「ごめんっ!」
いきなり彼女が叫んだ。
「夢中になっちまって、こんな時間まで…」
スケッチブックとペンケースを持って、ソフィアが座ったベンチまで走りよる。
「私、絵書いてる時って時間を忘れちゃって…」
ようやく、ソフィアの声が届く範囲に二人が揃う。
出会ってから、数時間が経過していた。
「本当に、その、ごめん」
申し訳なさそうに彼女が言う。
「気にしていませんよ」
ソフィアは立ち上がって、彼女と向かい合う。
軽く腕と足の筋肉を伸ばすように伸びをする。
「疲れさせちゃったかな…、ずっと座りっぱなしにさせちゃって──」
ホントにごめんと後に続きそうなところを、ソフィアが遮った。
「本当に大丈夫ですから。気になさらないで下さい」
「──そうか? そう言ってもらえると、助かるよ…」
ソフィアの反応にほっとしたのか、彼女は笑ってくれた。
「いい絵が描けましたか?」
「ああ、おかげで」
スケッチブックにお宝を詰め込んだような、満足したような顔をする。
「家に帰ったら、この中からキャンパスに写そうかと思えるのもあるよ」
「良かった…」
正直に、ソフィアは嬉しかった。
久しぶりに、人の役に立てたことが嬉しかった。
ふと、彼女が何かに気付いたようにソフィアの顔をまじまじと見つめる。
「あれ…?」
「はい?」
「あんた…、ロベリンゲか?」
思いがけず、彼女の口からソフィアの旧姓が出た。
「え? は、はい」
「どこの貴族のお嬢様かと思ったよ。ドルファン学園で同じ学年にいたんだけど、私のこと、覚えているかな?」
貴族のお嬢様と言われても仕方ない。
ソフィアの外見は、その包んでいる衣服が高級感と気品を漂わせている。
もちろん、ソフィア自身は意識してないだろうが、そういった衣服が似合う素質をソフィア自身は持っていた。
「あ…」
自分のことを知っている、そのことが、ソフィアを少し動揺させる。
「うーん、クラスメートだったわけじゃないから、わかんないかなぁ…」
「いえ、そんなこと、ないです。ロピカーナさん」
名を呼ばれて、レズリーは嬉しそうに笑った。
「お久しぶり、って言うのも変かな」
「そうですね…」
「自己紹介してないけど、別に必要ないかな♪ ──って、私のこと知ってたんだ?」
学校が同じであれば、聞こえてくることもあるだろうけれど。
「あの…、よく校門でおっきいリボンつけた子がレズリーお姉ちゃんって呼んでるのを聞いて。いつだったか、図書室の図書カードでお名前を見て、覚えていました」
「はは、あの子か。校門で『お姉ちゃんのバカァ!!!』なんて言われた日には参ったよなぁ」
「ロピカーナさんは、私のこと、どうして?」
「…えっ?」
ソフィアの切り返しに、少しレズリーは口ごもる。
「えっと…」
ちょっとあさっての方向を見つめてから、レズリーはソフィアの顔を見ないで言った。
「ドルファン学園の歌姫のことを知らないヤツは、同じ学年にはいないんじゃないかな?」
「???」
ソフィアは、きょとんとして、「???」のまま、わからないと言った表情をしている。
レズリーはくすくす笑う。
「ドルファン学園の歌姫ソフィア・ロベリンゲ、有名だったよ♪」
「ええっ!?」
思わず、ソフィアはここ数ヶ月出したことのない大声を出した。
驚きの悲鳴だった。
「やっぱり自覚なかったのか、そりゃそうだよなぁ…」
ソフィアは顔を真っ赤にして口をぱくぱくしている。
ソフィアは人前で歌ったことなどなかったし、合唱の時にはみんなと一緒だったし、目立つ歌い方はしてなかったし。
──なのにどうして、歌姫???
「…ど、ど、ど、どこでそんなこと???」
“歌姫”というのが、誉め言葉なのか悪い言葉なのかどう扱われているかわからず、???を浮かべたまま、ソフィアはレズリーの前でしどろもどろになった。
それは、ソフィアにとって久しぶりの動揺だった。
どういう扱いであれ、恥ずかしいことには変わりない。
レズリーはくすくす笑ってソフィアの肩をぽんぽんと叩いた。
「朝早くと、下校時間が過ぎた教室で『春の木漏れ日の中で』を歌ってたことがあっただろ?」
ソフィアは解答をせず、顔を真っ赤っ赤にしてしまって、何も言わずそれを肯定した
「あはは、本当なんだ? 私も一度、聞いたことあるよ。歌っているところは見たことないけどさ」
それは、劇団アガサのオーディションのあたりのこと。
誰もいない教室で、練習していた時のこと。
レズリーはどこかから取り出したナップサックにペンケースなどをしまい、背中にしょった。
「立ち話もなんだし、よかったら、喫茶店でお茶でもどうかな? 付き合ってくれたお礼に、お茶でも、奢るよ」
そうさせて欲しいという気持ちが伝わってきて、ソフィアはまだ赤い顔のまま、こくんと頷いた。
「じゃ、行くか」
レズリーがすっとソフィアの右手を取った。
──どき…
「えっ…?」
ソフィアは、また顔を赤らめてしまう。
レズリーにとっては、いつも一緒の子としている自然なことだったけれど。
友達と手を繋いで歩く。
それは、普通のことかもしれないけれど。
ソフィアには、初めてだった。
友達と友達らしいことをする、そんなことが今まで出来ずにいて。
手袋をした三つ編みの彼女とは、そんなことはしたことなかった。
「春になったとはいえ、まだ冷えるなぁ」
レズリーが繋いだ手を引き寄せた。
自然と、ソフィアの腕とレズリーの腕が絡む。
「喫茶店であったかいお茶かココアでも飲もう」
まるでいつも隣にいる小さいおっきなリボンの子に言うように。
だからココアという言葉が出る。
ふわっと微笑んだレズリーの顔が優しかった。
──どくん…
なんだか、嬉しかった。
組んだ腕の柔らかさと、レズリーの暖かさが、何だか気持ち良くて。
随分久しぶりに、他人の肌に触れたような気がして。
「あ、あの…」
振り絞る。学生時代に、誰にも言えなかった言葉。
「ろ、ロピカーナさん…。わ、私と、お、お友達になってくれませんか?」
レズリーは、一瞬きょとんという顔をした後、声を出して笑った。
「わ、私、何か変なこと言いました?」
「いや、いや、言ってないよ」
レズリーはくすくす笑った後、ソフィアと組んだ腕に軽く力を込めた。
「こちらこそ。よろしく、ソフィア」
レズリーにとってこんな風に友達になろうとした人が初めてだったのだろう。
「もし良かったら、また絵のモデルになってくれると嬉しいよ」
「あ、はい! 喜んで…」
絵のモデル…ということに後から恥ずかしさが出てくるかもしれないのに、ソフィアはこの時気にならなかった。
友達になりたいと思った相手に必要とされることが、嬉しかった。
「ああ、でも…」
そう言って眉をよせたレズリーに、自分が気を害させたかと不安そうな顔をするソフィア。
「な、なんでしょう?」
「ロピカーナさんはやめてくれないかなぁ? レズリーでいいよ」
「は、はい、レズリーさん♪」
自分で自覚するほどひねくれてると思うレズリーには、丁寧に“さん付け”で呼ばれることが少しくすぐったかった。
「──ま…、いいか」
“さん付け”もちょっとと思ったけれど、レズリーは不快に思わなかった。
ソフィアの礼儀正しさと、不安と期待がまじったような子供のような友達宣言に、これ以上つっこみをいれる気にはならなかった。
春の並木道を、ソフィアとレズリーは腕を組んで歩いた。
同性と腕を組んで歩く。それは、ソフィアには初めてのことだった。