ドルファン歴29年4月下旬
春の日差し。
温かい。
メイドに持たされた日傘に違和感を感じるけれども…。
雲一つない青空は、たぶんすがすがしいのだろうと思う。
柔らかい日差しは心地よいのだろうと思う。
ついこの前、学生の頃は、駆け出したくなるような気持ちになっていたかもしれない。
こんなにも、太陽が微笑みかけているようなのに。
こんなにも、木漏れ日が優しいのに。
気持ちが踊らない。
笑顔になれない。
春の並木道。この前まで葉を落としていた並木が、青い葉をたくさんつけている。
「青い空…」
並木道のベンチに座って、空を見上げてみる。
高い空、広い空。
あの人の国にも繋がっている空。
今、あの人はどこにいるのだろう…。
同じ空の下にいるのに…。
きっと、とても遠い空の下…。
あの日…、あの人がドルファンから出国したあの日。
肖像画家に絵を描かせると言って、無理矢理にウェディングドレスを着せられて。
イヤな予感はしていた。
馬車は、あの人の待つ波止場へと向かっていた。
あの人の手紙を、ジョアンが見つけて中身を見ていたこともショックだった。
ジョアンの嬉しそうな顔が、とてもいやらしく思えて、気持ちが悪かった。
あの人に会うのが怖かった。
港の夕焼けが、あざやかだったのを覚えている。
波の音が、やけに大きく聞こえたのを覚えている。
私の姿を見たあの人の顔が…、忘れられない。
どうして…と思った。
あの人の気持ちが、伝わってくるようで、辛かった。
痛かった。胸が痛かった。
あの人が、とても苦しそうで。
私より、悲しそうで…。
何も言葉が出てこなかった。
──そして…。
勇気を出せなかった自分が悲しかった。
わかっていたのに。
言えなかった。
心でずっと思っていた気持ち。
ジョアンが、あの人に何か言っていた。
『やめて、喋らないでジョアン!』
言葉には出なかった。
心でしか抵抗出来なかった。
またあの時のように、言葉が出なかったから。
ジョアンが言葉を放つたびに、胸が引き裂かれそうになった。
『どうしてそんなことを言うの…?』
哀しくて、辛くて、申し訳なくて。
あの人の顔から目をそらすことが出来なくて。
そこには、大嫌いなジョアンがいた。
ウェディングドレスがひどく重くて。
自分の本当に好きな人が辛そうなのが悲しくて。
何も言葉が出てこなかった。
あの人も、同じだったかもしれない…。
──さん… どうか、お元気で…
それしか言えなかった。
自分が発した言葉に、心臓をきつくつかまれるような気がした。
これで終わってしまうのだと。
私にもっと勇気があったら…。
過ぎたことを振り返ってもどうしようもないのに。
悪夢のように、目が覚めている昼間に、あの人との別れの時を思い出していた。
「なんで、こんなこと考えているんだろう…」
昼間っから泣いていた。
でも、泣いていなかったら、あの時の悲しさにトリップしていたかもしれない。
泣いている自分に気付いたから、戻って来られた。
ハンカチを取り出して、涙をぬぐう。
「ぐしゅ…」
泣いてしまう自分が情けないけれど。
でも、泣けなくなったら、もっと悲しいかもしれない。そう思ってしまう。
“忘れた方がいいのか、忘れたくないのか”、そういう考えには行かない。
あの人のことは、考えてしまうから。
溜め息をついて、目を伏せる。
貴族の暮らしは贅沢三昧で、家事は全部使用人達がやってくれて。
エリータス家でやることはソフィアには何もなかった。
お茶会に出席したり、貴族の婦人会にお披露目されたり。
居心地は良くなく、話も合わないし、楽しくないし。
──私、楽しい顔していないだろうし…。
テロ事件の精神的後遺症とマリエルさんは回りに説明してくれたらしい。
気遣ってくれているのか、対面だけなのか。
貴族の婦人達の言葉にトゲを感じてしまうのは、気のせいじゃないかもしれない。
陰口も、聞こえてるような気がする。
想像出来てしまうのが、辛い。
「ぐしゅ…」
涙は止まった。
疑りのようなものを入れる自分の気持ちが、醜いようで、イヤになる。
──国立公園まで、歩こう。
せっかくのいい天気が、少しは気持ちを明るくさせてくれるかもしれない。
どのくらいの時間、並木道のベンチに座っていたのか。
長かったのか、短かったのか。それはわからないけど。
考えない方がいいことにトリップしてしまっていた。
動いていれば、少しは気がまぎれる、
──そう思って今日も出てきたのに…。
溜め息一つ。
「行こう…」
自分に勢いをつけるようにそう呟いた。
「あっ、ちょっと、そこのお嬢さん!」
ソフィアが立ち上がって歩こうとすると、女性の声が呼び止める。
自分以外の人がいるとは思ってなく、その声に驚いたし、自分が呼び止められたことにも驚いた。
きょろきょろすることもできなく、自分とその人以外、この並木道にはいなかった。
南の方向、ななめ向かいのベンチのそばにいる女の人がソフィアを見ている。
“そこのお嬢さん”は、ソフィアのことに間違いなかった。
「あの、もし良かったら、もう少し座っていてくれませんか?」
振り向いたソフィアに、女性はそう言って、軽くぺこんと頭を下げた。
ソフィアが学校で使っていたスケッチブックと同じスケッチブックを持っていた。
「あ…」
見たことがある人だった。
顔をあげた彼女の顔に見覚えがあったし、少しくせのある金髪と、
スケッチブックの組み合わせをよく覚えている。
今年一緒に卒業したドルファン学園の生徒…。
「………」
彼女は「ダメ、かなぁ?」という残念そうな顔をしてしまう。
「あ…」
──そうじゃ、ないの…。
彼女に声を届けられない距離だったから。
彼女に聞こえるように声を出したら…。その声は、きっとわれてしまうから。
そのくらいの、少し距離がある。
大した距離じゃないけど、声を出せる勇気が出ない。
笑って、笑顔で大きな声で「良いですよっ♪」って言えれば、いいのに…。
何も言わず、ソフィアはゆっくりとまたベンチに腰かけた。
ソフィアは彼女に向かってこくんと頷いてみせる。
「良いですよ」と心で呟いて。
少し、困った気持ちもあったけれど、恥ずかしいけれど、彼女の残念そうな顔が苦しくて…。
「ありがとうっ!」
彼女が嬉しそうに返事をくれた。
──とくん。
久しぶりに、何か温かい気持ちが胸にわいた。
彼女の嬉しそうな顔が、ソフィアにとって嬉しかった。
じっと見つめられているのが恥ずかしかったけれど、彼女の残念そうな顔が嬉しそうな顔に変わったのが、凄く嬉しく感じられた。
今、彼女は真剣な目でソフィアを見つめていて、スケッチブックにペンを走らせている。
その真剣な視線が、恥ずかしい、と思うよりも、「かっこいい…」とソフィアに思わせた。
打ち込んでいるものがある、その一直線が、「すごい…」と思わせてくれた。
それからしばらくして…。
「も、もう一枚いいかな?」
彼女はせわしなく座っていた場所を移動しながら言った。
目が合う。
喉まで声が出かかるけれど、また、こくんとだけ頷いて答える。
「ありがとう♪」
彼女はソフィアを中心に円を描くように移動する。
2周くらいし、「ん、ここだ」とスケッチブックを広げてペンを走らせる。
少し離れられているから気恥ずかしさが少ない。
小等部の時、隣の人の顔を書く課題には、顔を真っ赤にしたものだけど。
隣の人が書いた私の顔は、本当に真っ赤だった。
思い出し笑い。
──さすがに、あの頃ほどじゃない。
そして、苦笑い。
すこやかな春の昼下がり。
ここにいる理由が出来た、そのことが嬉しかった。
目的がなく彷徨っている状態より、ずっと良かった。
「ごめん、もう一枚いいかなぁ…!?」
また、彼女がソフィアに声をかける。
彼女の方を見たソフィアは、またこくんとだけ頷いた。
また、彼女は嬉しそうな顔をする。
『ようし、やるぞぉ』という意気込みみたいなものが感じられて。
それが、ソフィアには心地良かった。
──なんだろう?
その心地良さを、なんだかソフィアは懐かしく感じた。
この後、彼女の「もう一枚」は西の空がほんのり赤くなるまで続いたりする。