四月の雪・3


 あたしは毎日、ガウリイのアパートに通った。

 病院にいても、何もすることはなかったし。彼も、できるだけ早く絵を描きたがっていたし。
 それになにより、ガウリイの部屋の窓辺は、とても居心地がよかったから。

 毎日お昼ごはんを食べてすぐ、病院を抜けだし、夕方の門限ギリギリに帰る。外出許可はもらっていたから、誰に咎められることもない。
 ただ、毎日同じ場所に通っていることは、他の人には誰も――姉ちゃんにも、言っていない。

 なぜか、言う気にならなかった。ガウリイの部屋の窓辺が、とても静かで、あまりにあったかくて。その時間を邪魔されたくないから、彼と二人だけの秘密にしておきたかった、というのが、もしかすると一番近いのかもしれない。

 「……よし、これでいい。あとは、仕上げだけだ。明日にはできるぞ。
  見てくれるよな? オレの描いた絵を」

 ガウリイの部屋に通い始めて5日目の夕方、ガウリイは絵筆を置いてそう言った。
 あたしは、小さくうなずく。……そっか、完成したんだ。
 絵ができあがってしまえば、もうここに来る理由はなくなってしまう。それ以前に、あたしの手術の日も明日に迫っていた。

 たとえいつまでも絵が描きあがらないとしても、手術が終われば帰らなくてはならない。
 そう思った瞬間、あたたかい部屋が少しだけ、寒くなった気がした。
 あんまり、ここが居心地よくて、忘れていたけれど。

 明日、あたしとガウリイの時間は……終わりを告げる。









 「はい、それじゃあ声を出してみてください。とりあえず、『あ』、を伸ばして」
 「…………あーーー」
 「結構です。今日はまだ、あまりしゃべらないでくださいね。あと2、3日様子を見て、そしたら治療は終わりです」

 にっこりと、白衣のおじさんが微笑む。久々に聞くあたしの声は、かなりノドに引っかかった声となっていた。

 「最初はこんな声しか出ませんが、すぐに元の声が出せるようになりますよ。
  ムチャして声を出させないようにしてください」
 「わかりました。どうもありがとうございました、先生」

 主治医の先生が、姉ちゃんに注意事項を説明する。姉ちゃんは、丁寧に頭を下げた。
 ガウリイの絵ができているであろう、その日。手術も成功し、ようやくあたしの声は出るようになった。
 久しぶりに声が出たのだから、ほんとはもっとおしゃべりしたいところなのだが、まだもう少し辛抱が必要なようだ。

 手術の経過を見に、主治医の先生はもちろん、なぜか病院長まで来ている。
 姉ちゃんが病院長にニッコリと微笑み、

 「ありがとうございました、病院長先生。おかげさまで、妹の手術も成功しましたわ」
 「い、いや。こちらこそ、長らく施術をお待たせして申し訳ない。成功してなによりです」

 笑顔の姉ちゃんとは対照的に、病院長の口もとは引きつって、脂汗まで流している。

 ……そういえば……あたしが病院長に、手術の件で怒鳴り込んだ日から、ちょうど姉ちゃんが泊まりこみで、あたしの見舞いに来たんだった。
 『病院長先生に、挨拶に行ってくるわね』とか言って、院長室へ行ったはずなのだが……。
 ……………………
 いや、考えるのはやめよう。今さら考えたところで、どうなるわけでもなし。

 姉ちゃんはあたしの方へ向き直ると、ゆったりと笑った。
 たぶん、病院長に向けた笑顔と、ほとんど同じ表情で。

 「リナ。あと2、3日で、この国ともお別れよ。
  ちゃんと、帰りの準備をしておきなさいね」

 う゛っっ…………!

 姉ちゃんにガウリイのことは話していない。話してはいないのだが……
 こりは……なんか、勘づかれてる……?
 こんな笑顔で姉ちゃんに言われては、あたしにはただ、コクコクとうなずくことしか許されていなかった。
 きっとあたしの口もとは引きつって、脂汗が流れていたことだろう。









 軽くノックを3回。いつもなら、ガウリイはそれで扉を開けてくれるのだが、どうしてか今日は開けてくれない。
 念のため、もう3回。それでもやはり、扉は開かない。

 (まさか、栄養失調で倒れてたりしないでしょうね)

 ちょっとだけ、ほんの少しだけ心配になって、ドアノブを回す。すると、ノブはあっさり回った。カギは開いている。そっと押すと、扉は簡単に開いた。

 ガウリイは、机に突っ伏して眠っているようだ。そういえば昨日は、あの絵を完成させるんだとはりきっていたっけ。
 きっと、少しでも早く仕上げたくて、夜遅くまでがんばっていたんだろう。
 あどけない寝顔を見ていると、自然と笑みがこぼれる。

 (バカね、カゼひいちゃうじゃない)

 あたしは、彼のベッドから毛布を持ってきて、ガウリイの背中にかけてあげた。
 その時、視界に入ったのは、布をかけられた一枚のキャンバス。
 やっぱり、これがあたしを描いた絵なのかな。

 (見ても……いいよね? どうせ、見せてくれるつもりだったみたいだし)

 ガウリイは、描き途中の絵を、あたしに見せてくれなかったのだ。見せてくれ、と何度かせがんだのだが、いつも答えは同じだった。

 「もうちょっと待ってくれないか? 完成したお前さんに会ってほしいんだ」

 どこの吟遊詩人からもらってきたのか、そんなキザなセリフを言って。
 さすがに無理やり見るわけにもいかず、おまけに彼は困ったような顔で言うものだから、強引に見ようという気にもなれず、おとなしく待っていたのだが……
 描きあがった、となれば、きっと彼も止める理由はない。

 ガウリイに無断で見る後ろめたさはあったけれど、それでも好奇心が勝る。自分への言い訳を思いつくかぎり並べたて、あたしはそっと、キャンバスにかけられた布を取った。
 柔らかな曲線で描かれた、一枚の、人物画。


 そこには――あたしじゃない『あたし』がいた。


 わずかにクセのある長い髪。身体的な特徴はなにも教えていなかったけど、彼に近づいたとき、あたしの髪が触れたのだろう。長さや質感は、あたしのものとよく似ていた。
 ただし、色はつややかな黒。瞳の色も、落ち着いた濃いめのグリーン。

 それはいい。ガウリイに、あたしの顔は見えていないのだから、きっと想像の色なのだろう。
 けれど……違っていたのは、それだけじゃなかった。

 『あたし』は、あたしよりずっと大人っぽくて……パッと見て、20歳近くにも見えた。あたしの実年齢は16歳だから、同じ年の女の子で、これっくらいの外見の子はいくらでもいる。
 でも、あたしは違う。背が低くて、幼い外見のせいで、今でもよく13、4に見られていた。
 この絵の『あたし』とは正反対に。

 もうひとつ。絵の中の『あたし』は、とても優しそうな笑みを浮かべている。たとえて言えば、月並みな表現になってしまうけど、聖母のような慈愛に満ちた、とでも言うんだろうか。
 そばにいるだけで、こちらまで優しくなれそうなほど、優しい微笑み。こんな顔ができる人を、あたしは知らなかった。

 『優しい』なんて、あたしとは一番対極にある言葉のひとつだ。「強そう」「元気」「明るい」など、いろいろとほめられたことはあるけど、「おしとやか」だの「やさしい」だのとは、ついぞ言われたことがない。


 これは…………<<あたし>>じゃない。
 …………いったい…………ダレ?


 (まったく……これじゃ、モデル料もらえないじゃないの)

 ちょっと苦笑して、小さく息をはく。
 <<あたし>>じゃなくても、彼があたしを見てこの絵を描いたのは事実。
 なぜか彼が、他の人を描いた絵だとは思わなかった。絵の具のあとが真新しいせいだろうか?
 だとすれば、たぶんこれはガウリイの心の中の『あたし』なんだろう。
 あたしを心で見て、彼の中に描かれた、イメージ。

 しかし、それは元のあたしと似ても似つかない、別人。これでは、モデルとしてここに座っていた意味がまるでない。
 普段なら、それでも座っていたことに違いない、とモデル料をせしめていたのだが――こんなに優しそうな表情をしている、彼の中の『あたし』のイメージを、崩したくはなかった。
 取った時と同じくふんわりと、再びキャンバスに布をかける。

 (まあ、あなたもともと、貧乏な絵描きのタマゴだもんね。
  モデル料は、出世払いってことにしといてあげるわ)

 ……たぶん、もう二度と会うことはないだろうけど。
 会ってしまえば、現実のあたしに、イメージの『あたし』はきっと消されてしまうから。
 ――だから。

 「…………。……Au revoir(オー ル・ヴォワール)。ガウリイ……」

 彼の耳元に口をよせ、一言だけ、小さくささやく。これは、この辺り特有の、あいさつだと聞いている。
 意味は……『さようなら』。
 普段使っている「さようなら」の言葉は、胸につかえて言えなかった。

 治ったばかりでかすれた声。いつものあたしの女の子っぽい声とは違って、少しだけ大人っぽく聞こえる、ハスキーボイス。
 ガウリイの知ってる、『あたし』によく似合いそうな。
 いつもの声が出て、いつものあたしに戻る寸前の。
 あなたしか知らない、『あたし』から。

 ――――サヨナラ。











 あたしは、そっとドアを開け。
 自分の身体を滑り込ませて部屋から出ると、音をたてないよう、静かに扉を閉めた。
 白い朝日は、ガウリイの背に一瞬だけあたり、そして消えた。




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