それは、日記に書いてあったこと。
「学校の帰りに虹を見た。
ドルファン城の青い屋根から、城下町をまたぐようにしてかかっていた虹。
雨上がりの空からさす光との微妙な調和が、まるでディボディッドの絵みたいですてきだった。
私に絵心があったら、きっと一生懸命になってこの風景を写生したと思う。
そんなことを考えながら、歩いていたら、うちの学校の子が遊歩道のベンチに腰掛けて真剣な表情でスケッチしているのを見かけた。
同じことを考えている子がいたんだって、ちょっと…嬉しかった」
まるで詩を朗読するように、ソフィアはレズリーを初めて見た時のことを話していた。
「そんなことが、あったんです」
少し恥ずかしげにソフィアは話してみせた。
レズリーがぱちくりとした目でソフィアを見ていた。
「へえ、あの時、同じような気持ちであの虹を見ていたやつがいたなんて」
「綺麗だったです、とっても」
「ああ。あれほど“描きたい気持ち”が膨れ上がった“綺麗”はそうそうなかったと思うよ」
今、ソフィアとレズリーは喫茶店の小さなテーブルで向かい合って座っていた。
ソフィアはホットミルク、レズリーはブレンドを頼んでいた。
「絵を描くのは好きだけど、あんな風に感動をそのまま絵筆にのせられたら最高だ」
しみじみと、その時の描写をレズリーは思い起こしているのだろうか。
「絵を描くの、お好きなんですね」
「ああ、好きだよ。これしか取り柄がないくらいにね」
「将来は、絵描きに?」
「………」
その言葉に、一瞬レズリーの顔が曇る。
「あ、ごめんなさい」
聞いてはまずいことを聞いたと思ったのか、ソフィアはそう言ってうつむいてしまう。
「謝るなって。こっちが悪いことしたみたいじゃないか」
「あ…、え、えと、は、はい」
すぐにまた「ごめんなさい」と言いそうになったのをソフィアは何とか飲み込んだ。
(──そうやってすぐ謝る、それが知らず知らずのうちに壁を作ってしまうのよ)
ふと、三つ編みの彼女の言葉がよぎった。
「そんな顔するなって」
レズリーは苦笑いすると、気にするなよとばかりにソフィアの額を小突いた。
「将来のことはわからない。でも、そんなことも言ってられないよな。いつまでも学生気分じゃいられないし」
間に溜め息がまじる。
「学生時代は、先のことを考えないで、ただただ好きな絵を描いている時間が許されたけど。今はそうはいかないんだよなぁ」
レズリーはスケッチブックを開いて、今日書いた絵を見返していた。
「バイトして絵描いて、バイトして絵描いて、そんな繰り返しさ。ま、気ままって言えば気ままだけど」
“いつまでもこんな生活が出来るわけじゃない”
そんな自嘲が聞こえてきそうだった。
「今日、ベンチに座っててもらったのもそうさ。やっぱり人物が入るのと入らないのとじゃ違うんだ」
スケッチブックの中の今日の成果を見直しながら、レズリーは、また溜め息をついた。
「騎士や貴婦人の絵が売れるからね、やっぱり。絵で食って行くんだったら、風景だけじゃダメなんだ」
「そうなんですか…」
「あんたが並木道にぽつんと入るだけで、絵の空気はがらっと変わるからね」
「あの、見ても、いいですか?」
遠慮がちにソフィアが言う。レズリーのスケッチブック。
「ああ、いいよ」
レズリーは二冊のスケッチブックをソフィアに手渡した。
学校で絵が一番うまい人、そう聞かれたなら、恐らくレズリーが一番だと思われる。
いい絵、きれいな絵、ステキな絵、そういったものはソフィアもわかるけれど。
“売れる絵”というもの、“絵の値段”となると、ソフィアは素人でしかない。
──何が価値を決めるのだろう?
芸術というものは奥が深いが、欲深い人やいやらしい貴族の意志も入り乱れている。
画廊には、そこに飾るにふさわしくない下手な絵が平気で飾られることもある。
貴族が道楽で描いた(本人は本気かもしれない)ような下手な絵が展示されたりもする。
もちろん、画廊だって平気なわけはないかもしれないし、圧力に対抗出来ない貴族の力もわかる。
「画廊には、一応登録はさせてもらってるんだ。いい絵が描けたら、画廊に持っていったりもしてる」
画廊には一般の人が描いた絵を展示するコーナーがある。
そこに飾られた絵から画家への道が開いた例も少なくはない。
「絵を描くのは好きだけど。でも、売るために描くっていうのもなぁ…」
「こんなに上手なのに…」
「絵に値段をつけるって次元にも少し抵抗があるんだよ」
いろんな思いがまじっているのだろう。
「でも、たくさんの人に見て貰う機会っていいと思います」
スケッチブックを見ていた目をレズリーに向けて、ソフィアはそう言った。
まっすぐな目。
ソフィアは、自分でそんな目をしているとは気付いていないだろうけれど。
そんなソフィアの目線に射抜かれて、レズリーは苦笑いした。
「しばらくの間は、夢を追いかけてみるさ」
はっきりとした答え。悩みをうち消せる強い意志。
「絵を描いている時が、私の至福の時のようだからね」
──どくん
レズリーのその言葉が、少しソフィアにはうらやましかった。
「しばらくの間が、ほんの少しかもしれないし、一生かもしれないし。それはわからないけど、“今は”夢を追いかけていく…。がんばるよ」
そう言って笑ったレズリーの笑顔が眩しかった。
「あの…。私、応援してもいいですか?」
──自分の夢の代わりに…。
レズリーは、腕を組むと、う〜ん…という考える仕草をする。
「応援されてもなぁ…」
苦笑い。でも、それはソフィアの希望を否定する言い方ではない。
「私は、ソフィアの何を応援すればいい? 応援されるだけってのもね」
「え…?」
切り返しは、ソフィアはあまりうまくない。
「えっと…」
ソフィアはどもってしまう。
それに、ソフィアの夢は、もう…。
「こういう時は、「応援するよ」って言えばいいんだよ」
レズリーは優しく笑う。まるでお姉さんのように。
「私がソフィアの何を応援するかは、これから見つけることにするよ」
レズリーはそう言うとにっこりと笑ってくれた。
ぶっきらぼうなんだか優しいんだか。
「優しいんですね、レズリーさん…」
「…そうかい? ありがとう」
ウエイトレスが二人の座ったテーブルまでやってきた。
「お待たせいたしました、こちらブレンドコーヒーとホットミルクです」
慣れた手つきで置いていく。
「ごゆっくりどうぞ♪」
去り際、ウエイトレスはレズリーに小さくささやいた。
「レズリー、明日のヘルプ、よろしくね♪」
レズリーは小さく手をあげて答えると、ウエイトレスは厨房へ戻っていった。
「学生時代からずっとここでバイトしててね。結構融通が利くんだ♪」
レズリーは砂糖もミルクも入れていないコーヒーで喉を潤した。
「ブラックで…、お飲みになるんですね」
ソフィアが感心したように言った。
「ここのコーヒーは、ブラックでもイケる味になったんだ♪」
「え、そうなんですか?」
「マスターの特別なブレンドでね。飲んでみるかい?」
すっと受け皿ごとレズリーはソフィアにカップを渡した。
「えっと…」
香ばしいコーヒーの香り。
父によくいれた、コーヒーの香り。
ソフィアはこくんと一口レズリーのコーヒーを飲んだ。
「どうだい?」
にやにやっとした顔でレズリーが聞いた。
「…苦いです」
ソフィアは口元を押さえてレズリーにコーヒーカップを返した。
口直しに自分のホットミルクを喉に流す。
「コーヒーは嫌いじゃないですけど、ミルクと砂糖なしだと…」
ソフィアはコーヒーを入れるのは好きだが、実際に飲むのは紅茶の方が好きだった。
「いつかブラックの良さがわかる日が来るよ」
そう言って、レズリーはまたコーヒーカップに口をつけた。
何となく、「男はブラックで行く」と言っていたあの人を連想させた。
「そういえば、あの東洋人もブラックだったなぁ…」
ぴくんっとソフィアの体が揺れた。
あの人を想像した矢先にレズリーがそう言ったから。
「東洋、人ですか?」
声が震えるのがわかる。
でも、“あの東洋人”があの人のことを言っているとは限らない。
「ソフィアと付き合ってたんじゃ、ないのかい?」
ドクンとソフィアの心臓がなった。
耳に聞こえそうなくらい、心臓の鼓動が大きくなる。
──どくんどくんどくんどくん…
「──え、そ、そんなん、じゃ…」
絞り出した声は震えていて、カップを持った手も震えていた。
「みんな、そう噂してたよ」
その“みんな”がどこの誰たちか、それはわからないけれども。
少しばかり、レズリーは複雑な顔をしているように見えた。
「なあソフィア、何か、あいつのこと知らないか?」
そういえば、あの人は綺麗な女の人と一緒にいたことがよくあって。
それは、目の前の人もその中の一人で。
ソフィアがレズリーの名前を知ったのだって、あの人と一緒にいた人が誰か興味があったからで。
「いつの間にかいなくなっちまってさ…、別れの言葉もなしに…」
レズリーはやりきれないように悲痛な声をこぼす。
もう一つ、二つくらい押せば泣き出しそうなくらいな。
でも、それはわかる。
別れは、確かに悲しいことだから…。
泣いてしまうのは、仕方ないと、思う…。
「新しい法律だってことはわかってるけど…」
──ぽろ
「そ、ソフィア?」
──ぽろぽろ。
大粒の涙がソフィアの目にあふれて落ちていっていた。
声を出さずに泣き出したソフィアに、向かいに座ったレズリーが狼狽えた。
「ソフィア?」
「あ…」
呼ばれたのに気付いて、それから、自分が泣いていることに気付いて。
「ご、ごめんなさい。どうしたんだろ、いきなり、ごめんなさい」
いきなりあふれてきた涙に、ソフィア自身が困惑しているようだった。
「今日、何だか、涙もろいみたいで…」
すっ…とレズリーがハンカチを差し出した。
「泣くなよ、もらい泣きしそうだ」
ソフィアの涙が一押しになってしまったのかもしれない。
レズリーが、泣きそうな顔をしていた。
「ご、ごめんなさい…」
悲しい思いや、辛いことが呼んだ涙じゃなかった。
どうして涙が出てきたか、その理由がはっきりしない。
込み上げるものも、喉の痛みも出てこない。
ソフィアはレズリーのハンカチで目元を拭いて、顔をあげた。
「も、もう、平気です」
さっきまで泣いていたのが嘘だったかのように。
「きょ、今日は、何だか、本当に、どうしてだか涙もろいみたいで…」
しゃくりあげることはなかったけれど、ソフィアは涙の理由にとまどっているようだった。
「………」
「ごめんなさい、せっかくお茶をご馳走してもらっているのに…」
「…謝るなって」
「あ、ごめ…、いえ、はい…」
「──もう、あいつの話はしないでおくよ」
あいつとは、その東洋人のことだろう。
「いえ、もう、大丈夫です」
もう手も震えていない。こぼさなくて良かったと思うホットミルク。
「いや、あたしが大丈夫じゃなくなるかもしれないからね」
そう言ったレズリーは苦笑いを浮かべていた。
「…ごめ、い、いえ、はい、わかりました…」
また謝ろうとしてしまったのを飲み込んで、ソフィアもその話題に触れるのをやめた。
ホットミルクのカップを両手で持って、こくんと飲む。
温かいミルクが、気持ちを落ち着けてくれるような気がする。
レズリーもコーヒーを飲んだ。
それから、また絵の話や卒業した学校の話、たわいのない話、最初は堅苦しかったソフィアも段々とレズリーの調子に合わせられていった。
相変わらず敬語は抜けないし、「レズリーさん」としか呼べそうになかったけど。
遠くの時計台の方から、6時の鐘が鳴り始める。
日は暮れて、あたりは随分暗くなっていた。
「もうこんな時間か…」
「そうですね」
お互い、もう帰る時間。
「まあ、何だ、またお茶しよう」
「はい♪」
そう言って誘ってくれることが、ソフィアにはとても嬉しかった。
「今日は何だか、時間が過ぎるのが早かったような気がします」
「そうかい?」
ソフィアがこういう人との付き合いに慣れてないからかもしれないけれど。
たわいのない話から、いろんな話をしていた。
「じゃ、行くか」
レズリーはウェイトレスを呼んで会計を済ませる。
喫茶店を出ると、もう一番星も見えていた。
「やー、暗くなっちゃったなぁ」
「ごちそうさまでした」
ちょこんとソフィアがレズリーに頭を下げる。
「いやいや。今日は付き合ってくれてありがとう。駅まで一緒に行くか?」
「はい♪」
また、二人は手を繋いで最寄りの駅まで歩いていった。
「私、向こう側ですから…」
マリーゴールド地区へ向かう馬車の待合い場を向いて、ソフィアはそう言った。
「そっか、じゃあ、ここでお別れだな」
「今日は、すごく楽しかったです。また、お茶したいです」
喫茶店はソフィアのお気に入りの場所の一つだし。
「ああ、またお茶しような」
レズリーは優しく微笑んでくれた。
「それじゃ、また」
名残惜しそうに、ソフィアはレズリーの手を離した。
「あ、ソフィア…」
「はい?」
「元気、出せよ」
いろんな含みがあるような、そんな言い方だった。
「…ありがとうございます。それじゃ…」
ソフィアの答えも、似たようなものだった。
「ハンカチ、洗って返しますから」
気付いたようにそう付け加えて、ソフィアは歩いていった。
ソフィアの後ろ姿を見ながら、また、レズリーはさっきの少し複雑そうな顔で呟いた。
「帰りたくない家ってのは、キツイよな…」
前に、ソフィアの方がマシと思ったこともあったけれど、何がマシで何がマシでないかは難しい。
ソフィアは、いろんな意味で有名なのだ。
その有名なことの中で、レズリーは同情するところもある。
他に、同情以外の感情も持ってはいるが、それは言うことはない。
「さて、私も帰るか…」
レズリーもフェンネル地区へ向かう馬車待ち合い場へ歩いていった。
ソフィアにとって今日は、いきなり腕を組んで一緒に歩ける友達が出来た日。
エリータス家に嫁いで行ってから初めて笑った日。
いっぱい泣いた日。
日記をつけていた頃だったら…。
あの人とデートした日のように、書くことが一杯すぎるような日だった。
一口だけ飲んだコーヒーのせいか、この日ソフィアは寝付きが悪かったのでした。
でも、まだ涼しい初春。
ベッドの中の暖かさ心地良さ、今日あった出来事が、ソフィアには気持ちよかった。