聖なる迷い子たち・3


 パタン…

 静かに閉じた扉でリナの姿が遮られると、ガウリイは深く深くため息を吐いた。
 先程のリナの笑顔。顔では笑っているのに、瞳は今にも泣きだしそうなほど揺れている、あの表情。

 以前から時々リナはこういう顔をすることがあった。子供には決してできないその表情に、『もう子供じゃないんだ』と言い聞かされているような気がして、彼女の哀しみをわかってやれないことに対して、悔しかった。寂しかった。

 (いつまでも子供なら、良かったのに――?)

 不意に頭に浮かんだ考えが、なぜだか強くガウリイの頭に焼き付いた。

 自分がリナに言ったことは、なにかおかしかっただろうか。
 いつかはリナも、結婚するだろう。仲の良い町の娘が結婚する時、それを祝福するのは、『神父として』当然の務めだ。

 リナには幸せになってほしかった。別に今が不幸というわけではないが、彼女がより幸福になるというのは、ガウリイにとって心の底からの願いだった。
 しかし。今、リナが誰かの隣に花嫁衣装を着て立ち、人生最高の微笑みを彼の知らない男に向けるのを想像した時、胸に広がるこの焦げつくような感情は何なのだろう?

 リナの幸せは嬉しい。だが、結婚してほしくない。子供のままでいてほしい。
 矛盾している。気持ちがまるで、ちぐはぐなパズルのピースのように、うまく当てはまらない。

 その根幹をなしている、少しだけ胸に生まれた感情に、たったひとつ心当たりはあったのだけど―――

 「……考えすぎだな」

 思考をその場に放棄して、ガウリイは礼拝堂を出ていった。








 それを見た時、人は何が起きたのかと思うだろう。
 そして条件反射のように、パッと道をあけるはずだ。
 なにせ、『敵に回すと恐ろしい女性』として町でもトップクラスを誇るリナが、肩をいからせ明らかに憤怒の形相で、道を歩いてくるのだから。

 完全に余談だが、このランクで毎回トップの座につくのは、ダントツで彼女の姉である。
 とにかく。リナは今、心の中の怒りをまったく隠そうとはせずに歩いていた。

 「ガウリイのバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカッッ!!」

 口をついて出るのは呪詛…というほど恨みがましくはない。単なる文句で、相手が目の前にいたらほほえましい痴話ゲンカにうつる、といった程度だろう。
 見る人が見れば、明日には忘れているようなタイプの、つまり一時的な怒りだということはすぐにわかる。だが本人は、本気で怒っている、つもりだった。

 「なによなによなによ!! 普段からデリカシーのないヤツだとわかってはいたけど、今回のは極みまできてるわよね!! 乙女ゴコロも知らないで―――」

 そこまで言って、リナはピタリと口をつぐんで立ち止まった。
 知るわけないのだ。なにせ、リナはガウリイに何も言っていない。

 自分でも、この感情を自覚してまだ日が浅い。今までつきあいのあった5年を全てこんな気持ちで埋め尽くしてきたのならともかく、まだほんの数ヶ月だ。ガウリイに伝わるには短すぎる。
 いや、そもそもこれまで「近所の仲の良い子供」として接してきた自分が恋愛感情を持ったなどと、ガウリイは想像もしないのではないだろうか。

 それでなくとも、あの男は神父なのだ。生涯独身を貫く神父は、色恋と最も遠い世界の人間である。
 あの容姿ではガウリイに恋する女性も1人や2人ではないだろう。しかしこれまで、彼がそんなウワサに上ったことなどまったくない。体よく断っているのだ。

 事実、リナは一度だけ、ガウリイが女性から告白されるシーンを盗み見てしまったことがある。
 夕方、赤い西日が白い壁を染める頃、菜園のある教会の裏手で。
 抱きつくような勢いで告白してきた美しい女性を、ガウリイはそっと引き離し、まさにお手本のような優しい声と笑顔を見せて。


 ――ありがとう。でもオレは神に仕える身です。
   その気持ちだけを受け取っておきます。
   いつか、あなたの結婚式に立ち会えるのを、楽しみにしていますよ。


 「あ〜〜〜、ムシャクシャする!!!」

 リナはガシャガシャガシャと頭をかきむしった。
 もっとも、これがきっかけでリナは自分の気持ちを知ったのだから、わからないものだ。
 一方、彼女は気づいていないが、この時に見た『神父の身分を使った断り方』が、リナの心で大きく引っかかっている。

 ガウリイはやはり神父で、自分の気持ちを告げたら彼を困らせることになる――。

 リナの性分としては、こんなふうにウジウジと悩むより、スパッと告白してはっきり玉砕した方が、よほどすっきりする。だが、自分が告白した時、周囲は『神父』をどう見るかと考えると、やはり簡単には言えない。またガウリイ自身も、これまでどちらかといえば「近所のお兄さん」的な人だったのに、『神父』へと態度を変えてしまう可能性がある。よそよそしい彼を見るのが、ほんとは一番いやだったのだろう。
 ムシャクシャするのは女性への嫉妬でも、愛想よく断ったガウリイに対する腹立たしさでもない。ぜんぜん先が見えず、宙へ浮いたままになっている自分の心に対する不安のためだ。

 リナは大きく大きく息を吐くと、雲が流れてゆく青い空を見上げた。

 「……なんであんな男、好きになっちゃったんだろー……」

 使い古された、けれど一番的確な言葉を呟き、リナがぼんやりと角を曲がったその時。

 「わっ!」
 「…きゃっ!」

 上の空だったリナは、出会い頭で誰かにぶつかってしまった。幸い2人とも倒れなかったが、とっさに反応できず足が止まる。

 相手は若い男だ。リナよりわずかに年上だろうか。男のくせに艶のあるきれいな黒髪は、少し長くえり足までのびている。
 彫りの深い、間違いなくハンサムの部類に入る顔の中で、海の色の瞳が驚いたようにリナを見ている。きっとその瞳に映るリナの顔も、同じように驚いた表情をしているのだろう。

 この辺りでは見たことのない顔だった。もっとも、ご近所を全て知っているわけではないのだが、少なくとも彼女には覚えがない。
 リナが反応を返す前に、男が動いた。

 「……すまなかったな」

 ぶっきらぼうに言って、リナの横を通り抜けてゆく。

 「え? あ、うん…」

 あいまいに返事をし、振り向きもしない男の後ろ姿をほんの短い間だけ見送ると、その姿が見えなくなる前にリナも背を向けて歩きだした。
 相手はただの通りすがりで、自分とは無関係な人であるからだ。

 そのまま男のことは記憶の底に沈めてしまったリナだったが、この記憶を掘り起こす時は呆れるほどに早く来た。




 翌日、リナはアメリアと隣町へ買い物に出かけた。

 「生クリーム、チョコレート、刻みナッツ……。何これ。アメリア、あなたケーキでも作る気?」
 「いえ、とーさんのお酒のおつまみにと思って」

 チョコレートやナッツはともかく、生クリームという項目が非常に怖い。これだけは料理に使ってくれることを、固く願ってやまないリナだった。

 もちろんこの町でも、単なるお菓子であれば手に入る。だが、その品揃えはあまりにも貧しく、どれもせいぜい1種類か2種類ほどしかない。
 まして、アメリアの家のような「お客さまが来るのでちょっと高級なワインが欲しい」というような注文は、となりの大きな町まで行かないと売っていないのだ。
 リナも、ついでに買い物してこいとねーちゃんに言われたので、そのおつかいである。

 住宅地を抜け、しだいに畑の多くなる道を歩き、となり町へ向かっていた時のこと。
 道のむこうから、誰かがこっちへ歩いてくる。
 きれいな光沢をした少し猫っ毛の黒い髪、彫りが深くて青い瞳の………

 (―――あれ?)

 リナは思わず目を見張った。それは、昨日ぶつかったあの青年だった。
 だが、もっと驚いたのはその直後。
 隣にいたアメリアが、リナより一歩前に出ると、男に向かって声をあげた。

 「おはよーございますっ! アーチェスさん!」

 青年は底抜けに明るいアメリアの挨拶に、表情ひとつ変えず低い声で、

 「…ああ」

 とだけ返した。
 事情のわからないリナは、ただアメリアと青年の顔を見比べることしかできない。
 その時、青年がリナの方を見た。

 青い瞳がリナを射抜く。

 (――――!)

 一瞬だけ、その瞳に吸い込まれそうになり、リナは反射的に息をのみ、身を固くした。

 「…………」

 しかし青年は、ふいと視線をそらすと、そのままリナ達の横を通りすぎてゆく。
 完全に青年とすれちがってから、リナは力を抜いた。
 隣のアメリアに、目線で問いかけの意を示す。

 「……アメリア。今の人、知り合い?」
 「ええ。おとといおむかいに引っ越してきた、アーチェスさんよ」

 アメリアは、ぐぐぅっ、とこぶしを握りしめた。

 「不愛想な人だけど、ほんとは優しいの! 巣から落ちた鳥のヒナを助けるなんて、まさしく正義の行いだわ!」

 アメリアは何かに満足して、どうやら陶酔モードに入っているらしい。うっとりとした顔になっている。
 リナの中ではとてもとても、あの不愛想な態度と『鳥のヒナを助ける』という行動は結びつかなかったが。

 「――なんか、変わった人よね」

 深い深い海のような濃い蒼色が、なぜかとても印象に残った。




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