四月の雪・2


 絵描きになるのは、オレの小さいころからの夢だった。





 なぜ絵描きになりたいのか? と聞かれても、忘れてしまったと答えるしかない。
 そりゃ、普段から物覚えは悪い方だが、これはまた話が違う。

 物心ついた時には、もう絵を描いていた。たぶん、自分の名前を、『ガウリイ=ガブリエフ』と正しく書けるようになる頃には、すでにクレヨンを握っていたんじゃないだろうか。……よく覚えていないけど。
 つまりはそれくらい幼いときから、オレは絵を描くのが、当たり前の生活を送っていた。

 ずっと、『なにか』を描きたいと思っていた。
 それが何かはわからなかったけど、『なにか』を描くことだけは決めていた。
 オレにとって、特別の『なにか』。

 それを探しながらも、オレは息をするように、毎日、絵を描いていた。

 「残念ですが……視力が失われています」

 医者の、その宣告を聞いた時。
 父は、運命に憤っていた。母は、ただ悲しみに泣いていた。

 そして、オレは……

 涙も出なかった。あまりにショックが大きすぎて。
 というか、絵を描けないということが、ちゃんと頭に入ってなかったんだと思う。
 絵を描けない。そんなこと、想像したこともなかった。

 「…………なんで?」

 そう。たしか、そんなマヌケな質問をかましてしまったんだ。
 なんで絵を描けないと言われるのか、まったく理解できなかった。

 兄は押し殺した声で、色もわからない、何を描いているかもわからない人間に、絵は描けない、と。
 誰かが言わなければならない、辛い真実を、オレに教えてくれた。

 その意味が、頭に染みいった、瞬間。
 灼けつくような痛みが、全身を満たし。

 オレは喉が涸れきるまで、魂(こころ)の底から絶叫していた――――













 事故でできた、身体の傷はすぐに癒えても。
 視力と心の傷は、なかなか癒えなかった。

 それでも、人間ってヤツは案外丈夫にできている。
 少しずつまともな頭を取り戻したオレが思ったことは――やっぱり絵を描きたい、だった。

 今までと同じ絵を描けなくても。画家になる夢を捨てることはできなかった。
 なぜそんなに画家になりたいか。自分でもわからない。だが、夢は夢だ。子供の頃からの夢を追うのに、今さら理由なんかいらない。

 「画家になりたいんだ。勉強させてほしい」

 初めて、真剣に頼んだオレの頼みを、両親はものすごくためらいながらも受け入れてくれた。

 絵の具の色は匂いで覚えていたし、筆の動きでキャンバスに描いているものの形はわかった。絵を描くのに不足しているものは、何もない。
 街に出れば、風があちこちの匂いや音を、オレに届けてくれる。指が、感触を伝えてくれる。心が、街の風景を教えてくれる。

 心が見た風景を、そのままキャンバスに描く。オレには街が『見えて』いた。
 風景には、みんな『色』がある。それをただ、素直にキャンバスへと描いた。
 自分の描いた絵は見えなくても、オレの感じた街は、たしかにキャンバスに描かれている。

 ……けれど。オレの絵は、他人には不評だった。

 「きみの絵は、うまいんだけど……寂しいんだよ」
 「寂しい……ですか……」
 「ああ。寂しすぎて、欲しいという気にはなれないんだ」

 道に並べていたオレの絵を、覗き込んだ初老の男が言った、衝撃的な一言。
 それも仕方ない。オレは、人を描くことができなかったのだから。
 人のいない街角は、人のいないどの場所よりも、寂しいに違いない。

 「…………『人』、か…………」

 小さく呟いて、ためいきをもらす。車は、並木道は、公園のベンチはしっかり街の中に感じることができるのに。
 どうして、人だけは感じることができないのだろう。

 人の存在自体はわかった。足音や気配や話し声は、『見』ようと思わなくても聞こえてきた。
 でも、どうしても人の持つ『色』がわからなかった。
 『色』のわからない絵を、描くことはできない。












 (もう、今日で絵を描くのはやめよう)

 あの日は、そんな決意をして、キャンバス片手に外へ出た。
 オレはきっと、いつまでも人のいない寂しげな絵しか、描くことができないから。
 絵をやめて、どうなるかはわからない。やめた後、なにをすると決まっているわけでもない。
 ただ、このまま絵を描いていても、希望が持てないと、それだけはわかっていた。

 四月だというのに、空から落ちてきたのは、雨ではなく雪。まるでオレの今の心のように、オレの描く絵のように、冷たい雪だった。
 頬に、肩に、指先に、ふれては身体の熱だけを奪って、とけてゆく。
 最後の絵は、これまで描いてきた絵の中でも、一番寒く、一番寂しい絵になりそうだ。

 「それもまた、オレに似合いなのかも、しれないな」

 すっかり、絵を描くことに楽しさを覚えられなくなり、ほとんど義務感のみでキャンバスをセットしてゆく。昔、これから絵を描くという高揚感で、胸を高鳴らせながらキャンバスを用意していた自分は、もうどこかへ行ってしまった。

 耳をすます。街を見る。最後の絵を描くために。


 ――その時だった。


 一人の人が歩いてくる。
 いや、別にそれ自体は不思議なことじゃない。ここは並木道。人がいて当たり前だ。

 しかし……オレは、その人が『人』として『見え』た。
 白い雪の中に、なぜかその人の色は、くっきりと浮かび上がっていた。
 他の色が、すべて霞んで褪せてゆく。とても印象的な色。
 ずっと求めていた、人のイロ。こちらに向かって歩いてくるのは、間違いなく『人』だ。
 とても口で表現できない、そんな『色』。たぶん……いや、もしかしなくても、オレの知る限り、一番複雑で、美しい『色』。

 初めて人の『色』を掴み、それに魅了された。一目惚れに近い感覚。
 きっと、これを逃したら一生後悔する。この『色』を、キャンバスに描いてみたい。どうしても。
 心臓の音が、うるさいほど高鳴っている。鼓動が痛いなんて本当にあるんだ。

 気がついたら、声をかけていた。

 「……なあ、お前さん。オレに、お前の絵を描かせてくれないか?」












 オレが見つけた人は、こころよくモデルを引き受けてくれた。
 しかし、『彼女』はあまり自分のことを話してくれなかった。
 ――しゃべることのできない『彼女』が、オレに伝えられることは、あまりに少なかったというのが、おそらくその理由だろう。

 でも、オレはかまわなかった。『彼女』の持つ『色』は、口がきけるかどうかなんて関係ない。『彼女』の『色』がある限り。オレは『彼女』を感じることができた。

 声もかけてもらえず、オレに『彼女』の姿が見えないとなると、普通ならある時突然、本当にそこに人がいるか、不安になるものだと思うのに。

 不思議と、『彼女』の『色』は、オレの前から決して逃げなかった。

 「だいじょうぶか? 今日、寒くないか?」
 (――だいじょうぶよ)

 言葉を聞けなくても、彼女がうなずいたのはわかる。そのしぐさで、彼女の言葉がわかる。
 オレは、それでかまわなかった。

 彼女の方からしゃべりたい時は、オレよりずっと細い指が、意志を伝えようとオレの手に文字を書く。
 その指先は、少し冷たい。けれど、人と触れあうぬくもりが、心をあたたかくさせてくれる。

 『彼女』が動く。このアパートの扉を開けて出入りする時だけでなく、身じろぎする時も、わずかに空気の流れを感じる。
 上の方の空気は動かないから、きっと小柄なんだろう。でも、『彼女』の気配は常に、オレを優しく包みこんでくれてる気がして。
 それは、とてもとても大きなものを感じさせた。

 言葉なんていらない。大事なのは、『彼女』の『色』を側で感じられることだから。












 (ガウリイは、なんであたしを描こうと思ったの?)

 ある日、『彼女』がオレの手に、書いてきた疑問。そういえば、まだ話してなかったな。

 「お前さんに――『色』を感じたんだよ」

 彼女が首をかしげたと、気配でわかる。オレは、その『色』を感じながら言った。

 「視力を失ってから、オレは人の『色』がわからなくなった。目が見えてた頃には、人がどんな色の肌で、どんな服を着てたか、迷うことなんてなかったんだけどな。
  目が見えなくなっても、木立や、石畳や、街角の『色』はわかった。……でも、人の『色』だけは、どうしてもわからなかったんだ」

 彼女に言いたいことが伝わるとは思わなかった。自分でも、言いたいことがうまく言葉になっていない自覚があるのだから。

 オレの使う『色』という意味は、たぶんオレの感覚でしかわからない。他人にわかってもらうのはムリだし、説明するのはもっと難しい。
 オレはごまかすように、頬をかき、

 「――ともかく、お前さんなら、描けると思ったんだ。
  これまで、人はぼんやりとしかわからなかったけど、お前さんはハッキリとわかった。なんでかは、オレ自身にもわからないんだけどな」

 お世辞にも、問いかけに答えてるとは言えない、不器用な答え。
 けれど、『彼女』が優しく微笑んでくれたのは、間違いなく感じることができた。

 自分の胸が、『彼女』の優しい色に染まってゆくのがわかる。
 この絵を完成させて、彼女に見てほしい。
 『彼女』の『色』は、そう想わせるのに十分だった。

 絵筆をとってから、誰かに見てもらいたくて絵を描いたのは、もしかすると初めてだったかもしれない。








 ――――しかし。
 まさかこの絵の完成が、オレから『彼女』を奪うことになるなんて。
 今のオレは、夢にも思わなかった…………。




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