ラブ・ストーリーは突然に・7


 リナは呆気にとられて、扉から入ってきた人物を見つめていた。

 一人はまあいい。短い銀髪に、多少目つきの鋭い男。しかし歌手としてデビューするには十分な整った顔を持っている。正直、こいつが今回のレッスンの相手か、と値踏みしたものだが――
 その、あとから入ってきた、もう一人。

 「な、な、な…………」
 「な? なんだ、リナ?」

 昨晩、共に食事をした人物が今朝の仕事で目の前にいたら、とりあえずびっくりするのが普通だろう。
 向こうも十分驚いていたようなのに、自分より先に復活している脳天気さに、頭の血管が音をたててブチ切れた。

 「なんっっであんたが、ここにいんのよ〜〜〜〜〜!!!??」
 「なんで、って言われても……なあ。リナこそ、なんでここに?」

 ガウリイは、困ったように横の男を見つめている。先ほどリナが間違えた銀髪の男は、不思議そうにガウリイとリナの顔を見比べていた。

 (――昨日は何も言ってなかったのに……)

 リナは、自分も何も言わなかったことを棚上げして、内心歯がみする。もっとも、いくら親しくとも、関係ないはずの他人に、自分の仕事のスケジュールなど教える必要はない。
 ……同棲でもしていれば、また話は別だが。

 まさか、今回のレッスンの相手とやらは、この男なのだろうか。いや、しかし。だがでも。

 「あー、失礼ですが」

 コホン、と小さな咳払いとともに話しかけられた言葉で、思考の海に沈みきっていたリナは、我に返った。
 見ると先程の銀髪の青年が、自分を見つめている。

 「あなたが、リナ=インバース講師ですね?」

 ――そうよ、こいつがいるじゃない!
 リナの瞳が、一縷の希望を見出した。
 期待を抑えきれず、自然と声がはずんでしまう。

 「ええ、今回講師役を務めます、リナ=インバースです。ええっと、あなたは……」
 「マネージャーのゼルガディス=グレイワーズです。こいつが今回お世話になる、ガウリイ=ガブリエフ」

 リナの一縷の希望は、木っ端微塵に粉砕された。
 あながち営業でもなく浮かべていた笑顔が、そのままの形で永久凍土のように固まる。

 「…………こいつが?」
 「ああ、そうか。オレの歌の特訓をしてくれるヤツって、リナだったのかあ!」
 「ガウリイ。お前、彼女を知ってるのか?」

 呆然としたリナのつぶやきに、今さら気づいたのかワンテンポ遅れた反応をするガウリイ。そんなガウリイを、訝しげに見るゼルガディス。
 だがしかし、この際事情説明などどうでもいい。むしろ説明してもらいたいことがあるのはこっちなのだ。
 リナは、ゼルガディスの服のすそを掴み、地獄へ引きずりこむ勢いで引っ張った。

 「おわっ!?」
 「ちょっと……」

 恐ろしげなその気迫に、ゼルガディスがたじろぐ。
 悪鬼顔負けの形相で、リナはゼルガディスに詰め寄った。

 「な……なにか?」
 「『一般人レベルまででいいから、生まれてこのかたの音痴をなんとかしてほしい』っていう男は……アイツなの?」
 「あ、ああ。そういう話をそちらの事務所に通したはずだが……」
 「んで? 音痴の度合いはどのくらい?」
 「なんでも、今聞いた話だと、小学校の成績はすべて2だった、と」

 それはつまり。

 「出席点ってことね…………」
 「…………まあ、そういうことになる」

 リナは絶望的なため息をついた。
 小学校の場合、どんなに音痴であろうとも、ちゃんと出席して歌のテストも受けている児童をまさか1にはできないのだ。
 どんなに足が遅くても、どんなに手先が不器用でも、体育や図工で1がつかないのと同じである。
 そうとわかったリナの決断は早かった。

 「――あたし、帰る」
 「へ?」

 ガウリイが驚いたような声を上げた。それを聞こうともせず、リナは近くにあった自分のバッグを肩にかつぐ。
 スタッフの一人が、慌ててリナにすがりついた。

 「ま、待ってくださいリナさん! そんな、いきなり帰るって……!」
 「はなしてアリア! ジョーダンじゃないわ、こんなシゴト受けてられますか!」
 「そんなぁ、何が気に入らないんですか! ちゃんとしたおしごとでしょう!?」
 「相手がこの男となれば、話は別よ! 他の講師を探してちょうだい!」
 「思い出してください! これは社長からのお話なんですよ!?」



 ぴた。
 今のいままで、ショートカットの金髪を持つ女性スタッフを振り解こうと、暴れていたリナの動きが止まる。



 「しゃちょう……めいれい……」
 「そうです! なにもしないで帰れば、このお話を受けてきた社長のメンツは丸つぶれですよ!」
 「…………う゛う゛う゛…………」

 イヤそうに、ホントにイヤそうにリナはうつむいた。できれば心の中で、もっと葛藤したかったであろう。しかし、この場合リナに選択の余地はない。だとすれば当然、葛藤の余地もなかった。
 リナは歌手特有の肺活量で、大きく大きく腹式呼吸使用の、ため息をしぼりだす。

 「……………………
  ………………やるわ」
 「よかったぁ……」

 女性スタッフも、その言葉を聞いてヘナヘナ座り込んでしまった。よほど気が抜けたのだろう。
 だが、リナに気を抜いている余裕などない。ゼッタイに、何がなんでもこのシゴト、成功させなければならないのだ。
 さもなくば、彼女に明日はない。

 これからここは戦場になる。その意識を、この男にも持ってもらわなくては。
 強い意志を瞳に込め、リナはある意味戦友でもあり敵でもある、ガウリイを睨みつけた。
 するとそこには。

 「……リナ……」

 目元をしっとりと潤ませた――いや、実際には泣いてなどいなかったのだが、涙が出ていないのが不思議なぐらい悲しそうな表情だった――捨てられたばかりの金色の大型犬がそこにいた。
 なまじ造作が整っているものだから、痛みを含んだその顔は、見ているこっちが痛々しい。
 見たこともない、美形俳優の沈痛な表情に、リナはたった今抱いたばかりの決意も忘れ、思わず一歩後ずさる。

 「な、な、なによ。その顔は!?」
 「リナ……オレとシゴトするの、いやなのか?」
 「は?」
 「だって、『こんなシゴト受けてられない』『相手がオレとなれば話は別だ』って……」

 そう言えば、そんなことを言ったかもしれない。客観的に聞けばひどい言葉のような気もする。でも。
 純然たる事実なのだからしょうがない。

 「あのねえ……。いい? このシゴトの内容を聞けば、大抵の講師は逃げ出したくなると思うわよ」
 「なぜだ? ガウリイに教えるのなら、奪い合ってもやりたい講師はいくらでもいると思うが……」

 途中から口を挟んだのはゼルガディス。いつのまにか、敬語は消えている。
 その口調に遠慮もなくしたのだろう。リナは、キッ! とゼルガディスを睨み据え、

 「そんなわけないでしょ!! こーんなアタマに腐ったプリンみたいなモン詰め込んだオトコに、何をどーやって物覚えさせろってゆーのよ!!?」

 今回の依頼内容、『一般人のレベルでいいから歌えるように』というのは、一緒にカラオケに行きたいとか宴会芸をさせたいとか、そういう意味ではない。
 中身は明白だった。この男に、CDデビューをさせたいということだ。
 つまり彼の歌を、日本中の人が聞くのである。

 お役所仕事で、本当に依頼通り一般人レベルまでしか上げられなくてもシゴトは遂行したことになるだろうが、そんな状態のガウリイを全国へご披露させるのは、教え役としての沽券に関わる。
 とはいえ、普通の歌手候補をシゴくのなら、いつものリナのスパルタでなんとかなるはずだったが――

 「音痴は治るわ。しっかり練習すればね。
  でも、おツムは治んない。こいつの知能でホントに、歌を覚えられると思う? 歌詞はまだしも、音程はカンペが使えないのよ」
 「それは……たしかに……」
 「だから厄介だって言うのよ。シッパイしない方が難しいわ、こんなシゴト」

 ぶつくさ言うリナを見て、ゼルガディスは口の端を笑みの形につり上げた。

 「だが、それでもやらざるをえんのだろう?」
 「まあね。まったく、社長命令でなけりゃ、だれがこんな……」
 「ま、いいじゃないか。マネージャーの立場としては、あんたは信用ができそうだ」
 「――え? なんで?」

 とたんに、きょとん、とした顔をするリナ。ゼルガディスにしてみれば、この講師は女性でありながら、ガウリイの色香に迷わされていない、まさしく他の何よりも理想的な講師だった。
 ゼルガディスはわずかにしゃがみ、リナに目線を合わせて、低くささやく。

 「たのむ。あいつの音痴を治してやってくれ。たぶんあんたにダメなら、他の誰にも治せない」
 「あ……あたしを誰だと思ってんのよ!? どんな音痴でも、絶対治してみせるんだから!」

 いつもの調子でタンカをきったリナだが、ゼルガディスの真剣なまなざしを至近距離で見せられて、かすかに頬が上気している。
 すると、かなり強い力で、肩が後ろに引っ張られた。
 驚いたリナが、肩をつかむ人間を仰ぎ見ると。

 「……ガウリイ……」
 「ほら、練習するんだろ? 話が決まったなら、さっさと始めようぜ」

 どこかしら憮然とした表情で言うガウリイに、リナはとまどいながらも頷く。
 そんな二人の後ろ姿を見ながら、ゼルガディスは小さくほくそえむのだった。









 練習は、いい雰囲気のまま続いていった。
 なにしろ教える側と教えられる側の信頼関係が、最初から成り立っているのである。しかも呼吸はまるで、夫婦漫才のコンビのようにツーカーだった。
 おかげで休憩中も、実になごやかなことこの上ない。しかも普段あまり他人と会話しないゼルガディスまでもが、リナとガウリイに交じって話している姿は、彼を知る者には驚愕であっただろう。

 3人は、日に日に親密になっていった。何気ない日常的な話をしているうちにガウリイがボケて、リナにツッコミを入れられている場面や、リナとゼルガディスが難しい話をしていて、途中でガウリイがリナの服を引っ張り、それにため息をつきながらもリナが噛み砕いて教える、という光景が、毎日皆に目撃されている。

 ゼルガディスが心配したように、ガウリイのフェロモンに引き寄せられた女性スタッフもいなかったわけではないが、こんな3人の中に入っていけるような女はいなかった。
 そう、練習は、いい雰囲気のまま進んでいった。

 ――あるひとつの問題点を除いては。

 「どおぉぉぉしてあんたはこんな歌すら歌えないのよスマッシュ!!」

 すっぱああぁぁぁん!!
 リナの手にした赤いスリッパが、ガウリイの脳天を直撃する。

 「おっ、おい! どこから生えたんだ、そのスリッパ!?」
 「どこだっていいでしょ! そんなこと気にしてるヒマがあったら、歌のひとつも覚えなさいよ!」

 たったひとつの問題点。それはもちろん。
 ガウリイの音痴は、ちっとも治らないということだった。

 正確には、『音痴』なのではない。ピアノの音に合わせて声を出すのはまあまあできたし、リナの歌うドレミファソラシドに合わせての発声練習も、まったく問題はなかった。発声法も、元々役者なのだから、ちゃんと腹の底からの呼吸を心がけている。
 しかし、つまづくのは、メロディを歌う、というところだった。

 「ダメだわ……こんなんじゃ、CDデビューなんて夢のまた夢よ……」

 リナは絶望的な表情でつぶやいた。
 なにせこの男、どんなに曲を教えても、かたっぱしからメロディを忘れるのである。
 さすがに、「ぞうさん」「チューリップ」などの簡単な童謡なら歌える。だが、「大きな古時計」のレベルになると、もう全部を覚えきれない。忘れたところを教えると、次にはトコロテンのように、さっきまで覚えていたところを忘れるのだ。

 はっきり言って、お手上げだった。一般的なポップスの曲は、「大きな古時計」の倍くらいメロディが長いのだから。
 彼の小学校の音楽担任の苦労がひたすら偲ばれる。

 「ガウリイ、あんた……そんなんで、音楽の授業のテスト、どうやって受けてたのよ……」
 「いやあ、覚えてるとこだけ歌ってた。それに、歌ってあんまり、普段の生活に使わなくてもいいもんだろ?」
 「…………そうかもしれないけど、ね」

 リナは不機嫌にそう言った。たしかに、歌は必要のない人には、生きてゆく上で無用の長物だろう。
 だが、歌手としてはそんなことを言われて、はいそうですかと納得はできないわけで。
 そうだ。おまけに。

 「だけどあんたは、今、仕事で歌を歌う必要におわれてる。せっかくのCDデビューの機会を、歌えないからって理由で自分からムダにするわけ? そんなの、あたしは許せないわ。
  昔はどーでも、今は生活に必要なんだから、今覚えなさい!」
 「…………は、はい」

 きっと、有無を言わさぬ怖ろしい形相をしていたんだろう。ガウリイが青い顔をしてうなずいた。
 リナとて、ガウリイにCDデビューをさせるため多大な努力を費やし、すでに準備も着々と進みつつある。これが全部ムダになるのは、あまりにも惜しい。
 とはいえ、いくらガウリイに覚悟ができても、実際に歌えないのでは仕方がない。
 ならば、どうしたらいいのだろう。

 「――なんかいい案はないかしらね? ゼルガディス」
 「そこでなぜ俺にふる……」

 いつもの休憩時間。3人でお昼ご飯をつついていた時、ためいきまじりにしたリナの相談を、ゼルガディスは心外そのもの、ちょっぴし迷惑ぎみの口調で返した。

 「だって、ガウリイとのつきあい、長いんでしょ? だったらなにか、いい考えがないかと思って」
 「無理、だな」
 「んなロクに考えもせずに」
 「つきあいの長い俺だからこそ、だ。考えてみろ。もし俺に、ガウリイに有効な歌の練習の手段を考えつけるとしたら……」

 ゼルガディスの言いたいことに思い至り、リナは諦めの吐息をもらした。

 「もう、ガウリイのCDデビューなんて、とっくの昔に果たしてるか……」
 「そういうことだ」

 知らず重くなってしまった雰囲気に、リナとゼルガディスが暗い影をまとっていると、そこへたった1人、まったく会話に加わっていなかった人物の明るい声がした。

 「なあ、リナ。オレが思うに、だな」
 「まー珍しい! ガウリイが、なにか考えあるっていうの!? いいわ、ムダだとわかりきっていることでも、一応聞いたげる。溺れる者はワラをも掴むって言うし、もしかしてくだらないコト言ったお仕置きにガウリイを殴れば、ストレス解消ぐらいにはなるかもしんないしね」
 「お前さんなあ、オレをなんだと……」

 少しだけ、リナたちとは別の、しかし同じように暗い影を背負いながらもガウリイが言った案とは。
 とりあえず、リナに口の中のポテトを噛まずに飲み込ませることぐらいの役には立った。




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