四月の雪・4


 絵が完成しても、『彼女』は来てくれなかった。



 最初の日は、ただただ待っていた。

 「遅いなー。ハラでもこわしたかな?」

 しかし、2日たち。3日たち。何日たっても、『彼女』が再び、オレの部屋のドアをたたくことはなかった。

 「あいつ……なんで来てくれないんだ……」

 答えの返らない問いかけ。けれど問わずにはいられない。心の底から、それだけを考えているのだから。

 絞り出した小さな声は、すぐに1人きりの薄暗いアパートに吸い込まれて、消えた。
 オレの前から、初めて『彼女』の色が消えたのと同じように。







 こうなってみてようやく、オレは彼女の事をなにも聞いていなかったことを、後悔した。

 名前も知らない。声も出ない。当然顔もわからない、たった1人の女性を、どうやって探せというのだろう。
 頼りになるのは、自分の感覚のみ。『彼女』の持つ『色』だけは、今もくっきり覚えている。つまりは、自分で見つけださなければならないということだ。

 決して楽な作業ではない。でも、どうしてもやりとげたかった。

 「だって……お前さんは、夢なんかじゃないもんな」

 今は絵の中にしかいない彼女をなでながら、噛みしめるように、そう呟く。
 『彼女』は、たしかに存在した。『彼女』の絵は、オレの夢を描いた絵なんかじゃない。

 この絵を完成させた日、たしかオレは机でいつの間にか眠っていたはずなのに、起きてみたら毛布がかぶせてあった。あれは、『彼女』がかけてくれたものだったのではないだろうか。
 そして、耳の底に残る声。

 『…………Au revoir(オー・ルヴォワール)』

 サヨナラ。
 声は出ないと言っていたけれど。あれは、たぶん『彼女』の声だ。
 唯一覚えてる声が、そんなことを言うなんて。

 「ダメだ……一方的に、さよならなんて言わせない」

 会って。もう一度、会って。
 『さようなら』を、取り消させるために。









 オレは、『彼女』の絵をコンクールに出してみた。
 もしかすると、この絵を見て、名乗り出てくれるかもしれない。
 そんな、わずかな希望をたくして。

 けれど。
 絵が、コンクールで受賞しても、授賞式が行われても、やはり彼女は現れなかった。

 「この快挙を、誰に伝えたいと思ってますか?」

 授賞式の日から、何度となくあびせられた、この質問。
 目の見えない画家が、コンクールで受賞するなんて、マスコミの格好のネタだ。オレの元には取材が殺到した。もちろんそれを使って、『彼女』を探すこともできたろう。
 簡単だ。この質問に一言、「この絵のモデルになってくれた女性を探しています」と答えるだけでいい。

 でもそれでは、オレが見つけたことにはならない。

 「この絵を見たいと思ってくれた人に、伝えたいです」

 無難な答えをすると、謙虚な人だとますます取材が来る。
 謙虚なんかじゃない。描いている間、何度もこの絵を見たいと言ってくれた『彼女』に、オレは心底このことを伝えたかった。
 それを考えると、胸の奥が痛みを覚える。

 どこかで、聞いていてくれるだろうか。気づいてくれるだろうか、オレの答えに。








 『彼女』の絵が認められて、オレの元へ仕事が入るようになった。
 人のいない街角を描いていた頃とは、評価も感想も正反対だった。

 先日、依頼してきたある女性は、オレの絵を受け取って、満足そうに言った。

 「この絵は、とてもあたたかいわね」
 「……ありがとう、ございます」
 「素敵だわ。不思議ね、見ているだけで、優しくなれる色――」

 女性の声からは、依頼に来た時の高慢さが消え、とても柔らかいものになっている。オレの絵に、『人』が入るようになってから、こういうことを言う人がずいぶん多くなった。

 人の心を、優しくさせる『色』。それは、『彼女』がくれた色だ。
 優しさもあたたかさも、彼女の持っていた色だった。

 『彼女』の『色』を知って、オレは初めて、自分がそれまで描いていた絵がどれだけ寂しい色をしていたか、よくわかった。とても比べものにならない。
 色に温度の違いなどないはずなのに、この『色』に触れると、いつも指先がほんのりあたたかくなった。

 『彼女』の色を描くたび、自分の心まで優しくなれるのが感じられる。彼女の絵を描く前にはなくしてしまったと思っていた、絵を描くことに対する喜びが、再び戻ってきたことを実感する。
 オレの絵も心も、『彼女』は救ってくれた。

 「あなたは、こんな色を描くために、画家になったのかしら?」
 「……そうかも……しれません」

 そう。そうかもしれない。
 オレがずっと、子供のころから描きたかった『なにか』。
 この『色』のことだったのだろうか。

 無性に、『彼女』に逢いたくなった。逢って、確かめたかった。
 『彼女』の色を感じられることが、どれだけオレの人生で意味のあることなのかを。











 「……これは、何本に見えますか?」

 オレの目の前に、医者のものだろう、指がさしだされる。

 「えーと……3本」

 ほぅ、と周囲から安堵のため息がもれる。オレの回りには、数人の男女が立っていた。たぶん、医者と看護婦だ。

 「手術は成功のようですね、ガブリエフさん。
  あまり急に目を使うと、目と頭が疲れます。今日はあまり物を見ないようにして、少しずつ『見える』感覚に慣らしていきましょう。大丈夫、ちゃんと元の視力に戻るはずですよ」
 「ありがとうございました、先生」

 医者は微笑んで、病室を出ていった。彼らとしても、手術が成功して安心しているんだろう。

 オレは、絵が売れた金で手術を受けた。最近確立された手術法で、これなら視力が戻ると言われたからだ。
 もちろん、とまどいはあった。目が見えない時に『見えて』いたものが、見えなくなってしまうような気がして。
 だが、結局手術を受けた。『彼女』を探すため、ひとつでも多くの手がかりが欲しかったからだ。

 自分の周りを見回してみる。白い病室。枕元には花束。花の色を見る。赤、黄、白。水色の花瓶との、コントラストが美しい。
 物が見えるという感覚は、こんな感じだっただろうか。あまりに久しぶりで、まだうまく掴めない。

 ただし、花の色が、心で『見て』いた時より多彩なのには少し驚いた。オレの心では、こんなに複雑な色でなかったような気がする。

 「あんがい、ちっちゃかったのかもな。オレの世界って」

 手を伸ばして花びらに触れると、そこにはいつも通り、目が見えない時と同じ、しっとりとした感触。
 大丈夫。前に『見えて』いたものと、同じことがちゃんとわかる。
 色がわかるようになった分、確実に手がかりは増えている。

 そう、思い込んだ。事実が本当にそうか、わからないくせに。まだ拭いきれない不安を、無理やり抑えこもうとして。












 目は見えるようになったものの。
 いつまでたっても、『彼女』は見つからなかった。

 「……あ!」

 オレの声に反応して、今すれちがったばかりの、黒髪の女が振り返る。いや、違う。この人じゃない。

 「すみません……間違えました」

 素直に謝ったオレに、もう興味をなくしたのか、女性はまた元の方向を向いて歩き出していった。
 一方のオレは、ため息を大きくひとつ。

 最近、町中で振り返るクセがついた。あまりに『彼女』が見つからないと、わずかでも似ている人を、片っぱしから問いつめてみたくなる。

 そして……もしかすると、オレは『彼女』のことが、わからないのではないかと不安も生まれる。
 今、通り過ぎた女性が……自分を追い抜いていった女性が、『彼女』なのではないかと。
 本当に、目が見えるようになって、良かったのだろうか。なんだか、自信がない。
 目が見えるようになったオレには、彼女の『色』がわからないのではないだろうか。

 とはいえ、それで諦める気など、毛頭なく。
 チリチリと、焦げるような想いを抱え、オレは『彼女』を探し続けた。



 「早く……逢いたいんだ。今、どこにいる……?」








 四月の雪 それはまぼろし
 とけて かわいて 見えなくなって
 あとには なにも残らない




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