「銀月の塔か、高原か、ビーチか、そこが問題だ…」
ジョアンは自室で腕を組んで考えていた。
久しぶりに、ジョアンはソフィアにデートの約束を取り付けたのであった。
「明日のデートは、ロマンチック大作戦で行く! 失敗は許されない」
どんなことでも大げさにしてしまう、そんなところがジョアンにはある。
もちろん、そう大げさにしてしまうのも、そう思うのもジョアン一人のことが多く、回りはただ巻き込まれるだけということも多い。
ジョアン自身は、それは別におおげさなつもりはなく、普通だと思っているが…。
ソフィアがエリータス家に嫁いできてからは、“新婚の三男は嫁さんにベタ惚れだ”とめっきりの噂。また、陰口が増えたのである。当人はまるで気付いていないが。
「良し! 高原だ、高原でソフィアのハートを射止めてみせる!」
ジョアンは大きくガッツポーズを決めた。
「ここにいると、イヤなことなんか忘れてしまいそうだね、ソフィア」
『…そうね』
「でもソフィア、ボクがここにいることを、忘れないでくれよ。だきっ」
『あ、ジョアン…』
「今ボクがここにいて、キミを抱きしめているこの現実から、逃げないでおくれ…」
『…ジョアン、あなたには、私が必要なのね…。ぽっ…』
ジョアンの一人芝居。しっかりと声色を変えて。
人に見られた日にはとんでもないことになりそうな一人芝居。
「──春の高原、すがすがしい空気の下の開放感、そして母性本能に訴えるこの作戦!」
ぐぐっと拳に力を込めて、ジョアンはガッツポーズをキメる。
「くぅぅぅ、ママ、最高だよ、これで決まりだぁっ! はぁっはっはっはっはっはっ」
明日のデートは高原で決まりとなった。
ジョアンとジョアンの母マリエルが相談を重ねた「ロマンチック大作戦」が決行されるのである。
「画廊に、行きたい」
ロマンチック大作戦、しょっぱなから出鼻をくじかれます。
「が、画廊かい? ソフィア、今日は、高原に行かないか?」
ジョアンのその反応に、ソフィアは困った顔をする。
「…ジョアン、私はどこに行きたいか聞かれたんじゃなかったの?」
いつもだったら、「どこでもいい…」と希望を言わないソフィアだったから。
ジョアンはそのつもりで「どこに行きたい?」と聞いてしまっていた。
いつものように「どこでもいい…」と答えられたあと、「じゃあ、高原に行こう」と答えるつもりでいた。
いつもと違う展開に、ジョアンは狼狽えていた。
ソフィアが不信の目でジョアンを見ている。
「あ、ああ、画廊に行こう。ソフィアの行きたいところに連れていってあげるよ」
ジョアンは無理して笑う。無理して笑うから、くちびるのはしが少しひきつっていた。
それを見て、何も思わないソフィアではない。
自分の思い通りにいかない時、ジョアンはこういう風にひきつる。
それをソフィアはよく知っていた。
溜め息を一つついて、
「ジョアンは、どこに行きたいの?」
「えっ!?」
ソフィアの問いに、裏返った声を返してしまうジョアン。
たくらみがあることの後ろめたさか、少しジョアンはひるんでしまう。
「…ジョアンは、どこに行きたいの?」
ソフィアが繰り返し聞いた。
「や、やだなぁソフィア」
ジョアンは余裕があるかのようにかぶりを振って、ぎこちない笑みを浮かべた。
本人は、微笑んだつもりなのだろう。
「キミの行きたい所が、ボクの行きたい所さ…、ハニー」
調子がいい。
それは、あまりソフィアの望むところではなかった。
「…ジョアンは、どこに行きたいの?」
三度目の問い。
これ以降、恐らく同じ問いはない。
ここが、最後の分岐点。
それにジョアンは引っかかってしまう。
「こ、高原に行きたいんだ。すこやかな空気を吸ってリフレッシュしたいんだ」
ジョアンは、ロマンチック大作戦の舞台【高原】を望んだ。
ロマンチック大作戦は、高原、銀月の塔、ビーチでしか出来ないと思い込んでいた。
「そ…」
すまして、うなずくソフィア。
それは、三つ編みの彼女の真似っこ。
ソフィアの知っている一番強い女の子の真似っこ。
強い自分を演じるより、強い誰かを真似ることで、演じることで、強くなれるような気がソフィアはしていた。
「無理に付き合わないで。私、一人で画廊に行って来るから」
それは、拒絶の意志。
「あああ、ボ、ボクも行くよ、ソフィア」
「ジョアン、あなたは、高原でリフレッシュしてきて」
その物言いは優しい。
どこに行きたいか聞かれて、それに対して自分の意志をはっきり言っただけ。
その程度のことで、ソフィアはジョアンの“ロマンチック大作戦”の罠から逃れることが出来ていた。
「画廊は空気がこもっているし、絵の具のニオイがキツイと思うから…」
それは、気遣い。ソフィアは嘘はついていない。
「ボ、ボクはソフィアと一緒に画廊に行く、ボクはソフィアと一緒にいたいんだっ!」
食い下がる。
ジョアンにとっては、久しぶりのデートだった。
──ふぅ。
ソフィアは心の中で溜め息をつく。
──私といて、ジョアンは楽しいのかしら…?
そんな疑問もよぎる。
「ジョアン?」
「な、なんだい?」
「ジョアンは、どこに行きたいの?」
その問いの声は優しくて。
こんな風に、優しい問いは、今までジョアンは聞いたことがなかった。
優しかったから、ジョアンは勘違いした。
自分がソフィアの行きたい所に行くと言ったように、ソフィアも自分の希望を酌んでくれると。
『ジョアンの行きたいところについて行くわ』と。
「そりゃぁ高原だよ♪ 空気も綺麗だし、きっと気持ちいい」
胸を張ってジョアンはそう答えた。
「そ…」
ソフィアはこくんと頷いた。
そして、
「行ってらっしゃい、ジョアン」
ソフィアは、ジョアンの前で“微笑んで”そう言った。
「あ、ああ…」
思わず、ジョアンはそう答えてしまった。
久しぶりな“笑顔”のソフィアの言葉に、頷いてしまっていた。
「それじゃ」
すっとソフィアは小さな会釈をすると、一人で外に出ていってしまった。
ジョアンの中では微笑んだソフィアの笑顔と、ソフィアの優しい『いってらっしゃい、ジョアン♪』という声が反芻されていた。
ジョアンは、『いいわ、高原に行きましょう』という返事を待っていたのだが。
だが、ソフィアの物言いは決して辛くなく、逆に優しかった。
それは、その姿は、滅多にジョアンが目にしたことがない姿だった。
『そこに行くことが、あなたの望むこと。あなたの望むことの邪魔はしないわ♪』
ジョアンは、都合の良い幻聴の想像をする。
「ソフィアと行けないのは残念だけど、ボクにリフレッシュして来いってことだね!?
主人の健康を気遣う優しい妻、ソフィア、キミは何て優しいんだ」
デートというものがキャンセルになったことにジョアンは気付いていない。
純粋に、ソフィアの優しい笑顔と、短い「いってらっしゃい」という言葉に込められたものを“気遣い”と思い、過度な都合の良い解釈と誇張をこめて受けとめていた。
「ボクはキミのために、高原でリフレッシュしてくるよっ! いや、でもやっぱりキミも一緒にっ!──あれ、ソフィア???」
玄関を出て、ソフィアを呼び止めようとしたが、もうソフィアの姿はなかった。
ジョアンは慌てて門まで走り、右と左と確認するが、もうどこにもソフィアの姿はなかった。
「ソ、ソフィア〜〜〜〜〜〜〜っ!?」
誰もいないエリータス家の門の前で、ジョアンは情けなく叫んでいた。