古物語・1


 「姫。命令だ。結婚しなさい」
 「嫌です」

 最初から予想していた答えとはいえ、それでも次にかける言葉が見つからず、大臣(おとど)は御簾の前で大きなため息をつく。
 彼は貴族の中でも最高位のひとつともいえる大臣を冠する男である。名門摂関藤原家の流れを汲み、宮中でも二大勢力の片翼を担うほどだ。

 そんな大臣の悩みは、今この御簾の中にいる、彼の娘にある。

 いつもならこの『打てば響く』ような答えは、姫の教養の現れと、相好を崩していられようが……

 「姫。頼むから首を縦に振ってくれ。右大臣家のりな姫は、どんな公達にも心を動かさぬ高嶺の花と、今なら世間はこの噂で納得してくれている。だが、これ以上独身を貫くと、身体に欠陥があるなどと言われかねないのだぞ!」

 「世間の噂などそのようなもの、放っておかれても構わないでしょう。それで父さまが主上(おかみ)のご不興をかう、というのなら、話は別ですけど」

 御簾の中からはいたって上品な、それでいて落ち着いた答えが返ってくる。
…理論武装でもしていたのだろうか。

 「しかしな。大姫のそなたの婚姻がまとまらぬと、二の姫、三の姫達とていつまでも結婚できぬことになる。それでも構わぬというのか?」

 少し卑怯ではあるが、大臣は妹姫達の事を持ち出した。

 この時代の結婚は普通、婿取り制度であった。親は一生懸命、娘に送られてくる文の中からいい公達を見繕うが、いざ結婚させるのは通常、姉妹順である。年の問題もあるし、男子同様姉姫の方が上に見られていたからだ。
 つまり、大姫(一の姫)を結婚させてから二の姫、その次が三の姫という具合である。

 幸い、姫の三人の妹姫たちはまだ幼い。二の姫でさえ、今年でやっと八つだ。だがしかし、十を過ぎたらいつ結婚してもおかしくなく、適齢期は十三というこの世界で、十五になっても未だ結婚する気のないりな姫では、親も気が気ではない。

 「二の姫たちには父さまが良い公達を探してあげればよろしいではないですか。いっそのこと、表向き私は死んだことになさって下さっても結構です。うるさい文が来なくなってせいせいしますわ」

 これである。色気も何もあったもんじゃない。

 大臣はさっきより大きなため息を落とし、とにかく文は全て目を通しておきなさいと言い残し、立ち去った。




 大臣がいなくなると、上品だった姫は急に態度を変えた。

 「あーあ。父さまもしつっこいわよねぇ。いい加減あきらめりゃいーのに」
 「姫さま…。姫さまは本当にご結婚なさる気はありませんか?」

 側に控えていた女房(侍女。奥さんのことではない)が、少し心配そうに問いかける。

 「あのねぇ、少納言! あたしは顔も知らない男と結婚して、ましてやそいつの子供を産むなんて、絶対まっぴらゴメンよ!? 『女の幸せは結婚にある』ですって!? だーれがそんな事決めたのよ!!」

 この女性、姫つきの女房で、少納言と呼ばれている。
 もちろん、本名ではない。貴族はあまり本名を使わないものだ。男性は自分の身分や役職がそのまま呼称になるが、女性の場合は父親の身分が使われることが多い。

 少納言が大臣と同じ気持ちでそっとため息をつくと、大声で自分の苛立ちを表現していた姫が、ふいに小声になった。

 「結婚なんて……信じられるわけないじゃない」
 「姫さま………」

 姫の言葉の裏にひそむものを敏感に感じとった少納言が、何を言おうか逡巡していると、姫は前にどっかと足を投げ出して言った。

 「あーあ。斎宮はいいわよねー。従妹なのに宮家でさー。あたしも斎宮になりたかったなー」
 「そんな、姫さま…。斎宮さまはお務めで行ってらっしゃるのに…」

 斎宮とは、伊勢神宮で神に仕える未婚の女性のことである。代々宮家の女性がその任につき、主上が代わると斎宮も代わった。斎宮は結婚が認められず、ひたすら神に尽くす巫女だった。

 今の斎宮は、先帝の弟宮の孫娘、あめりあである。この弟宮は、姫の祖父でもある人なのだ。
 しかし、斎宮にとっては父方の祖父だが、姫にとっては母方の祖父だ。姫にも宮家の血が入っているとはいえ、父親の血統が重視されるしくみでは、姫は宮家の者とは認められない。当然、斎宮にもなれないというわけだ。

 「でも、ほんとに羨ましいわよ。…少なくとも、今の主上の御世の間は、結婚しなくてすむじゃない?」
 「…そんなことはおっしゃるものではありませんよ」

 お付き女房として一応たしなめはしたが、それで聞く姫ではないことを、少納言は十分わかっていた。




 「そうか、姫がそんなことを……」

 少納言から姫が斎宮について話したことを聞き、大臣は唸った。少納言は、姫が結婚を嫌がる理由は話さなかったが、それでは姫の「結婚したくない」という主張は通らないようだった。

 「どうあっても、結婚してもらうぞ……」

 大臣は一人、部屋の中で呟いた。それを聞く者はどこにもいなかった。




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