「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。…ふぅ」
久しぶりに、走った。
運動が得意な方じゃないソフィアだけど、運動が嫌いなわけじゃない。
勝負事、一番二番びりっけつがある競争は嫌いだけど。
春の日差しの中や、心地よい空間の下で、“駆け出したくなる気持ち”には、正直でありたいと思う。
でも、人目があるところで走るのはやっぱり恥ずかしい。
活動的な服でも着ていればまだしも、一目で貴族とわかる服装で走り続ければ好奇の視線もやってくる。
久しぶりの全力疾走で、止まるタイミングを逃してかなり走ってしまっていた。
ようやく止まれたのは、人通りがいくらか見えたからだった。
──少しだけど、“走ることが大好き”って人の気持ちがわかるような気がした。
人目がなかったら、まだ&もっと、走っていたかもしれない。
ゆっくりと歩きながら、呼吸を整える。
「ふぅ…」
深呼吸をする。
ジョアンは追ってこない。
玄関を出てから猛ダッシュした。
ジョアンの性格からしてやっぱり一緒に行こうと思うはず…。
たぶん、走ったのは正解だと思う。
「ジョアン、怒ったかな…」
一応、スジは通せたと思うのだ。
──ぶんぶんっ
「考えないっ」
小さな声で、でも強く、ソフィアは自分に言い聞かせる。
──遠慮しがちで、相手の気持ちばかり気遣って、そんな自分、イヤなんだから…。
今日は快晴で、涼しくて、空はとても高くて、空気が透き通っていて…
どくんどくんと弾む鼓動と、荒い呼吸はおさまっていなかったけれど。
雲一つない青空が、すがすがしい。
柔らかい日差しが、心地よい。
この前より、気持ち良く受け入れられる空のめぐみ。
「もう少しっ!」
逃げ出すような全力疾走から、残ったジョアンのことから、考えることをうち消すように、ソフィアはまた走り始めた。
──舞台の緊張に比べたらっ!!
好奇の視線なんてものは、そうソフィアが感じればそうなるだけで。
走ることが、体を動かすことが、今のソフィアには心地良かった。
向かうは、ゴールは、ロムロ坂。
久しぶりの長距離走。
ソフィアがロムロ坂へついた頃には、走り疲れてへとへとになっていた。
ゆっくりと歩きながら呼吸を整えていく。
──とくん
走り続けて高鳴った鼓動と違う、ちくりとする痛い胸の鼓動がした。
学園時代の3年間、何度あの人とここで待ち合わせただろうか。
「あ、ダメ、来ないで…」
誰にも聞こえないような小さな声でソフィアは言う。
それは、ソフィアの胸の中にあるもの。
あの人と待ち合わせた場所、そんなところに立つから…。
ここで、あの人を待っていた。
ここで、あの人が待っていた。
ちょうど時間通りに、二人で待ち合わせたこともあった。
走って走って、イヤな気持ちからは抜け出せていたのに。
──ぶんぶんっ
締め付けられそうな胸の痛みが始まりそうなのを振り払う。
「…情けないな」
声に出して言ってみる。
──とくん
止まらない。
ちょっぴり泣きそうな顔で、ソフィアは胸を押さえた。
もう、心地良い痛みではない。
辛い気持ちの方が大きくて。
もういない人への想いが、こんなにも、痛い。
「ロベリンゲ…さん? あの、大丈夫ですか?」
しゃがみこんでしまいそうになったソフィアに、心配そうな声がかけられた。
昔の、姓で。
「どうなさいました? どこか、痛むのですか?」
気遣う、聞き覚えのある、声…。
あの時、返事が出来ない私に一生懸命に話しかけてくれた、声…。
「あ…」
ゆっくりと顔をあげると、少し安堵したような私服の看護婦さんの姿があった。
優しい顔でソフィアの顔をのぞき込む。。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい…」
「どこが痛みますか? 胸ですか…?」
瞳孔を見ているのだろうか、彼女はソフィアの目を見て、手を取って脈に人差し指を押し当てて。
「あ、あの、大丈夫、です。さっきいきなり走ったから、ちょっと…」
医学の心得がある人とはいえ、ロムロ坂で若い女性二人がこんな風に近寄っていれば、どう見られるかわからない。
それともそう思うのは失礼だろうか?
真剣に心配しているこの女性に…。
彼女は“本当に大丈夫?”という顔をしてから、ソフィアからはなれた。
「急に胸を押さえてしゃがみ込んでしまわれたから、驚きました」
「す、すみません…、驚かせてしまって…」
「ダメですよ、きちんと準備運動しないと」
彼女はソフィアの言を信じることにしたようだ。
すっと彼女は立ち上がると、しゃがんだままのソフィアに手を伸ばす。
「あ…」
「──やっぱりまだどこか痛むのですか?」
一瞬躊躇したソフィアに、彼女はまた心配そうな顔をした。
「い、いえ…」
ソフィアは彼女の手を借りて立ち上がった。
「すみません、看護婦さん」
「本当に、大丈夫ですね?」
確認するように、彼女は言う。
「本当に、大丈夫です」
「絶対に、大丈夫ですね?」
念には念をという感じに彼女が念を押す。
「絶対に、大丈夫です。もう、しっかり」
ソフィアは、彼女を安心させるように、笑顔を作った。
「なら…、良いのですが…」
「ご心配かけました。あと、心配してくれて、ありがとうございました」
素直に、ソフィアは彼女にお礼をした。
ちょこんと、お辞儀もする。
しかし、彼女はまだ心配そうだった…。
「そうだ、一緒に喫茶店でお茶にしませんか?」
「え…?」
「お姉さんがご馳走しちゃう♪」
──断る理由はないのよ、ソフィア。
ソフィアの中で、そんな声が即答した。
断ったら、この人はまた心配そうな顔をする。
“この人の優しさは、嘘じゃない”
それは、入院していた時の介護で十分わかってる。
お世話になった看護婦さんがそうしたいと望んでいることを、自分もイヤじゃないと思うことを拒む必要なんか、ない。
今まで、いろんなことに遠慮してしまっていた。
ご馳走してもらったり、誰かに助けて貰ったり、それを、相手に悪いと思っちゃいけない。
相手に感謝を、送らないと…。
──そうよ、わかっているじゃない。
差し伸べられた手を、温かい手は、もう拒まないで…。
「あの、私なんかが…、お茶の相手でよろしいのでしたら」
それでも、遠慮がちに言ってしまう。
ジョアンとの玄関でのやりとりで、今日の精神力は使い果たしてしまったのかもしれない。
でも彼女は、ぱぁっと嬉しそうな顔をしてくれた。
「それじゃ、行きましょう」
「は、はい」
この前、すっと手を取られたことを思い出して、ソフィアはぼっと顔が赤くなった。
「? どうか、しましたか?」
「い、いえ、何でもないです」
レズリーみたく、いきなり手を取るようなフレンドシップなことはなかったけれど。
ちょっとソフィアの中で期待したものがあったのかもしれない。
──慣れてないから…
また、そんな自分の中の声を感じた。苦笑いが入ったような、声。
その通りだと、ソフィアは思う。
「コーヒーと紅茶、どちらが好きですか?」
隣を歩く彼女がそう聞いてきた。
「あ、紅茶の方が、好きです」
「気が合いますね、私も紅茶党です。でも、女の子だったらみんなそうでしょうか」
「あ、いいえ。私のお友達に、コーヒーをブラックで飲む人がいます♪」
「あら。今度、ミルクくらいは入れなさいって言ってあげて」
「あ、言ってみます」
そんな会話をしながら、二人は喫茶店に歩いていった。