トルコ

2007年4月


 おまけのその他いろいろです。

 旅行記では紹介できなかったことや、思ったりしたことをつぶやいたりします。


【両替】

 両替はイスタンブール空港で1万円、ペルガモン遺跡前の郵便局で3,000円をして、残金は空港の免税店で1番小さいナザーレ・ボンジュが1個買えるくらいでした。12日間のツアーでトルコに実質10日間滞在したにしては少ないでしょうか。

 絨毯、トルコ石、革製品などの高額の買い物は一切していません。昼食・夕食時の飲み物、絵はがき、切手、お土産のロクム(お菓子)、チャイとエルマチャイを数種類とチャイカップ、ナザーレ・ボンジュ大小いくつか、ドライブインで買った水やジュース代、フリータイム時のトラム代、イスタンブール国立考古学博物館と古代東方博物館の共通入場券代、フリータイムの夕食代くらいかな。
 あまりお土産物を買わない人なのでこんなものでした。参考にはならないかもしれませんね。
【服装】

 寒い日があると困るので念のためニットを1枚と冬物の厚手のシャツを持って行きました。まさかこの組み合わせで着ることがあるとは夢にも思ってなかったです。そのまさかがカッパドキアでの雪の日の観光で現実になってしまったときは、えむちゃんと顔を見合わせて、「念のためって必要だね。」とうなずき合ってしまいました。

 あとは、半袖Tシャツ、長袖Tシャツ(っていうのか?)、長袖シャツ、ウィンドブレーカーを組み合わせて着用してました。エフェソス遺跡やイスタンブール市内の日中は半袖Tシャツと長袖シャツで充分で、今回ほど寒暖の差のある海外旅行は初めてでした。

 遺跡観光でこの時期はまだサングラスは不要でした。帽子は持ってたほうがいいと思います。




【ガイドブック】

 イスタンブールで半日フリータイムがあったので持参しました。道と乗り物関係のチェック、博物館での見学の参考に大活躍でした。持って歩いたのはフリータイム中だけで、ツアーでの行動中はバスでお留守番です。



【食事】

 これは普段の食生活と好みによるので、口に合う合わないは人それぞれとしか言いようがないですが、私は心配が杞憂になるくらいにおいしく食べられました。ギリシア料理やエジプトでの食事が苦手だったので、同じ系統だと考えられるトルコ料理も心配だったのです。よかった〜。

 それでも、フレッシュジュースを飲んだのは帰国日のフレッシュザクロジュースのみで、他の日は飲まないように心がけていました。
【ホテル】
  都市名 ホテル名 トルコ的ランク 寸     評  
1泊目 アンカラ アンカラ・ヒルトン ☆☆☆☆☆ 唯一、文句なしの5つ☆ホテル。
2泊目 サフランボル カディオール・シェフザード ☆☆☆ 部屋によってバスルームの扉の高さはまちまちだった模様。私たちの部屋は膝より高かったです。(私たちの部屋より扉が高い部屋はなかったみたい)
3・4泊目 カッパドキア デデマン ☆☆☆☆☆ 非常にがんばって4つ☆リゾートホテルがいいところか?施設のあちこちに老朽化が見られる。
5泊目 パムッカレ コロッセア ☆☆☆☆☆ 4つ☆リゾートホテルだと思います。
6泊目 イズミール プリンセス ☆☆☆☆☆ 4つ☆リゾートホテルだと思います。
7泊目 チャナッカレ コリン ☆☆☆☆☆ 4つ☆リゾートホテルだと思います。コロッセア、プリンセス、コリンとだんだん良くなってきたように思います。
8・9・10泊目 イスタンブール エレシン・トプカプ ☆☆☆☆☆ 5つ☆と主張するなら、あえて反対はいたしません。

【ニハットさんのバス車内でのお話し】
 移動中のニハットさんのお話しで覚えているものをいくつかご紹介します。

『屋根の上』

 一戸建ての民家の屋根の上に、ガラスのビンが乗っていたら花婿募集中の適齢期のお嬢さんが、乗っているのが石なら花嫁募集中の適齢期の息子さんが、その一家にいるということ。
 数年前までニハットさんの実家の屋根の上には大(ニハットさん)・小(ニハットさんの弟さん)2個の石が乗っていたけれど、弟さんが結婚して今は石は1つ(ニハットさん)だけだそうです。


『ポプラ』

 バスでの移動中、20〜40本くらい密生して植えられたポプラが目立ち、何だろうと思っていたら、それは男の子が生まれた親御さんが、息子さんが適齢期になったときにその木を伐採して売って結婚資金にするために植える風習が残っているところがあるのだそうです。今は、その風習が残っている地方ではそのポプラを利用するために政府がパルプ工場を作っているところもあると言ってました。


『日本語』

 ニハットさんは大学卒業後、エーゲ海沿いのリゾート地のホテルにホテルマンとして勤務していたそうです。それが湾岸戦争が勃発して欧米や日本からの観光客の足が遠のき、退職せざるをえなくなって実家に帰っているとき、同じ村に住むイトコさんが日本人女性と結婚しました。そこで、イトコさんの奥さまとなった日本人女性に日本語を教わり、兵役後、それだけ日本語が話せるならと紹介されてガイドの職業についたそうです。