少年と死神と死体
その驚愕を、どのように表現すればよいものか。
俊輝の目の前で藤花は校舎横の桜の木にはりつけにされ、額を極細のワイヤーに貫かれて絶命した。
一瞬。ただ一瞬の出来事であった。
それまでの他愛ない日常から悪夢の世界へ。
目眩と吐き気で立っていられず、俊輝はその場にへたたりこんだ。
そんな俊輝を、藤花を殺したそいつは冷ややかに見下ろしている。
つやのない、真っ黒なマントを羽織っている。同じ色の筒のような帽子で、顔はよく見えなかった。
「あ……うぁ……」
恐怖で声がまともに出ない。
無理もない。人が死ぬなどというのは、今までメディアの向こう側のフィクションでしかなかったのだ。
(次は僕が殺される?)
(そんなはずはない。)
(あるはずがない。)
(ここは……)
(この世界は……!!)
「君の知りたいことの一つ目」
ガチガチと歯を鳴らす俊輝を見下ろしながら、この場にそぐわないやたらと落ち着いた声でそいつは口を開いた。
男とも女ともつかない、平板で中性的な声。
「ぼくの名はブギーポップ。君は知らないかもしれない。ぼくの噂は女の子だけの秘密らしいからね」
ブギーポップ。その名を一度だけ藤花が口にした事を俊輝は思い出せなかった。
頭が混乱していて、それどころではなかったのだ。
「二つ目。ぼくは自動的でね。世界の危機に浮かび上がってくるだけの代物なんだ。だから、この世界に浮かび上がってきたぼくは君の能力の範疇外だ。そして三つ目。ぼくは宮下藤花を殺してはいない。なぜなら……」
ブギーポップと名乗ったそいつは、自分の帽子とマントをゆっくりと脱ぎ捨てた。
俊輝の目がこぼれ落ちんばかりに見開かれる。
「宮下藤花はここにいるからだ。そこのそれは偽物さ」
黒いルージュを唇に飾り付けた、それは間違いなく宮下藤花だった。
さげずんだような瞳が、俊輝を真正面から見据える。
「そ、んな……。そんなはずは……だって、彼女は……」
(僕とつきあってくれたじゃないか)
(僕のこと好きだって)
(お弁当だって……)
藤花の照れたような笑顔。悪戯っ子の表情。潤んだ、恥じらうようなあの顔……
それら全てを打ち砕くように、ブギーポップは怒ったような、人を見下しているような、複雑な表情をした。
「じゃあ、君の知っている宮下藤花は本物に告白もできないような奴を好きになるような人間だったのかい?」
「ぐっ……あぁ」
その言葉はナイフとなって俊輝の心をえぐる。傷口から溢れ出た血が涙となって、頬をこぼれ落ちた。
辛い。
痛い。
苦しい。
悔しい。
……ここから、逃げ出したい……
「逃げるのか?」
俊輝の心を見透かしたようなたった一言。
その言葉を聞いて俊輝の心を支配したのは、怒りだった。
「わ、悪いのかよ!?」
その叫びは、相手を威嚇するものではなかった。自分の心を、もっとも弱い部分を隠すための、騙すための、脆くて頼りない鎧。
「僕の、僕だけの世界で何をしようと、僕の勝手じゃないか!?僕は誰にも迷惑なんかかけてない!!」
「本当にそう思っているのかい?」
そう言ったブギーポップの顔は怒っているようでいて、どこか悲しそうだった。
「なんだ……て?」
「本当に誰にも迷惑をかけていないと、本気でそう思っているのかい?」
「だって、そうじゃないか。ここは、僕だけの世界で……」
もう、怒りはどこかへ消え去ってしまった。後に残るのは、不安。
「君が好きなように作り変えた人々。宮下藤花だけじゃない。それは、彼らに対する侮辱でしかない」
「だって、それは……」
「本人が気付いていなければ、何をしても構わないと思っているのかい?だがそれは裏切りだ。つまり君は相手の記憶や心なんて、どうでもいいと思っている。君が欲しかったのは宮下藤花じゃない。宮下藤花の形をした人形さ。それが相手にとってどれほどの侮辱になるか、考えたことはないのか?」
「う、うぅ……」
もう言葉が出なかった。反論しようにも、するだけ自分がみじめになることがわかりきっていた。
自分がどれだけみじめな事をしていたのかもわかってしまった。
ブギーポップは、泣きじゃくる俊輝を見つめ続けている。
その表情の変化に俊輝は気がつかなかった。
「そして、君が一番傷つけているのは君自身だ」
「……え?」
ブギーポップを見上げる俊輝。
涙で視界がぼやけて、ブギーポップの顔が見えない。
「君はいつまでここにいるつもりなんだい。卒業するまで?それとも死ぬまでかな?」
「それは……」
「わかっているのかい?君は、この君だけの世界で何も得ることができないんだぜ。知識も、思い出も、なにもかもだ。君はここにいることで、君が得ることができるかもしれないすべてを捨てているんだ」
膝立になったブギーポップの瞳と俊輝の瞳が同じ高さで重なる。
藤花とはちがう、ブギーポップの瞳。
だが、その瞳が語りかけてくるものは、その瞳の奥に宿しているものは、あの瞳と同じだと思った。あの、本当の藤花の瞳と。
やさしさ。
本当はそんな簡単な言葉では表現できないのだろうけれど、俊輝が一番に感じたのはそんな言葉だった。
「君は、楽しいことは好きかな?」
俊輝がゆっくりとうなずいた。
「じゃあ、苦しいことは嫌いかな?」
もう一度うなずく。かっこ悪いけど、それが本心だ。
「だったら、この世界は?楽しいことだけのこの世界のことを、君は好きなのかい?」
うなずかなかった。
うなずけなかったのだ。
自分でも、ずっと前から気付いていたのだ。でも、このぬるま湯の世界を否定したくなくて、抜け出す勇気がなかった。
今でもそんな勇気があるとは自分でも思えない。
でも。
それでも今、ここから抜け出さなければならなかった。
自分は、ここまで言われて逃げ出すほど臆病者ではないと信じたかった。
ちっぽけだけど、それがプライド。男としてなんて、そんな事は言えない。ただ、自分という存在をこれ以上落としめないための、プライド。
だから、口からでたのは、それを気付かせてくれた感謝の言葉だった。
「ありがとう」
それを聞いて、ブギーポップは笑っているようなからかっているような、曰く言いがたい左右非対照の表情をした。
「どういたしまして。だが、君を救ったのは君自身だ。ぼくはちょっとお節介をやいただけさ」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったけれど、俊輝は笑った。
立ち上がって、制服についたほこりをはらう。
「帰ったら、今度こそ本当に告白してみる。……結果はわかってるけどね」
「まぁね。でもそれは、君にとって絶対必要な事だ」
当の宮下藤花本人にこんな事を言っているのはおかしなものだと思ったが、自分の目の前にいるもは宮下藤花であって宮下藤花でないのだと、なんとなくわかった。
もしかしたらブギーポップもまた、自分のつくりだした幻なのかもしれない。
それでも俊輝はもう一度だけ「ありがとう」と言った。
「さよなら」
「ああ」
そしてこの世界から、創造主は自分の世界へと帰っていったのだった。
「さて……」
主を失い、だんだんとぼやけていく世界に取り残されたブギーポップは、桜の木にはりつけになっている宮下藤花の姿をした死体に向き直った。
「また、産道は閉じさせてもらったよ。……なんと呼べばいいのかな?」
「あら、私は宮下藤花よ?」
死体が喋った。ゆっくりと持ち上がったその顔は笑っていた。
「それはどうも抵抗があってね。一つ前の名前でいいかな?」
それを聞いて、藤花の姿をした者はくすくすと笑いをもらした。
「あれは傑作だったわね。いいわ、あなたがそうしたいなら」
「ありがとう、ゾーラギ君」
そう言ってブギーポップは彼女の戒めを解いた。