その日は少女にとって大きな意味を持つ日になった。
ドルファン暦二十六年四月一日。
少女は一人の東洋人と出会った。
「いやっ!放してください!」
ガラの悪い男三人に囲まれて、それでもソフィアは気丈に声を上げた。
道行く人々は彼らの体格を見て関わりあいになりたくないとばかりに足を速める。
ただ一人だけ。漆黒の髪の青年が、見ていた地図から顔を上げた。
「てめェ、何見てんだよ」
その視線に気づいて、チンピラの一人が青年に向かう。
青年は動じる風もなく、わずかに眉をしかめたきり無言でチンピラを見返した。
「文句あるのか!?その面はよォ!!」
動じない相手にチンピラは激昂する。
「誉められた行動ではあるまい?」
低めの穏やかな声が告げた。
「東洋人の兄ちゃんよォ、カッコつけすぎると痛い目にあうぜィ?」
だんまりよりは安心したのか、チンピラの口調に揶揄するような調子が加わる。
「こんな風になァ!」
チンピラは拳を振り下ろした。
青年は勢いを殺すように一歩下がりながら拳を受け止め、僅かな動作で殴り返す。
あっさり吹き飛んだチンピラは、起き上がると憎々しげに青年を睨んだ。
「てっ、てめェ!いつか殺してやる!!」
先に逃げ出した仲間を追って逃げていくチンピラを見送ってから、青年はふとたたずんだままの少女へ振り向いた。
「大丈夫か?」
「あ、はい。…あ…ありがとうございました。…あの、改めてお礼に伺いたいので、せめてお名前だけでも、教えていただけますか?」
頬に血が上るのを感じながら、ソフィアは訊ねる。
「あ、すいません。私、ソフィア・ロベリンゲと申します」
先に名乗らなかった非礼に気づいてあわてて付け足すと、青年は表情を和らげた。
「自分の名は緋月海。こちらの国とは違ってファースト・ネームは海の方なんだが」
「カイさん…素敵なお名前ですね」
ソフィアは微笑んでカイを見上げた。
背は多分東洋人にしては高い方なんだろうと思う。線は細いが体は鍛えられているらしくバランスが取れている。顔立ちは整っていて、長めの前髪が影を落としている。見かけの年齢はソフィアより一つ二つ上にしか見えないが、穏やかな表情や物腰はそれよりはるかに大人びて見えた。
おそらく旅装なのだろう灰色のロングコートに黒いズボン。脇に落ちている小型の旅行鞄も黒だった。
「いずれ、改めてお礼に伺います。助けていただいて、本当に、ありがとうございました。では、急いでいますので、これで」
ソフィアは跳ね上がりそうな声を押さえつけて、やっとそれだけ言うと踵を返した。
目が合った。ほんの一瞬。
ただ、それだけのことなのに。
優しくて穏やかな瞳。最近よく町で見かけるようになった傭兵や、貴族での偉ぶった騎士達とは違う静かな物腰。
東洋の、人だから?
違う、多分、それだけじゃない。きっとあの人自身に具わったものなんだと思う。
ソフィアはふと立ち止まって波止場を振り返った。
黒髪の青年の姿はもうどこにも見えなかったけれど。
今度会ったら今日のお礼を言ってそれから街の案内でも申し出て。
そこまで考えて、ソフィアは微笑んだ。
怖かったことよりも、あの人と出会えたことを喜んでいる、自分に。
「ソフィア、何か変わったことはなかったかい?」
家に帰って食事の準備を始めると、弟を連れて買い物から帰ってきた母親が尋ねた。
「港で…ちょっとガラの悪い人たちに絡まれたんだけど…通りがかりの人に助けてもらって…」
「そうかい。気を付けないとダメだよ。お父さんも心配するからね」
母親はソフィアの方を見もせずに言う。
「…うん」
調理台に視線を戻して、小さく答える。
「最近ジョアン君とはどうなんだい?」
「特には、何もないけど」
「そうかい?ちゃんとつなぎとめとかなきゃだめだよ。あんな将来のある方が婚約者だなんてほんとに幸せなことなんだからね」
「うん、わかってる」
―――そう、わかってる。
ソフィアは一瞬目を閉じて、自分に言い聞かせるように思った。
ちゃんと、わかっている。
あとがき
自分としてはかなり真面目に書いてみました。
こんなつたないものに目を通してくださった方、どうもありがとうございます。