四月の雪・5


 今年の春は、早足でやってきた。空気がとてもあたたかい。冬の寒さが大キライなあたしにとっては、今年は当たり年と言えるだろう。
 今日も、とても天気がいい。気持ちのいいくらい、抜けるような青い空。

 ――こんな気持ちのいい空から、雪が降るわけもない。
 降るわけもないけれど。
 雪が降れば……あれからちょうど一年たった四月の今、雪が降れば、また、アイツに会える気がして。
 いつの間にやら、考えている。
 雪が降らないかな、と。

 今日も、とても天気がいい。
 あたしは彼に会えない失望と、会わなくていい安堵がごちゃまぜになった、正反対のキモチをふたつ抱えて、空を見た。








 「ふぅーん。今度、絵画展なんかやるんだな」

 新聞を見ながら、父ちゃんがつまらなさそうに言った。禁煙のためにくわえてる火のついてないタバコは、すでにトレードマークになりつつある。あれ、いつまでくわえてるつもりなんだろ。

 姉ちゃんは、父ちゃんの呟きに、律儀にもたずねた。

 「絵画展? それって、今度のゼフィール美術館三十周年の催しもの?」
 「ああ。若手画家の個展だとよ。名前は、ガウリイ=ガブリエフ」

 …………ッ!!
 ビクン! と肩がはねたのが、自分でもよくわかった。
 父ちゃんと姉ちゃんは、わずかにあたしへ視線を走らせると、また新聞記事へ目を落とす。

 「こいつ、昔は目が見えなかったんだと。今はもう、見えるらしいがな」
 「へえ……画家なのに?」
 「ああ。そのころ描いた女性の絵が認められて、今じゃ期待の若手新人だとか」

 女性の絵、って……やっぱり、『あたし』の絵?
 個展を開ける、期待の若手画家か……。成長したんだなあ、ガウリイ。
 持っていた皿に、抱きしめるような形で思わず力をこめる。平静を装おうとする心とは裏腹に、なかなか胸へとこみあげる熱は、おさまってくれなかった。

 「おもしろそうねえ……ね、リナ」
 「なっっ、なにっ!?」

 姉ちゃんのかけた声で、唐突に我にかえった。姉ちゃんは、女の子にくっつけるカエルを見つけた男の子のような、いたずらげな笑みを浮かべている。
 普通の人からは、天使のようなと称されたその微笑みも、あたしや知ってる人に言わせれば悪魔の笑みだ。

 「ねえ、行きましょうよ。その絵画展」
 「え……うええぇぇええ!?
  い、いや、あたしは……」
 「あら、せっかく人が誘ってるのに。断る気?」

 姉ちゃんの必殺技。それはこの、『極上の微笑み』。
 これで、姉ちゃんのことを知らない人は魅了されて逆らえなくなり、本性を知ってる人は閻魔大王の笑顔を目前にして逆らうという考えすらなくしてしまう。

 姉ちゃんの恐ろしさを、たぶん世界で一番よく知っているあたしには、こう答えるしか道が残されていなかった。

 「はひ……行きます……」








 嫌味なくらい、今日も天気がいい。
 まさか、こんなに青い空の下、ガウリイの話を聞くとは思わなかった。

 ガウリイ。彼の名前と思い出の中の笑顔を、なんで忘れることができないんだろう。
 忘れてしまえば、楽になれる。あたしには……もう関わりない人なんだから。

 (忘れたいのに……あんなやつ――)

 忘れようとするたび、強くなる想い。
 ガウリイのことを思い出すたび、胸が痛い。
 一緒にいたときは、彼の笑顔を見るたび、心があたたかくなったものだったのに。
 どうして今、あの笑顔を思い出すと、ただ苦しいだけなんだろう。

 (あいつが心配なだけよ……。今にも餓死しちゃいそうな、貧乏生活だったんだもん)

 心にカギをかけて。彼の絵画展会場へ向かうごとに、強くなる感情へ 、ムリやり理由を刷り込む。
 この感情に、別の名前をつけてはいけない。つけてしまったら、想いが心から溢れるのを、きっと止められないから。


 けれど、その想いは、あの四月の雪とは違っていて。
 冷たいどころか泣きたいほど熱く、そのくせ簡単にとけて消えてはくれなかった――――












 病院、図書館、映画館。どんなに静寂をマナーとしている空間でも、そこに人がたくさんいれば、自然とざわめきが生まれる。
 人の立てる物音や、小声で話す声が集まって、わずかな気配などはそこにまぎれてしまうだろう。

 だから、ガウリイの個展会場がかなり盛況なのを見て、あたしはちょっとほっとした。いつもなら、人混みはキライなのだけれど、堂々と胸をはって行きづらい今の心境のような時は、逆にありがたい。 そっと、様子だけ見て帰ってこられる。きっと、彼と顔を合わせることもないだろう。

 けれど、……心のどこかで、ほんのかすかな期待がある。
 もしかしたら。――そう、ほんとにもしかしたら。
 また…………会える可能性があるのかもしれない、と。

 (バカね。……今さら会って、どうするわけでもないクセに)

 さっきから何度もしてきたように、また冷静になろうとするが、なぜか今度は気持ちを切り替えることができなかった。

 「じゃあリナ、まずはこっちから回りましょ」
 「うん。……わかった」

 姉ちゃんが指さしたのは、ガウリイの作品の中でも、最近のものが展示してあるスペース。
 会場の中に入ると、すでに多くの人が、たくさんの絵の前で、楽しそうに絵を見ている。どの顔も、みんなどこか嬉しそうだったり、幸せそうだったり。

 あたしも、手近な一枚を覗いてみる。
 昔の彼の絵は、とても寂しげだったけど、この絵はとても優しい色づかいだ。きっと、ここに展示してある、他の絵もそうなんだろう。人の描かれた、あたたかい街角の絵だった。

 ふと視線を巡らせると、大きく人の描かれた、人物画で目が止まる。
 あたしは、その絵の前に立った。
 優しそうな笑みを浮かべる、黒髪の女性。

 もう一人の――そして、存在しないはずの『あたし』。

 絵は、あの日のまま、そこに飾られていて。
 絵の横には、説明の文がついていた。

 『ガウリイ=ガブリエフの出世作』。

 この絵が、彼に大きく役立った、というのは嬉しい。けれど、あたしを見ながら<<あたし>>を描いたものじゃないという事実が、少しさびしい。
 複雑な想いだった。……別に、彼に描いてほしかったわけじゃないんだから。そう考えて、また力ずくで、とめどなくわき上がる気持ちを押さえ込もうとすると。

 「あら、この絵がとうちゃんの言ってた、出世作の女性画?」

 さっきまで少し離れて別の絵を見ていた姉ちゃんが、いつのまにか隣に来ていた。あたしと同じ絵を見上げて、感慨深げに見入っている。どうやらそこそこ気に入ったようだ。
 姉ちゃんも、人に聞かれて恥じない程度の鑑定眼は持っている。その姉ちゃんのお眼鏡にかなってるんだから、やっぱりいい絵だと思うのは、あたしのひいき目じゃないんだろう。

 「モデルの性質を、よく描きだしてる。いい絵ね、これは」
 「え……? どうして?」

 あたしははじかれたように姉ちゃんを振り返る。

 「人の持つ、優しさとあたたかさ。それを、とても万人にわかりやすい、いい色で描いてる。モデルの持ってる人格が、うまく出ているわね。
  もしかすると、本人でさえ気づいていない、内面をちゃんと見つけてるわ」

 ……第三者から見ると、そういう風に見えるのだろうか。このモデルが、あたしだと知らなければ。
 もうあと数年で、姉ちゃんとのつきあいも20年になろうというのに、あたしには未だときどき姉ちゃんの言葉がわからない。

 わからないから、ただ、あたしはもう一度、『あたし』と向かい合う。
 その時だった。



 「この絵を見てくれてるんですか?」

 かけられた声に、身体と思考が固まった。



 一年たっても、忘れられなかった声。忘れようがなかった、声。
 おそるおそる声の方を向くと、そこには予想に違わず、一年前と同じ『彼』の姿があった。
 長い金髪と高い長身。整った顔。あたたかい、気持ちが優しくなれる笑顔。

 ただひとつ違うのは、話に聞いていたとおり、こちらを見つめる両の瞳。
 青い、青い空のような。雪も降らない、今日の空のような、青い瞳だった。

 「ガウリイ……」

 口の中で、小さく言葉がもれる。あたしでさえも、自覚するのがやっとなぐらい小さく。
 彼は、人当たりのいい笑顔を浮かべ 、

 「この絵を描いた、ガウリイ=ガブリエフです。どうです? 気に入ってくれました?」
 「ええ。いい絵ですね。この絵の女性は……?」

 半分混乱してるあたしの代わりに、姉ちゃんが答える。質問をかけられて、初めてガウリイの笑顔が、困ったようにゆがんだ。

 「一年ぐらい前に描いた絵です。ただ、このモデルをしてくれた人が行方不明になってしまって……
  もう一度会いたいと思って、探し続けてるんですが、手がかりがこれしかないんですよ」

 そこでガウリイは、なぜか姉ちゃんに向けていた視線を、あたしの方へと下げてくる。
 見覚えのある彼の顔と、見覚えのない彼の瞳を向けられて、あたしの心臓がドキリと跳ねた。

 「お前さん、知らないか? この絵によく似た人を。どこかで、見かけたとか」

 あたしはちらり、と横目で、助けを求めるように姉ちゃんを見る。でも姉ちゃんは、腕をくんだまま動こうという気配すらない。
 再び彼へと向き直り、あたしは瞳をあわせて、小さな決意と共にはっきり言った。


 「……いいえ」


 少しだけ、声が硬くなってしまったのは、うまくごまかせただろうか。
 ガウリイに、あたしがわからないのならば。あたしから名乗る必要はない。
 『あたし』のイメージを崩したくないという、あの日の気持ちは、今も同じだった。

 彼は、少し失望したような、けれど初めから答えはわかっていたと言いたげな苦笑を浮かべる。

 「そっか。まあ、もし見つけたら、伝えてくれよ。オレが逢いたがっていた、ってな」

 あたしは無言で、小さくうなずいた。




 あれから一年。いまだにあたしは変わらない。描かれた『あたし』も変わらない。二人の<<リナ>>は決して交わらない、この絵の中にしか『あたし』はいない。
 ……ごめんね、ガウリイ。やっぱり『あたし』は、あなたに逢えない。


 「ガウリイ、さん。もっとたくさん、いい絵を描いてくださいね。
  ――あたし、見てますから」
 「? あ、ああ。ありがとう」


 だから、もう一度。
 この絵の『あたし』に。
 ガウリイに。
 この想いに。


 ――サヨナラ――





 「…………Au revoir(オー ル・ヴォワール)」
 「Au revoir。お嬢ちゃん」

 ガウリイは、にっこり笑う。見知らぬ、年下の、どこかの少女へと向ける笑みで。
 だからあたしも他にはなにも言わず、ただにっこりと微笑んだ。

 目の奥がやたらと熱い。それ以上、彼の顔を見ていられず、あたしは姉ちゃんへと視線を移す。

 「ねーちゃん……そろそろ帰ろ」

 まだ展示を半分も見ていないはずなのに、姉ちゃんは静かにうなずいてくれた。
 たぶんあたしの表情から、なにかを察してくれたんだと思う。

 ゆっくりと。想いを全てふりきりながら、彼に背を向ける。
 なにかを叫んでる、胸の痛みは見ないフリで。
 ガウリイを一度も振り返ることができないまま、あたしは歩きだした。





 空は青く澄み渡っている。まるで彼の瞳のように。
 そんな空の中、幻の四月の雪はそっとあたしの心に降りかかり。
 ゆっくりとけて、消えていった。





 四月の雪 それはまぼろし
 ただひとときの 切ないユメ
 あとには なにも残らない










  ☆★☆★☆★☆★☆









 「不思議な子だったな……」

 栗色の髪の少女と、おそらく姉であろうよく似た女性が連れだって去ってゆく背中を、オレは何とも言えない気持ちで見送った。
 なぜか、初めて会った気がしない。ずっと昔から知っていたような。
 どこか、懐かしさすら感じさせる声と瞳。
 だから思わず、声をかけてしまったんだが。

 オレは、『彼女』の絵を見上げた。探し続ける『彼女』は、変わらない笑顔で、オレに優しく微笑みかけている。
 ……………………

 「――――――ッッ!!」

 そのことに思い至り、息をのむ。そういえば。今、あの少女はなんと言っていた?

 ――Au revoir。

 あの日、『彼女』が残した言葉。
 記憶の中にある、『彼女』の声とは似ていないが、響きはそっくりだ。

 オレは慌てて目を閉じる。そして思い出す。『彼女』の『色』と少女の『色』を。
 その答えは、考えるまでもなくすぐに出た。

 「チィッ……!」

 強く舌打ちして、栗色の少女の後を追いかける。まったくなんてバカなんだ。
 一年の間に、オレの目は見えるようになっている。ならば、『彼女』の声が出ないままだという保証なんか、なにひとつないじゃないか。
 あの日、『彼女』が囁いてくれた声は、夢じゃなかった。

 しかも目が見えるようになったせいで、いつのまにか自分の描いた『彼女』の『姿』に、引きずられていたんだとようやく気づく。
 ずっと恐れていたのは、この事態。
 目が見えないままだったら、出会ってすぐに、少女が『彼女』だと気づいたかもしれない。

 今でも目をつぶれば、少女の持つ『色』が鮮明に飛びこんでくる。
 オレが一目で心を奪われた、この一年間探し続けた、あの『色』が。

 廊下の角を曲がり、建物を出たところで、声をかぎりに叫ぶ。

 「お嬢ちゃん! 待ってく――」

 しかし。
 そこにはもう、オレの見送った小さな背中は、どこにもなかった。

 「……………………」

 どちらへ行ったらいいかもわからず、ただ立ち尽くす。見上げた空は、青く澄んでいた。空に、風に、この街にいるであろう『彼女』の『色』をたしかに感じる。
 なぜ、気づかなかったのだろう。この街へ来たときに。

 高く、高く晴れわたった空は、雪の気配すらない。
 だけどオレの心には、あの日の四月の雪が、音もなく静かに降り積もっていた。




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