら、これわかるか? お前さんたちの絵だぞ」

 キャンバスの中には、はや赤や黄色に色づいた街路樹と、そこを行き交う人々の絵。
 舞い散る落ち葉と、夕陽の朱が、綺麗な風景だった。
 絵の中に描いた、二人の子供を指してやると、少年たちは嬉しそうな歓声をあげる。

 「これ、ぼく? じゃ、これはエナだねー?」
 「えなー? これ、えなー?」
 「そうだな。お前たちだな」

 少年たちは、きゃいきゃいはしゃいでいる。子供はなんでも喜ぶから面白い。そう思って見ていると、ふいに少年が、不思議そうに小首をかしげた。

 「でも、このお姉ちゃんはー? だれ?」

 少年が指さした先には、一人の少女の姿。
 少女、といっても、この二人の少年少女より十歳は年上の、栗色の髪をした小柄な少女だ。絵の中では、三人で仲良くはしゃいでいる「少女」に、見覚えのない少年がひたすら頭を悩ませる。

 だが、オレには覚えがある姿だった。自然と頬がほころびる。
 なぜか、このことに関してだけは、ついつい表情がゆるんでしまう。

 「このお姉ちゃんはな。お兄ちゃんには見えるんだ。だから描いたんだぞ」

 オレがそう言ってやると、少年たちはなぜか目を輝かせ、

 「おにーちゃん、れーのーりょくしゃー?」
 「れー……しゃー?」

 いやべつに、幽霊が見えるって意味じゃないんだが……。
 どこでそんなコトバ覚えたんだ、コイツら。
 何と答えようか、ポリポリ頬をかいていると。

 「ジムー、エナッ! ごはんよぉー。帰ってらっしゃーい!」
 「あ、ママだ! おにーちゃん、じゃーねー!」
 「じゃねー!」

 幼い兄妹は、母親らしき人の声を聞き、オレに手を振って走り去ってゆく。
 オレは小さく手を振り返し、そして再び絵の具を混ぜ始めた。
 『彼女』に色をのせるために。














 『彼女』を逃がしてしまった、あの日以来。
 オレの絵には、必ず一人の少女が描かれるようになった。
 別に、意識してやっていたわけではない。気がついた時にはいつの間にか入っていたのだ。

 ある時は、並木道のベンチで本を読んでいて。ある時は、公園の子供たちと遊んでいて。
 そしてある時は、こちらへ嬉しそうに微笑んでいて――

 絵の中での、少女の大きさや行動はそれぞれ違うが、必ず「少女」は小柄で栗色の髪をした、あの少女。
 オレが初めてみた、『彼女』の姿だった。

 一度しか見ていなくとも、忘れるわけない。忘れられない。
 『彼女』に逢えなくて、募る想いそのままに、オレはキャンバスへ必ず『彼女』の絵を描いた。

 最近では、この街の大通りに面した画商の店で、絵を置いてもらっている。
 画商は、「ガールフレンドですか?」などとからかったが……オレには、苦笑を返すより他なかった。
 我ながら、女々しいとは思う。けれど、抑えきれない想いっていうのがあるんだと、オレは初めて知った。

 「これは、オレの好きな女(ひと)だよ」
 「へええ。可愛らしい方ですね。そのお相手には、もう告白したんですか?」
 「いや……。どこにいるかも、わからないからな……」

 でも、必ず探し出す。
 オレは胸の中で、固く誓った。だから、「どこかで見たような……」という画商の呟きは、ついつい聞き流してしまっていた。









 季節は、またたく間に移り変わり。
 もうすぐ、あの雪の日から、二度目の春が来る。

 オレにできるのは、『彼女』の絵を描く、ただそれだけ。
 絵を描きながら、街を探し歩くだけ。
 ただひたすら、あてもなく。
 時には、無力感に身が焦げるほど、苛まれたこともある。



 けれど、疑うことなく信じていた。
 この『色』の空の下。必ず、『彼女』はこの街にいる、と。










 マロニエの並木道は、長い冬の間だいじに守っていた冬芽を、いつ解放するか悩んでいるようにふくらんでいる。だがたぶん、それは少なくとも、今日ではないのだろう。
 はぁ、と吐く息は、白いけむりのように浮かび、すぐに空気へととけこんでいった。

 今日は寒い。四月だというのに、まるで季節が逆戻りしたようだ。
 昨日はもう少しあたたかかったのに。絵を描く手がかじかんだら、困るな。
 大きく手に息を吹きかけ、オレは指をあたためた。

 花壇の白い花も、せっかくつけたつぼみをかたく閉じてしまっている。なんだか気の毒な気もした。
 加えて言うと、空模様もあまり期待できる状態ではない。氷混じりの雨でも降られると、絵が台無しになってしまう。

 早く終わらせて、早めに帰ろう。そう考えて、手早くキャンバスをセットした。
 ちょうどその時。

 フワリ、と手元に舞いおりる、白い花びら。
 しかしそれは、地面に落ちると同時に消えてしまった。
 いや、花びらじゃない。これは……

 「――雪、か――?」

 花びらじゃない証拠に、白い雪は、白いキャンバスに触れると同時にとけてゆく。
 オレは舞い落ちる雪のひとひらを、手にとってみた。
 冷たい。そして、なにも残さずとけてゆく。

 これは、『あの日』と同じ雪。すぐにとけて、見えなくなって。
 幻のような、四月の雪。

 ――――とくん

 意識しなくとも、心臓の鼓動が感じられた。

 とくん とくん とくん

 もしかすると……そう、もしかすると。
 思い出のこの雪が、……呼んでくれるような。そんな予感がして。



 …………かつん。
 小さな靴音。そして、小さな気配。



 はっ、と気づいて、顔を上げる。

 『あの日』と、同じ感覚が、オレの胸に蘇った。
 白い景色の中に、あざやかなほど浮かび上がる、あの『色』。
 一人の『人』が、こちらへ向かって走ってきていた。

 ――既視感(デ・ジャ・ビュ)――

 オレの目に映ったのは、一年前、個展に来ていた栗色の髪の、小柄な少女。
 感じたのは、二年前から、オレの心を捕らえて放さない、『彼女』の『色』。

 「……見つけた……」

 自分の口から出た言葉が、まるでどこか遠くからの音のようで。
 こちらに走ってくる『彼女』。脇目もふらず、まっすぐに。
 頬は紅く紅潮し、その顔は――――

 あ、あれ?



 「なに考えてんのよこのボケエエエェェェェ!!!」



 ……オレは、『彼女』から思いっきりヘッドロックをくらった。




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