8月に入って間もないある日。
ドルファン地区へと外出したケイゴの前に、一人の少女が現れた。
もじもじとした仕草で顔を赤らめ、少女は視線を合わせるのすら恥ずかしくて仕方ないといったそぶりで彼の前に立っていた。
ケイゴはその様子をただ黙って、彼女が何か言葉を紡ぎ出そうとするのを待っていた。
実は、彼がこの少女に出会ったのはこれが最初ではなかった。
それは、半月ほど前まで遡る。
七月も半ばに入った日のことだった。
ケイゴの入居しているシーエアー傭兵寮の廊下を、華やかに着飾った女性……リンダが歩いていた。
歩き方をとっても育ちの良さが伺われ、その凛とした顔付きは彼女の気品ある雰囲気を一層際立たせていた。
そんな彼女が、こんな男衆ばかりのむさ苦しい宿舎の中を歩いている。
酷くアンバランスな光景だった。
リンダ「ここですわね」
彼女は、この寮のある部屋の前で止まった。
ドアのネームプレートには達筆な筆字で「keigo shindo」と記されていた。
リンダ「ケイゴ様、リンダですわ」
ドアを軽くノックすると、その向こうから「了解した、入ってくれ」といつもの、見方によっては無愛想ともとれるような口調で返事が返ってきた。
リンダ「入りますわよ」
扉を開けて部屋に足を踏み入れたリンダの向こう側は、男の部屋にしては綺麗にしてあった。物も乱雑に散らかっている様子はなくしっかりと整理されている。
その中でケイゴは得物である『明鏡止水』を手入れしていた。
その為、彼は珍しく普通の靴を履いていた。
ケイゴ「珍しいな。お前がここに来るとは……まぁ、いいだろう。何か飲み物でも出すか?」
そう言って立ち上がろうとするケイゴを、リンダは「結構ですわ」と制した。
リンダ「本当ならゆっくりとしていきたい所なんですけれども、これでもいろいろと忙しいんですのよ。今日は用件だけ伝える為にここに参りました」
リンダは肩にかけてあったポーチから一枚の紙を取りだし、ケイゴに手渡した。
リンダ「毎年、私の誕生日になるとザクロイド家の船で船上パーティーを開いておりますの。今年は今日開かれる事になっていますわ。是非、ケイゴ様もいらっしゃって下さい。わたくし、お待ちしておりますから」
艶っぽい視線をケイゴに向けると、リンダはそのまま帰ってしまった。
招待状を見ながらケイゴが困惑していると、そこに彼の部屋からリンダが出ていったのを目撃した同僚が殺到した。
ギャリック「おい、ケイゴ!!お前はソフィアちゃん一筋じゃなかったのかぁ!!」
同僚1「あんな育ちのいい娘まで誘惑しやがって……ケイゴっ!お前は男の敵だぁーーーーーっ」
同僚2「てめぇだけいい思いしてるんじゃねーよ!!」
ケイゴ「黙らぬか!!」
嫉妬心の赴くままに怒りを吐き出す同業仲間を力によって一瞬で沈黙させたケイゴはやれやれと溜め息を吐いた。
これが今回の出来事の始まりだった。
この日はバーでの仕事もないし、平日ということで先約の相手もいなかったので、ケイゴはリンダの誕生パーティーに出席することにした。
リンダじきじきに手渡された招待状を持って現れた突然の訪問者を、他の出席者は驚きの目で見ていたが、彼があの『ゴッドハンド』であることと一方的なアプローチとはいえ彼女との個人的な付き合いがあるということで受け入れられるまでにそんなに時間はかからなかった。
とはいえ、こういった社交場に出るのがあまり得意ではないケイゴはサンドウィッチを乗せた皿を片手に船縁からドルファンの夜景を眺めていた。
リンダ「ケイゴ様、ご機嫌はいかがですの?」
一人ポツリと佇んでいる彼に、リンダが心配そうに声をかけた。
彼女は華やかなドレスに身を包んでいた。
自分の美しさを強調するかのようなそれは、彼女らしいなとケイゴは思った。
ケイゴ「まあな。こういう場は慣れていないのでな」
と、再びケイゴは外に目をやった。今度は優しい光で海を照らしている月を仰いでいる。
ケイゴ「悪いが、もう少し一人にしてくれ。一人で月を眺めていたいのだ」
「月を眺めていたい」という台詞に疑問を持ったリンダだったが、東洋人が月に対し何らかの思い入れがあるのだろうと納得し、彼の申し出に渋々したがった。
本当は彼を両親や社交仲間にケイゴを見せびらかして、付き合っていますと公言し、彼に思いを寄せているライバルたちに差をつけようと思っていたのだが。
リンダが去るのをとりあえず見送ると、ケイゴは再度満月を見上げた。
優しい、たおやかな光を放つ月の光に武神具『明鏡止水』が反応し、キラキラと柔らかい光を放った。
その内、右手に装着した方を月に向かって掲げるように挙げると、一層その光度が増した。
ケイゴ(月光ですら、俺には眩し過ぎる……)
右手を下ろし、再びドルファンの夜景に目を向けたケイゴの耳に突如、誰かの歌声が聞こえてきた。
甲板の方で誰か歌っているのかと思ったが、それにしてはあまりにも微かだった。
ケイゴ(船上で歌っているのではないは……しかし、となると誰が、どこで歌っているんだ?)
頭にそんな疑問が過るが、このどこから流れてきたとも知れぬ歌にはそれを忘れさせてしまうほどに聞き入らせてしまう力があった。
まるで、ローレライの人魚の歌声のように……
知らず知らずの内にケイゴがその歌に引き込まれてしまった時だった。
突如高波がこの船を襲った。
大きく船体が揺れる。
ケイゴ「何っ!?」
歌に聞き入ってしまっていたケイゴは、反応が遅れて海に投げ出されてしまった。
そんな状況下に置かれても、冷静に対処しようと試みてはみたが、なぜか体が言うことを聞かず、彼は成す術もなく海中に消えてしまった。
船員「人が落ちたぞー!」
船員が大声を出すや否や、パーティー開場が一時騒然となる。
ケイゴは自身の体を海底へと引き寄せる重力に身を任せていた。
十中八九死ぬかも知れないというのに、彼は今頃パーティーどころではないだろうな等という考えが浮かんだ。
だんだん意識が薄くなっていく中で、彼は自分が想いを寄せている人の姿を頭に浮かべる。
案外、人はこうした誰もいないような所で死ぬのかもなと思った時、彼の前に誰かが現れた。
外見から判断して少女だろう。
優雅に水の中を進むその姿はまさしく人魚そのものだった。
彼女が自分を抱き上げて海面へと上がっていく所で、ケイゴの意識は途切れた。
ケイゴ「くっ……ううっ……」
ケイゴが意識を取り戻した時、彼はビーチの砂浜の上で仰向けになっていた。
死を覚悟した彼であったが、どうやら死なずに済んだらしい。
ケイゴ(……どうやら助かったようだな)
上半身を持ち上げて立ち上がろうとしたとき、彼はゴホゴホと咳き込んでしまった。
???「大丈夫ですか?」
と、そこに誰かが駆け寄ってきた。
その声に振り返えると、そこには一人の少女がいた。
彼女は心配そうに、彼の顔を覗き込んでいる。
謎の少女「大分水を飲んでいたようなので、あまり無理はなさらない方がいいかと……」
ケイゴ「わかった。それより、海中に放り出された俺を助けたのはお前か?」
彼は率直に目の前の少女に訊いた。
彼女が海中で自分を抱えて助けてくれたあの人魚のような女性に雰囲気が似ていたので、ケイゴはその本人かどうかを確かめようとしたのだ。
突然の問いに彼女は困惑した表情を見せた。
謎の少女「いえ……あのっ、私は……ここに流されてきたあなたを介抱していただけです」
戸惑いながらも何とか紡ぎ出した返答に、ケイゴは何も言わなかった。
ケイゴ「どちらにしろ、俺を救ってくれた事には変わりあるまい。礼を言わせてくれ」
胡座をかいてケイゴは頭を下げた。
そんな彼の姿を見て、少女は恥ずかしいやらびっくりしたやらでどうしていいのか慌て出してしまった。
謎の少女「そんな、あの、あ、頭をあげて下さ……あっ」
そんな彼女だったが、何かに気づくとここから逃げてしまった。
呆然と彼女の去っていった方角を見ていたケイゴだったが、向こうから声がしたので振り返った。
我先にと自分の元へ駆け寄ってくるリンダとパーティーの関係者たちの姿が見えた。
結局この一件のせいでリンダの誕生パーティーは中止になってしまった。
いつもならこの場合当事者に激しい罵声を浴びせる筈のリンダが、彼を心配する言葉をかけているのを見たザクロイド家とその社交仲間は、次期ザクロイド家当主は彼になるだろうという感想を漏らしたという。
この事件(但しケイゴ本人の希望により一般に知られることはなかった)が、あの少女との出会いだった。
それからしばらくして、ケイゴは何度かあの淡い青い髪の少女と出くわしたが、彼の前に出るのが恥ずかしいのか、その度に何も言えないまま逃げ出してしまう。
その繰り返しが続き、今日に至っている。
彼女に出くわすのは、これが四回目だった。
謎の少女「あの……私、アンと言います。あの、その……」
彼を目の前にしてもじもじとはにかんでいる様子から、アンという少女が彼に対して好意を寄せているのはあまりにも明白だった。
ケイゴもそれをうすうすながら感じ取っていた。
始めは何らかの意図があるだろうと思って警戒していたが、何度か会う内にすっかりそれは解けてしまった。
何にせよ自分を助けてくれた恩人であったし、彼女はただ自分に会いたいが為にこうして来ていることがわかったからだ。
最も後者の理由は、ソフィアへの気持ちの関係上、後ろめたいものがあったのも事実だが。
アン「お友達になってくれませんか?」
やっとのことで、アンは言おうとしていたことを絞り出した。
恥ずかしがり屋な彼女にとって、これを言うのに相当の勇気が必要だっただろう。
自分の返事を待っているアンに、ケイゴは静かに口を開いた。
ケイゴ「……ああ。構わない。お前には助けて貰った借りもある。御安い御用だ」
心配そうに返答を待っていたアンの瞳の輝きが増す。
アン「あ……ありがとうございますっ!!」
OKの返事を貰えたのが余程嬉しかったのか、アンは全身で喜びを表現していた。
興奮したせいか、耳の裏まで紅潮している。
アン「あの……そ、それじゃ、失礼しますっ!」
元気に帰っていくアンの後ろ姿を見て、ケイゴは何か不思議な感覚に捕らわれていた。
ケイゴ(……これからだな。あらゆる意味で大きな山が来るのは)
自分の身の回りの人間にもこれから何かあるかも知れないと自分の勘は告げている。
アンの登場したことによる訳ではないのだが、自分自身にも及びかねない何かがこれから起こるというのを、彼は確信した。
その山がいつ来てもおかしくないようにしようと、改めて気を引き占めるケイゴだった。
後書き
久々に筆を執りました国士無双です。
第二十五章とこの章の間に志賀直哉とかパスカルの本を読んでたんで、
ちょっぴりやり式が今までとは違っているかも知れません。
ちなみに、今回は一気に一日で書き上げました。
まあ、ここから先の話はいろいろと骨格ができあがっているので、書くのは楽です。
三年目はいろんな事が一気に起きますからね。
『THE GOD HAND』はキャラクター数も多いんでネタは豊富にありますし。