首の傷を押さえながら外に出ると、かなりの時間が経っていることに気が付いた。
月の淡い光がその威光を弱め、日の光が空を照らし始めていたからだ。
屋敷の庭に立ち並ぶ木々から漏れた日光が俺とプリシラの目を焼いた。
「随分と時間を取られたな…」
「行くの?」
つぶやいた俺に問い掛けるプリシラ。またこの国から出るのか?という意味であろう。
「いや、もうやることは全てやった。これからの事なんて、考えちゃいないさ」
今出てきたばかりのピクシス屋敷を見上げながら、俺は答えた。
そう言えばライズはどうしたのだろう?
先に帰ったのだろうか?
いや、あの娘が簡単にプリシラの護衛を放り出すことはないだろう。
「遅かったわね…」
不意に後ろから声がかかった。
プリシラが驚いて振りかえる。
「お、脅かさないでよライズ」
俺も驚いていた。ビビッて振りかえれないほどに。
いつもなら気付いただろうが今は疲労の限界がきていた。
「プリシラ女王、迎えに上がりました」
普段と変わらない淡々とした口調でライズは言った。
プリシラもそれを受け、咳払い一つすると威厳ある口調で言った。
「ご苦労ですライズ。エイジも城へ。詳しく話を聞かせてもらいましょう。…あなたに拒否権はないからね?」
プリシラはその天使の美貌から、悪魔のようなどす黒さすら感じる声を出した。
ここでNoと言える人間がいたら見てみたい、というのが俺の心境だった。
「じゃあ、あなたはスィーズの諜報員として動いていたわけね?」
「はい」
ここはドルファン城の会議室。
しかしこの大きな部屋にいるのは俺、ライズ、メッセニ将軍、プリシラの4人だ。
俺はここでプリシラに今までの自分の行動を告げた。
2年間デュノスの事を調査していたこと。
その過程でスィーズ国王直属の親衛兵となったこと。
外国人排斥法を施行し国際政治を乱したアルバート・ピクシスを一騎討ちにて仕留めろと勅命を受けてドルファンに帰国したこと。
「私は外国人排斥法でこの国を追い出されている。動機は充分というわけです。少なくとも世間に不自然さを感じさせることはないでしょう」
「しかし、…いいのかエイジよ?」
メッセニ将軍が言いにくそうにだが口を開く。
「それを我々に言っては…スィーズは永世中立国だ。その国がこのように他国に干渉したとお前は証言したんだぞ」
「心配無用です。鎖国同然だったここでは知られてはいないでしょうが…これは近隣諸国の総意です。私はスィーズの手引きで来ましたが、他の国からも刺客が来ているはずです。連絡を取り合っているわけではありませんがね…」
「…なるほど」
ライズとメッセニが神妙な面持ちでうなずく。
二人はアルバートが政治犯だと感づいていたのだろう。
プリシラが一人理解していない様子だが…
「まあ任務も完了したし、やっと自由の身ですよ」
そう言っておどけて見せた。
「任務完了の報告とかはしないでいいの?」
プリシラがもっともなことを聞いてきた。
「今ごろはズィーズ王の耳にも届いていることでしょう…そしてすでに私の名前は親衛隊の名簿から削除されているはず、そういう契約でしたから」
そう、俺の行動の全ては間者を通してスィーズ王は知っている。
スィーズ王と俺は互いを利用していただけに過ぎない。
「これから…どうするのだ?」
メッセニが重々しく口を開いた。恐らくライズに遠慮しているのだろう。
俺も雰囲気を改めた。皆に俺の一大決心を伝えるために。
俺の緊張した顔に何かを感じたのか、他の3人は息をのんで俺を見ていた。
「私は故郷に捨てられた男。もう行く当てはありません。…ただ」
「ただ…?」
珍しく言い淀む俺をプリシラが促す。
「叶うならばこのドルファンを故郷と呼んでいいでしょうか?」
「え?いいけど?」
何故そんなことを?という言葉を顔に浮かべながらプリシラは言った。
俺は彼女に笑いかけた。ここには鏡がないから何とも言えないが、俺はさぞ情けない顔をしていたことだろう。
プリシラを羨ましいと思う。心の底から。
「言った通り私は故郷を捨てられた身。いろんな国を転々としましたが…常に戦場にいました。宿舎とはいえ、家と呼べるようなものを持ったのは初めてでした」
故郷に捨てられた俺がたどり着き、自分を取り戻せた場所がここドルファンだった。
戦場を転々としていた時は感じることの出来なかった穏やかさがここにはあったから。
「私はドルファンを故郷と感じています。…命を賭して守りたいとも」
最後の一言に力を込め俺は言った。
プリシラの表情がパッと明るくなる。
メッセニ将軍も顔を綻ばせた。
ライズを見た。彼女は俺に微笑みかけた。無表情な彼女のはあまりにも珍しい笑顔。
よく考えたら帰ってきてから初めてかもしれない。
「今日はイイ日だわ!どこにも行かないってことでしょ?!」
俺の考えを遮りプリシラの笑顔が視界をふさぐ。
…数分後。興奮冷めやらぬプリシラの独断により、今夜はパーティが行われることになった。
俺はドルファン城の上部にある空中庭園に来ていた。
階下ではまだ宴の真っ最中だ。主賓は俺だったがもうそんなことを覚えているヤツはいないだろう。メッセニ将軍までが酔っ払って倒れているほどだ。
それほどピクシスの圧力に参っていたのだろうか?酒を浴びるほど飲んで喜ぶほどに。
『イイ香りねぇ…』
「ん?ああ、そうだな」
うっとりとした表情をその小さな顔で作るピコに思考を遮られ、俺は改めて庭園を見渡した。
空中庭園は俺が最後に来た時から随分と様変わりしていた。
プリシラが戴冠したとき、いろんな方面から花が持ち込まれたらしい。
さらに見まわしながら俺は思わず声に出した。
「これはまだ庭と呼べるのか?」
『植物園の方がしっくり来るわね』
ピコも反射的に相槌をうつ。それほど目の前にある植物の種類は豊富だった。
世話係の苦労も並ではないだろう、と思わずにはいられない。
ふと後ろに気配を感じた。振り向くとそこにはいつもの赤い鎧ではなく赤いドレスに身を包んだ美しい女性がいた。
『ライズさんだ…』
いささか不機嫌な様子でピコは俺の肩に座った。俺以外の人間がいる所では彼女は迂闊に声を出せない。そう言えばドルファンに帰ってきてからピコはろくに喋っていない。
「主賓がこんなところにいていいのかしら?」
しとやかな足取りでライズは俺の傍らに位置した。三つ編みをほどきストレートにブローされた髪が風を受けなびく。周りに咲く花のものではない良い香りが俺の鼻腔をくすぐった。
そう言えばパーティーが催されていた会場にライズの姿がなかったのを思い出す。
「下は今じゃ、ただのドンチャン騒ぎだ。酒だけはくすねて来たがな」
俺は懐から開いてない酒瓶を出した。後で飲み直すためにかっぱらってきたものだ。
酒を買う金がないわけではないが、本当にいい酒は金を積んだだけでは手に入らないのさ。
「抜け目がないのね」
興味がない、といった意思がこめられた言葉だった。
それよりも気になることがある、という無言の言葉が彼女から発せられている。
俺はそれに気が付いて、かなり気恥ずかしかったが、苦笑しながら言った。彼女が望んでいるであろう言葉を。
「似合ってるぜ…」
それが精一杯だった。
だがそれでもライズは耳まで真っ赤になった。それは俺も同じだったかもしれない。
静かでどこか心地よい沈黙が訪れた。涼しい夜風がありがたかった。
「慣れない事は言うもんじゃないな…」
こういう雰囲気は苦手だ。照れ隠しに俺は言った。喋ると照れも息をひそめるから不思議だ。
さらに自分の照れを追い出すために、俺は知らず知らずに言葉を続けた。
「さっきパーティー会場にはいなかったな?その格好だったらダンスの誘いの一つや二つあったかも知れないぞ?」
「そうかしら?」
実際ダンスのときにいたら誘いは一つや二つではなかっただろう。正直、今日のライズは一段と美しかった。着ている赤いドレスは色気を前面に出すようなものではない。だが二十歳を迎え大人となったライズの美しさは控えめなドレスを凌駕していた。
「間違いない。男ならほっとかないと思うぜ」
俺は彼女に自覚させるために言った。世の中で彼女ほどの美貌を持つ女性は多くないだろう。世界中の女をチェックしたわけではないが、まず間違いないはずだ。
だが返ってきた言葉は俺を石化させた。
「その『男』の中にあなたは含まれているのかしら?」
石化した俺に追い撃ちをかけるように、ライズはその視線で俺の瞳を射抜いた。
「それは…」
「それは?」
たまらず俺は目を逸らした。
そして、一言こぼした。
「いつからそんな困った女になったんだ…」
「あら、プリシラ様直伝だけあってすごい効果ね」
ギョッとして視線を戻す。今日のライズには驚かされてばかりだ。
ライズはもう何事もなかったかのように空を見上げていた。
…からかわれた。
「…プリシラめ。覚えてやがれ」
舌打ちしながら、俺も表情を改めた。
再び俺の傍らにライズが位置する形になった。
「あなたも私と同じだったのね…」
「何の事だ?」
ライズの言葉があまりにも急だったので即、聞き返した。
彼女の言葉が突拍子のないものになっているような気がする。
プリシラの影響か?
「昼間のあなたの言葉よ。このドルファンを故郷と呼んでも…」
「あれか…」
「あなたも故郷に捨てられたのね…」
ライズは変わらず夜空を見上げている。寂しげなその表情は俺の胸を締め付けた。
「やめろよ」
「でも…私や父ばかりが不幸な人生を送っていると思っていた」
「仕方ないことだろ、俺だってそうだった。もうずいぶん前のことだがな」
人は自分の不幸の前では盲目になる。その悲しみに支配される。それは仕方のないことだと、人の心の特徴だと、俺は思っている。
「私は幸せなのかしら…」
ライズが穏やかな表情で言った。
俺は黙って聞く。今、俺にかけるべき言葉はない。かけるべきではないと言う方が正しいかも知れない。
「あなたに出会ったときは、自分は不幸だったわ。憎しみと悲しみしかなかったのよ。あの頃の私には」
ライズは歩き出す。俺は動かず、彼女の後姿を見やる。
「でも今は違うと思う。愛を知ったから」
愛。声に出すと陳腐に聞こえる言葉だ、と俺は思っていた。今の今まで。
だがライズの口にしたそれは、明らかに違う印象を俺に与えた。
「エイジ、あなたを愛しているわ」
背中を向けたまま、彼女は言った。
俺の中に、戸惑いが生まれた。そしてその混沌の海から現れたのは、途方もない喜び。
陳腐だなどと、何故言うことが出来ようか。
振りかえったライズは、はにかむように笑った。
他の女には決して出来ない笑顔。俺の心を掴んで放さない笑み。
俺はライズの頬に手を伸ばした。右手の中指の先端がほんの少しだけ、触れた。
「エイジ…?」
一瞬、驚いたような表情を見せるライズ。その右の手のひらが俺の左頬を包んだ。
「何を泣いているの?」
泣いている?俺が…か?
「気にするな。少し…嬉しかっただけだ…」
「嬉しかった?…意外ね」
「何がだ?」
「もっと、さらりと受け止められると思ってたわ」
いくらか笑いを含んだ声で、ライズが言った。
「わ、笑うことないだろ」
「気にしないで。私も嬉しかっただけだから」
「?」
「あなたの泣き顔を見たのは、私が初めてなのではないかしら?そう考えると嬉しいのよ」
「…ライズ」
俺の手がライズの腕を取り、引き寄せた。
ライズの顔が胸に当った。そのまま抱きしめる。
「エイジ…?」
「俺からはまだ言ってないだろう?ライズ…お前を愛している」
もうそれ以上の会話は必要なかった。
間違いなく、今俺は世界で一番幸せだ、と思える時間だった。
油断なくこちらを見る四つの瞳に気づくまでは。
「キャー、言っちゃった言っちゃった」
「プリシラ様、お声が大きいですよ」
プリシラは茂みの隙間から見えるラブシーンに顔を赤くしていた。
そして声の大きさを咎めたのはプリシラと最も親しいメイド、プリムである。
ちなみにラブシーンとは勿論、俺とライズの、である。
「『愛してる』…だって。本の中だけのセリフだと思ってたわ…」
この独り言は…もはやおばさんである。
今プリシラがいるのは、この空中庭園にあるプリシラ秘密基地という名前らしい。その姿はさながら植物で出来たかまくらといったところか。秘密というだけあって知っているのは作った本人たち、プリシラとプリムの二人だけであるらしかった。
「ちょっとプリム、押さないでくれない?」
「押してるのはプリシラ様の方でしょう。見えないじゃないですか」
「まぁ、人のラブシーンを覗こうなんて、下世話なメイドだわね?」
「あらぁ、そっくりそのままお返ししますわ。女王様?」
引きつった笑いを浮かべながらにらみ合う二人。
火花が散るとは、この事だろうか。すでに『女王とメイド』の構図ではない。
「ダメじゃないか…仲良くしなきゃ」
「まったくね…間抜けな覗きもいたものだわ」
俺は半分呆れながら、植物をかき分けた。
ライズの方は不機嫌さを隠そうともしないまま、見ている。
「えと…あら、エイジさぁーん」
心底ビックリしているだろうに、平静を装って笑顔を作るプリシラ。
この二人のオバカさんは、俺とライズが覗きに気付かないとでも思っていたらしい。
「なにが、さぁーん、だ。なにが」
「いや、かくれんぼよ!やーねぇ、今メイド全員参加のかくれんぼ大会を…」
「プリシラ様」
言い訳をしようとしたプリシラをライズが止める。
ただ名前を呼んだだけだったが、声には言い知れぬ力が込められていた。
それも矛先ではない俺とプリムですら、すくみ上がるほどだ。
「や、やぁね。そんなに怒らないでよ」
「いいえ。怒ってなんか、いませんよ。こっちにも収穫はありましたから」
「へ?」
「職務中に逃げられても、見つけられますから」
「ああ?!しまったわぁ…」
どうやらプリシラは何度もここに逃げ込んでいたらしい。
だが、もうここは利用できないという訳だ。
プリシラの顔に絶望が浮かぶ。
「ふふっ、デバガメなんかするもんじゃないっていう教えですよ」
いい気味だ。とでも言うかのように、プリムがプリシラを笑う。そのプリムに向かって、未だ厳しい表情を崩さぬライズの顔が向けられた。
「何笑ってるの。サボリ癖メイド長のプリムさん?」
ビクぅっ!という音が聞こえてもおかしくない程、プリムの体が震えた。
「は、はい…」
「まったく…どうかしてるわこの国。一国の王が…先頭に立つべきメイド長が…こんな…」
頭を抱え、それきりライズは黙ってしまったのだった。
続く!
<あとがき>
何はともあれ。まずは圧倒的少数派であろう、この第5話を待っていた人にお詫びを。
何故遅れたか、と言いますと、第4話のあとがきを見てもらうと、だいたい予想がつくと思いますが…
滑ったんですよ。ツルッと。滑り止めもその効果を果たさずに!そんな訳でパソコン自粛してました。
そして今年は見事!大学受験に成功というわけですな!
さて、物語はエピローグを残すのみです。わたくし深町も肩の力を抜いて書けます。あと1話、お付き合いください。