個展の終わった翌日には、オレはもうこの街へ住むことを決めていた。
ゼフィーリアの首都、ゼフィール・シティ。この街に、たぶん『彼女』はいる。
『彼女』と最初に会ったのはオレの郷里なのだが、それでもおそらくこの街に彼女は住んでいるのだろう。
一年、あの街で探した。ならば、今度は最低でも一年はこの街で探そう。そう思った。
それに、この街や空には、『彼女』の『色』を感じる。
彼女を育み、慈しんできたであろう、『色』。
この『色』が、一度彼女を見失い、絶望しかけたオレに光と希望を与えてくれた。
まるで一年前、絵を描くことに絶望したとき、『彼女』が『色』を与えてくれたみたいに。
適当な不動産屋を見つけて、飛び込みで部屋を探す。
などというと、たいていは怪しそうな、イヤそうな顔で見られるのが相場なのだが――
「すまない。アパートを探してるんだが」
「はいはい。前の住所と名前は……え? あんた、あのガウリイ=ガブリエフさん? いやー、びっくりしたねぇ」
最近名が売れているというのは、こういう時にいい。オレは顔パスならぬ名前パスで、すぐに住居を決めることができた。
白い壁。貧乏な学生か芸術家が住みそうな、狭い部屋。
あとは……あたたかそうな、窓辺。
静かで、優しい日が入り込む、居心地のいい窓辺。
それが、必要な全てだった。
「あんたみたいな、売れてる画家だったら、もっといい家あるよ? なんでこんな狭い部屋……」
「いや、いいんだ。ここがいい」
不動産屋のおばちゃんは、しきりに首をひねりながらも、オレの希望通りのアパートを紹介してくれた。
ここを選んだのには、もちろんわけがある。
部屋には、ベッドと机、それにキャンバスと、必要最小限のものだけを置く。
そして、窓辺には、特等席のためのイスを。
一年前、『彼女』が来た時と、同じ位置に。
験かつぎの意味と、あの頃の感覚を思い出すため、この部屋をつくりあげた。
今は、まだ四月。『彼女』と初めて会った季節。そしてもう一度、出会った季節。
すぐに見つかるとは思っていない。だけど。
何年先でもいい。また、いつかの四月、『彼女』がここに座って微笑んでくれないだろうか、あの日のように。
四月のやわらかい陽光の中、今もあの日の『彼女』が微笑んでいるような気がして、オレの顔にもやわらかく笑みが浮かんだ。
「おにーちゃん、お絵かきしてるのー?」
「てるのー?」
幼い声がすぐそばで聞こえて、オレはキャンバスに向けていた視線を、下へ落とした。
5、6歳の少年と、それより小さな少女が、オレの手元を覗き込んでいる。
絵の具を混ぜる手を止め、オレはその子たちに答えた。
「ああ、そうだぞ。この公園の絵を描いてるんだ。
ほら、これわかるか? お前さんたちの絵だぞ」
キャンバスの中には、はや赤や黄色に色づいた街路樹と、そこを行き交う人々の絵。
舞い散る落ち葉と、夕陽の朱が、綺麗な風景だった。
絵の中に描いた、二人の子供を指してやると、少年たちは嬉しそうな歓声をあげる。
「これ、ぼく? じゃ、これはエナだねー?」
「えなー? これ、えなー?」
「そうだな。お前たちだな」
少年たちは、きゃいきゃいはしゃいでいる。子供はなんでも喜ぶから面白い。そう思って見ていると、ふいに少年が、不思議そうに小首をかしげた。
「でも、このお姉ちゃんはー? だれ?」
少年が指さした先には、一人の少女の姿。
少女、といっても、この二人の少年少女より十歳は年上の、栗色の髪をした小柄な少女だ。絵の中では、三人で仲良くはしゃいでいる「少女」に、見覚えのない少年がひたすら頭を悩ませる。
だが、オレには覚えがある姿だった。自然と頬がほころびる。
なぜか、このことに関してだけは、ついつい表情がゆるんでしまう。
「このお姉ちゃんはな。お兄ちゃんには見えるんだ。だから描いたんだぞ」
オレがそう言ってやると、少年たちはなぜか目を輝かせ、
「おにーちゃん、れーのーりょくしゃー?」
「れー……しゃー?」
いやべつに、幽霊が見えるって意味じゃないんだが……。
どこでそんなコトバ覚えたんだ、コイツら。
何と答えようか、ポリポリ頬をかいていると。
「ジムー、エナッ! ごはんよぉー。帰ってらっしゃーい!」
「あ、ママだ! おにーちゃん、じゃーねー!」
「じゃねー!」
幼い兄妹は、母親らしき人の声を聞き、オレに手を振って走り去ってゆく。
オレは小さく手を振り返し、そして再び絵の具を混ぜ始めた。
『彼女』に色をのせるために。
『彼女』を逃がしてしまった、あの日以来。
オレの絵には、必ず一人の少女が描かれるようになった。
別に、意識してやっていたわけではない。気がついた時にはいつの間にか入っていたのだ。
ある時は、並木道のベンチで本を読んでいて。ある時は、公園の子供たちと遊んでいて。
そしてある時は、こちらへ嬉しそうに微笑んでいて――
絵の中での、少女の大きさや行動はそれぞれ違うが、必ず「少女」は小柄で栗色の髪をした、あの少女。
オレが初めてみた、『彼女』の姿だった。
一度しか見ていなくとも、忘れるわけない。忘れられない。
『彼女』に逢えなくて、募る想いそのままに、オレはキャンバスへ必ず『彼女』の絵を描いた。
最近では、この街の大通りに面した画商の店で、絵を置いてもらっている。
画商は、「ガールフレンドですか?」などとからかったが……オレには、苦笑を返すより他なかった。
我ながら、女々しいとは思う。けれど、抑えきれない想いっていうのがあるんだと、オレは初めて知った。
「これは、オレの好きな女(ひと)だよ」
「へええ。可愛らしい方ですね。そのお相手には、もう告白したんですか?」
「いや……。どこにいるかも、わからないからな……」
でも、必ず探し出す。
オレは胸の中で、固く誓った。だから、「どこかで見たような……」という画商の呟きは、ついつい聞き流してしまっていた。
季節は、またたく間に移り変わり。
もうすぐ、あの雪の日から、二度目の春が来る。
オレにできるのは、『彼女』の絵を描く、ただそれだけ。
絵を描きながら、街を探し歩くだけ。
ただひたすら、あてもなく。
時には、無力感に身が焦げるほど、苛まれたこともある。
けれど、疑うことなく信じていた。
この『色』の空の下。必ず、『彼女』はこの街にいる、と。
マロニエの並木道は、長い冬の間だいじに守っていた冬芽を、いつ解放するか悩んでいるようにふくらんでいる。だがたぶん、それは少なくとも、今日ではないのだろう。
はぁ、と吐く息は、白いけむりのように浮かび、すぐに空気へととけこんでいった。
今日は寒い。四月だというのに、まるで季節が逆戻りしたようだ。
昨日はもう少しあたたかかったのに。絵を描く手がかじかんだら、困るな。
大きく手に息を吹きかけ、オレは指をあたためた。
花壇の白い花も、せっかくつけたつぼみをかたく閉じてしまっている。なんだか気の毒な気もした。
加えて言うと、空模様もあまり期待できる状態ではない。氷混じりの雨でも降られると、絵が台無しになってしまう。
早く終わらせて、早めに帰ろう。そう考えて、手早くキャンバスをセットした。
ちょうどその時。
フワリ、と手元に舞いおりる、白い花びら。
しかしそれは、地面に落ちると同時に消えてしまった。
いや、花びらじゃない。これは……
「――雪、か――?」
花びらじゃない証拠に、白い雪は、白いキャンバスに触れると同時にとけてゆく。
オレは舞い落ちる雪のひとひらを、手にとってみた。
冷たい。そして、なにも残さずとけてゆく。
これは、『あの日』と同じ雪。すぐにとけて、見えなくなって。
幻のような、四月の雪。
――――とくん
意識しなくとも、心臓の鼓動が感じられた。
とくん とくん とくん
もしかすると……そう、もしかすると。
思い出のこの雪が、……呼んでくれるような。そんな予感がして。
…………かつん。
小さな靴音。そして、小さな気配。
はっ、と気づいて、顔を上げる。
『あの日』と、同じ感覚が、オレの胸に蘇った。
白い景色の中に、あざやかなほど浮かび上がる、あの『色』。
一人の『人』が、こちらへ向かって走ってきていた。
――既視感(デ・ジャ・ビュ)――
オレの目に映ったのは、一年前、個展に来ていた栗色の髪の、小柄な少女。
感じたのは、二年前から、オレの心を捕らえて放さない、『彼女』の『色』。
「……見つけた……」
自分の口から出た言葉が、まるでどこか遠くからの音のようで。
こちらに走ってくる『彼女』。脇目もふらず、まっすぐに。
頬は紅く紅潮し、その顔は――――
あ、あれ?
「なに考えてんのよこのボケエエエェェェェ!!!」
……オレは、『彼女』から思いっきりヘッドロックをくらった。