「あーお茶がうまい」
日曜の昼下がり、一人宿舎でお茶を楽しんでいる男がいた。
男は黒髪、黒い瞳、黄色といわれる肌をしていた。
叢雲 蒼夜、ここドルファン国で傭兵稼業をしている東洋人であった。
戦場では敵味方ともに恐れられている彼だが、今はそんな素振りも見えず和んでいた。
先日ドルファン地区の輸入雑貨店で彼の国のお茶、玄米茶を見つけたのだ。
「まさかこの国で売っていたとは!!」
そういってダースで購入したのだ。
決して安くはなかったが、好物の前には些細なことであった。
そして今、大好きなお茶でアフタヌーンティーを堪能していたのだ。
ジジくさい台詞も、遠い異国で大好きな、懐かしい味に再会した感動から来るものであった。
そんな彼のもとへピコが血相変えて飛んできた。
金髪の髪がまぶしい元気そうな少女。
贔屓目に見なくてもとても愛らしい容姿をしている。
但し身長数十センチ程で羽が生えていて、そのまんま妖精を地で行っている姿だが。
さらには不思議なことに叢雲以外の人には姿はおろか声も聞こえはしない。
おかげで周囲の人に独り言の多いやつと、誤解されることもしばしばある。
しかし数年来の相棒である。
「たぁいへんだよ!大変だよ!!」
「どうしたピコ?今度はせんべいでも見つけたのか?」
「そんなわけないでしょ!サーカスから猛獣が逃げ出してもう街中大パニックなんだよ!」
「なにっ」
「さぁ、キミの出番だよ!」
「あぁ、街の方々に点数稼ぎでもするか」
傭兵を快く思っていない人々は多い。
こう言うことで株を上げとくに越したことはない。
しかし叢雲はそれだけではなくいやな予感がした。なんとも言えないいやな予感。
それは大抵当たるのだ。
「ピコ、案内しろ!」
刀を腰に差し外へ飛び出す。
本気の叢雲の速度にピコがついていけるはずがないので、懐に押し込んでいる。
「あっちよ!」
ピコが指示する。
近づくにつれ人の怒声や悲鳴が聞こえてくる。
そして猛獣達の声も。
「複数か!何匹逃げ出したんだ?」
「わからないわ、とにかく早く!」
ピコの言葉に従うまでもなく叢雲はさらに速度を上げた。
「うわぁぁぁぁ!」
悲鳴が響き渡る。
意味をなさない言葉。
しかし純粋に恐怖という感情をあらわしているのがわかる。
この場を支配しているのは猛獣達から発せられる、咆哮とそれによって引き起こされる恐怖のみ。
熊の一撃に張り倒され動かなくなった者。
獅子に追いまわされている者達。
逃げ遅れた人々は恐怖で強張り、思うように動かぬ体で懸命に逃げ回っていた。
そしてホワイトタイガーの前にも逃げ遅れた者が……少女が一人いた。
「あ、ああ…こ、来ないで……」
少女は虎に言葉が通じるわけがないのに懇願をしていた。
「ハンナー!!なにしてんの!早く逃げるのよ、あんたの足で!」
知り合いらしき青い髪をポニーテールにした少女が避難した場所から叫ぶ。
「だ、ダメだよキャロ姉ぇ、体…うごかない」
ハンナと呼ばれた少女は力なく返事をした。
ハンナはドルファン学園に在籍しており彼女の俊足は学園内外でも有名であった。
しかしその俊足はフィールドでライバルと競うことで遺憾なく発揮するものである。
猛獣が人を襲い、自分も襲われようとしている時に、いつもの軽やかな走りができるはずがなかった。
今ハンナの体は戦慄に包まれていた。
そして下手に動けばそれが自分の最期だということも本能的に理解していた。
もっともこのまま動かなくとも結果は同じだろう。
ホワイトタイガーが近づき身を縮める。飛び掛る体勢だ。
(もうダメ…)
ハンナは絶望に包まれた。
「誰かハンナを助けて!ちょっとそこのあんた!腰の剣は飾りなの?行きなさいよ!」
キャロ姉と呼ばれていた少女はとなりにいた騎士らしき男に詰め寄った。
本名はキャロル・パレッキーと言い、襲われようとしているハンナとは従姉妹の関係にあった。
ハンナの危機を見てキャロルは気が気でなかった。
「ふざけるな!俺の専門は人間相手だよ、あんな奴とやりあえるかよ!」
騎士らしき男は臆面もなく怒鳴り返す。
その声に反応したかのようにホワイトタイガーが跳躍してハンナに襲い掛かる。
「!!!」
ハンナは叫ぼうとしたが声が出なかった。口をパクパクさせるが漏れるのは空気だけ。
真の恐怖は声すらでないことを知った。
迫る虎がひどくゆっくりに見えた。
あの突き出した前足で頭を押さえ、爪で顔を引き裂き、動けなくした獲物の首に牙をつきたてるのだ。
そんなことを考え、きつく目を閉じた。
グチッ!!
肉を引き裂くいやな音が聞こえた。
しかし何処も痛くはない。
それどころか体が浮いているよう…いや抱きかかえられているのだ。
ハンナは恐る恐る目を開けた。
そこには彼女のよく見知った顔、ハンナの、傭兵でたった一人の知り合いがいた。
厳しい視線で虎を見据え、牽制している。
そしてハンナのほうを見た。
「大丈夫かハンナ?」
「う、うん」
ハンナはショックから立ち直れずに呆然としている。
「ハンナ、いきなり猛獣使いは止めとけ、空中ブランコのほうが似合ってるぞ」
「うん…そうするよ……」
叢雲の軽口にも真面目にこたえている。かなりの茫然自失状態である。
「ハンナー!!」
キャロルが危険を顧みずに飛び出してきていた。
「キャロル!ハンナを連れて行け、ショック状態だが怪我はないはずだ」
叢雲はやってきたキャロルにハンナを押し付けた。
「あんたはどうすんのよー?」
ハンナを背負ったキャロルが走りながら言う。
「知れたこと!人に手を出した獣は、ハンナを襲おうとした奴は…叩ッ斬る!」
刀を抜き放ち眼光鋭くホワイトタイガーを見据える。
敢えて殺気は放たない。内に押し込めている。
虎は一瞬ひるんだが叢雲に向かって踊りかかった。
その瞬間、叢雲は一気に殺気を解き放つ。
空中で虎はすくむ。
野生の本能が理解した。この人間には勝てないことを。
叢雲は殺気を押し隠すことで野性の本能すら欺いたのだ。
叢雲は地を這うように虎の下をくぐり抜ける。
高速で刃を突きたてながら。
氷刃は虎の喉から下腹部までしたたかに切り裂いた。
互いがすれ違い、位置を交換したときには勝負はついた。
虎は着地の衝撃で斬られた傷口から臓物が飛び出していた。
腹の異様にへこんだ虎は悲痛な叫び声を上げることもなく倒れ伏した。
「戦った相手と…襲った相手が悪かったな」
虚ろな目をしたホワイトタイガーだったモノに言った。
刃をぬぐい鞘に収め、あたりを見渡した。
やっと守備隊が出動して残りの猛獣を取り押さえようとしている。
幾ばくかの犠牲を出しながら。
野次馬達が恐る恐る集まってきた。
「すげぇ…ホワイトタイガーを一撃で倒しちまいやがった」
口々に感心し叢雲を褒め称えた。
ハンナもキャロルに支えられながらやってきた。
パチパチパチ
そのとき叢雲の後ろのほうで拍手が聞こえた。
ピエロがいた。
道化師特有の小ばかにしたような、それでいて無機質な仮面をかぶったピエロが。
猛獣を管理しているサーカス団の一員だろう。
「すばらしい、ドルファンはよい騎士を…おっとこれは失礼、東洋の方でしたか」
ピエロは飄々として感心しているようには見えなかった。
「…なにか?」
叢雲は警戒を解かない。
「まさに虎殺しといった感じですね…ですが英雄気取りは怪我の元ですよ、ククク」
ピエロはあざ笑うかのように忠告する。若干の敵意と疎ましげな響きを載せて。
「英雄とかそんなのはどうでもいいのさ」
叢雲はハンナを抱き寄せ頭をなでる。
「大事な友人のために戦っただけだ」
「……そうですか、では私はこれで失礼します」
「ちょっと待て」
叢雲は去ろうとするピエロを呼び止めた。
「この騒ぎはあんた達の管理ミスだろうが」
「…申し訳ありませんね」
ピエロは一言だけ謝罪するとまた歩き始めた。
その背中に向かって叢雲は言った。
「しっかりして欲しいものだな、特に『訓練』された動物はな!」
叢雲は敢えて『調教』ではなく『訓練』と言った。
芸だけではなくある目的のために訓練された動物たち。
ピエロはその言葉に一瞬反応したが、そのまま立ち去った。
「ねぇ、叢雲…あの、いつまでこのままなのかな…」
頬を染めたハンナが遠慮がちに話し掛けてきた。
叢雲はまだハンナを抱き寄せたままだった。
「……ずっと」
しゃべり終わる前にキャロルの手が叢雲の頭をはたいた。
「なーにやってんのよ、あんたは!バカやってないで早く病院行くのよ!痛くないわけ?その傷?」
叢雲の背中にはハンナをかばったときにホワイトタイガーにより引き裂かれていたのだ。かすり傷とは決していえない。
「!!ボクのために…ごめん、叢雲」
ハンナの顔が一転して曇る。
叢雲はまたハンナの頭をなでる。
「気にするな、騎士は美しい婦人…女性のために命をかけるものなのさ」
それでもハンナの顔は晴れない。
叢雲は冗談で場を和まそうとした。
「それに病院へ行けばうまくいくとテディーに会えるからな」
わざとだらしない顔をする。
『テディー…って?』
表情の厳しくなった二人の声がハモる。
対照的に崩れた表情の叢雲がこたえる。
「ドルファン病院で一番のけなげで頑張り屋で、美人な看護婦。しかもナイスバディー」
「このすけべ!」
二人のこぶしが叢雲の腹に打ち込まれる。
ハンナは元気を取り戻したがやりすぎたようだ。
「おまえら…俺は怪我人だぞ…」
体をくの字に曲げてうめく叢雲。
「だぁからっ!こうして病院へ連れて行ってあげるんじゃない」
両脇から二人が叢雲を支えた。
「ほら、大丈夫?行くよ」
三人は病院へ歩き出した。
「ねぇねぇねぇ!こうしてるとあんた両手に花だね!このこのこのっ幸せ者!」
「ボク達ほどの美人従姉妹にはさまれるなんてめったにないよ…なぁんてね」
叢雲はあらためて両脇の二人を見た。
確かにこんな間近で見るといつもよりも綺麗に見えるし、実際、本当にかわいいのである。しかし…
「でもなんか連行されているみたいだなぁ…」
次の瞬間二人のこぶしが叢雲の腹に再び打ち込まれた。
今日一番のダメージだったかもしれない。