今年の春は、早足でやってきた。空気がとてもあたたかい。冬の寒さが大キライなあたしにとっては、今年は当たり年と言えるだろう。 今日も、とても天気がいい。気持ちのいいくらい、抜けるような青い空。
――こんな気持ちのいい空から、雪が降るわけもない。
今日も、とても天気がいい。
新聞を見ながら、父ちゃんがつまらなさそうに言った。禁煙のためにくわえてる火のついてないタバコは、すでにトレードマークになりつつある。あれ、いつまでくわえてるつもりなんだろ。 姉ちゃんは、父ちゃんの呟きに、律儀にもたずねた。
「絵画展? それって、今度のゼフィール美術館三十周年の催しもの?」
…………ッ!!
「こいつ、昔は目が見えなかったんだと。今はもう、見えるらしいがな」
女性の絵、って……やっぱり、『あたし』の絵?
「おもしろそうねえ……ね、リナ」
姉ちゃんのかけた声で、唐突に我にかえった。姉ちゃんは、女の子にくっつけるカエルを見つけた男の子のような、いたずらげな笑みを浮かべている。
「ねえ、行きましょうよ。その絵画展」
姉ちゃんの必殺技。それはこの、『極上の微笑み』。 姉ちゃんの恐ろしさを、たぶん世界で一番よく知っているあたしには、こう答えるしか道が残されていなかった。 「はひ……行きます……」
ガウリイ。彼の名前と思い出の中の笑顔を、なんで忘れることができないんだろう。 (忘れたいのに……あんなやつ――)
忘れようとするたび、強くなる想い。 (あいつが心配なだけよ……。今にも餓死しちゃいそうな、貧乏生活だったんだもん)
心にカギをかけて。彼の絵画展会場へ向かうごとに、強くなる感情へ 、ムリやり理由を刷り込む。
だから、ガウリイの個展会場がかなり盛況なのを見て、あたしはちょっとほっとした。いつもなら、人混みはキライなのだけれど、堂々と胸をはって行きづらい今の心境のような時は、逆にありがたい。 そっと、様子だけ見て帰ってこられる。きっと、彼と顔を合わせることもないだろう。
けれど、……心のどこかで、ほんのかすかな期待がある。 (バカね。……今さら会って、どうするわけでもないクセに) さっきから何度もしてきたように、また冷静になろうとするが、なぜか今度は気持ちを切り替えることができなかった。
「じゃあリナ、まずはこっちから回りましょ」
姉ちゃんが指さしたのは、ガウリイの作品の中でも、最近のものが展示してあるスペース。
あたしも、手近な一枚を覗いてみる。
ふと視線を巡らせると、大きく人の描かれた、人物画で目が止まる。 もう一人の――そして、存在しないはずの『あたし』。
絵は、あの日のまま、そこに飾られていて。 『ガウリイ=ガブリエフの出世作』。
この絵が、彼に大きく役立った、というのは嬉しい。けれど、あたしを見ながら<<あたし>>を描いたものじゃないという事実が、少しさびしい。 「あら、この絵がとうちゃんの言ってた、出世作の女性画?」
さっきまで少し離れて別の絵を見ていた姉ちゃんが、いつのまにか隣に来ていた。あたしと同じ絵を見上げて、感慨深げに見入っている。どうやらそこそこ気に入ったようだ。
「モデルの性質を、よく描きだしてる。いい絵ね、これは」 あたしははじかれたように姉ちゃんを振り返る。
「人の持つ、優しさとあたたかさ。それを、とても万人にわかりやすい、いい色で描いてる。モデルの持ってる人格が、うまく出ているわね。
……第三者から見ると、そういう風に見えるのだろうか。このモデルが、あたしだと知らなければ。
わからないから、ただ、あたしはもう一度、『あたし』と向かい合う。
かけられた声に、身体と思考が固まった。
ただひとつ違うのは、話に聞いていたとおり、こちらを見つめる両の瞳。 「ガウリイ……」
口の中で、小さく言葉がもれる。あたしでさえも、自覚するのがやっとなぐらい小さく。
「この絵を描いた、ガウリイ=ガブリエフです。どうです? 気に入ってくれました?」 半分混乱してるあたしの代わりに、姉ちゃんが答える。質問をかけられて、初めてガウリイの笑顔が、困ったようにゆがんだ。
「一年ぐらい前に描いた絵です。ただ、このモデルをしてくれた人が行方不明になってしまって……
そこでガウリイは、なぜか姉ちゃんに向けていた視線を、あたしの方へと下げてくる。 「お前さん、知らないか? この絵によく似た人を。どこかで、見かけたとか」
あたしはちらり、と横目で、助けを求めるように姉ちゃんを見る。でも姉ちゃんは、腕をくんだまま動こうという気配すらない。
彼は、少し失望したような、けれど初めから答えはわかっていたと言いたげな苦笑を浮かべる。 「そっか。まあ、もし見つけたら、伝えてくれよ。オレが逢いたがっていた、ってな」 あたしは無言で、小さくうなずいた。
ガウリイは、にっこり笑う。見知らぬ、年下の、どこかの少女へと向ける笑みで。 目の奥がやたらと熱い。それ以上、彼の顔を見ていられず、あたしは姉ちゃんへと視線を移す。 「ねーちゃん……そろそろ帰ろ」
まだ展示を半分も見ていないはずなのに、姉ちゃんは静かにうなずいてくれた。
ゆっくりと。想いを全てふりきりながら、彼に背を向ける。
栗色の髪の少女と、おそらく姉であろうよく似た女性が連れだって去ってゆく背中を、オレは何とも言えない気持ちで見送った。
オレは、『彼女』の絵を見上げた。探し続ける『彼女』は、変わらない笑顔で、オレに優しく微笑みかけている。 「――――――ッッ!!」 そのことに思い至り、息をのむ。そういえば。今、あの少女はなんと言っていた? ――Au revoir。
あの日、『彼女』が残した言葉。
オレは慌てて目を閉じる。そして思い出す。『彼女』の『色』と少女の『色』を。 「チィッ……!」
強く舌打ちして、栗色の少女の後を追いかける。まったくなんてバカなんだ。
しかも目が見えるようになったせいで、いつのまにか自分の描いた『彼女』の『姿』に、引きずられていたんだとようやく気づく。
今でも目をつぶれば、少女の持つ『色』が鮮明に飛びこんでくる。 廊下の角を曲がり、建物を出たところで、声をかぎりに叫ぶ。 「お嬢ちゃん! 待ってく――」
しかし。 「……………………」
どちらへ行ったらいいかもわからず、ただ立ち尽くす。見上げた空は、青く澄んでいた。空に、風に、この街にいるであろう『彼女』の『色』をたしかに感じる。
高く、高く晴れわたった空は、雪の気配すらない。 |