この時期の街は、やはり好きになれない。
バレンタインデーに華やぐ商店街を一人歩きながら、楠木玲は苦虫をかみ潰したような表情でそんなことを考えていた。
お菓子を道具に使っているようで腹が立つ、というのはもちろん建て前である。
本音はやはり独り者のひがみだった。
なにしろ、生まれてこのかた男性とつき合った事がない。何度か言い寄られたこともあったが、その性格のおかげで相手の方から逃げ出す始末だった。
誰かを好きになったこともない、と思う。こちらの記憶は曖昧だった。その事を考えるとひどく頭が痛むので、深く考えないようにしているのだが。
そういった訳で、彼女が当事者としてバレンタインデーという一大イベントにかかわったことはこれまで一度もなかった。
「あ、楠木先生」
そう呼ばれて振り向いた時も、おそらく怒ったような表情をしていたのだろう。
玲の顔を見るなり声をかけた少女、織機綺はびくりと体を硬直させ、困ったような表情をした。
「あ、いや、気にしないで織機さん」
慌てて表情をゆるめる。そう言われてほっとしたのか、綺も笑顔になって玲に向かって会釈した。
綺は玲の勤めている料理学校の生徒だった。途中入学だったが勉強に対する情熱は誰よりも強く、今では時々玲の方から手伝いを頼むほどの上達ぶりだった。教師として、先が楽しみだ。
「先生もお買い物ですか?」
見れば綺の手には小さな紙袋が下げられている。そのロゴは玲も知っている近所のお菓子専門店のものだった。
玲の表情が少しだけ険しくなる。
「彼氏に手作りチョコでもプレゼントするわけ?」
「はい」
そう言ってはにかむ綺を玲は本当にかわいいと思った。恋は人を美しくすると言うが、まさにそれだろう。そんな表情のできる綺のことをうらやましく思う。
「先生は、その、そういう人はいないんですか?」
「忘れたわ」
怒ったようにぷいっと横を向く玲。その表現が恐ろしく的を射ていることを彼女自身は知らない。
「すいません……」
「まぁいいけど。でも、なにもみんなそろって2月14日にチョコレート渡すことないと思わない?所詮チョコレート産業の陰謀よ?」
「でも、一年に一度の特別な日ですから。私の作ったものを、私のす、好きな人が食べてくれるのが嬉しいんです。私、今までそんな人がいなかったから……」
綺の笑顔は照れや自慢といったものよりずっと深いものを含んでいたような気がしたが、玲は口に出しては「そんなもんかしらね」と言うにとどまった。
「……私もたいがい馬鹿ね」
ため息をつく玲の前には数々の手作りチョコレート用材料が並んでいた。
すべて市販のものだ。買い込みすぎてお金が足りなくなり、カードで支払った時には情けなさと恥ずかしさで少し泣きたくなった。
渡す相手もいないのに、なぜこんなに自分ははりきっているのか?
答のない問が玲の顔を険しくさせる。だが、材料があるのなら、玲のやることは一つしかない。
「さて、と」
ひとしきり後悔を終えると、冷蔵庫から冷やしておいたチョコレートを取り出す。
それを手早くきざみ、そこに沸騰させた生クリームをそそぎこみ、チョコが完全に溶けるまでかきまぜる。これを冷やせば普通の生チョコレートになるのだが、今回はこれにラム酒を大さじ1杯入れる。それを冷蔵庫に入れて待つこと30分。
冷蔵庫からとりだしたチョコレートを絞り出し袋を使って棒状にする。そしてそれをまた冷やす。
適度に固まったところでナイフで切りわけてボール状に丸め、そしてまたそれをを冷蔵庫へ。
とにかく、冷やしては作業、冷やしては作業なのだった。
あせってはいけない。だが、のんびりしていてもいけない。
冷蔵庫で冷やしている間に別のチョコレートを溶かして『のり』を作った。
冷蔵庫から取り出したボールに『のり』をつけて、それを粉糖の上でゆっくりと転がせば、トリュフ・ラムの出来上がりだ。
「ま、こんなもんでしょ」
一つ一つを色とりどりの袋に包み、それを大きめの半透明の袋に入れる。開けた時にさわやかな匂いが広がるように、ミントの葉を一枚入れて封をした。
トレイに残しておいた一つを手に取って味見をしてみる。
「ま、おいしのは当然ね。これが専門なんだから」
(「もともと私はアイスだけを専門にしてたわけじゃないしね」)
玲の体がびくり、と強ばった。
あれは、誰に向けて言った言葉だっただろうか?
今はただの瓦礫の山と化している、とある廃ビル。不動産会社の不備とやらで再開発のめどはたっていない。
そこに玲は立っていた。
悩みごとや考えごとをする時、玲はよくこの場所に来る。
ここに来たからといって悩みが解決するわけではない。むしろどんどん頭が混乱してくることの方が多い。
だがそれでも、玲はここに通うのをやめなかった。
そして今日もここに立っている。
「なにやってんだろ?、私」
手にはしっかりラッピングされたチョコレート。だが、渡す相手はどこにもいない。
なんだか腹が立ってきて、そこらへんに落ちていた石を思いきり蹴飛ばしてくるりと背を向けた。
「あ痛っ」
「!?」
驚いた。たしかに誰もいないはずだったのに……!?
だが、そこに彼はいた。
頭をさすりながら、目に涙を溜めている
緑の顔をした、
ピエロ……
「あ、あんた……」
「あ、えーと、奇遇ですねぇ。こんなとこで再会するなんて」
ピエロは玲の顔を見て、後ろめたいことでもあるようにうろたえている。
「奇遇ぅ?、あんた、こんなとこで何してんの?」
「あ、あの、アイス売ってたら道に迷っちゃって」
「見え見えの嘘ついてんじゃないわよ。だいたい、あの時だっていきなり消えるからびっくりしたじゃない」
そう言った玲の顔がひどく悲しそうだったので、ピエロは慌てて「ごめんなさい」とあやまった。
「あ、そうだ。あんたにこれあげるわ。あの時のアイスのお礼に」
玲の投げた袋をあぶなっかしい手つきで受け取ったピエロは、それをしげしげと眺めた。
「なにこれ?」
「今日なんの日だか知ってるでしょ? チョコレートよ、チョコレート」
「チョ、チョコレート!?」
必要以上に驚くピエロがおかしくて、玲は笑った。
「義理よ義理。遠慮しないで食べちゃって。どうせあげる人もいないんだから」
「でも……」
「それともなに?私のチョコが食べられないっての?」
「た、食べさせてもらいます」
袋を開けたピエロは、ふわっと香るミントの匂いに複雑な表情をした。
そして包みを一つとりだし、チョコを頬張る。
「……おいしい。材料はそんなにすごいものを使ってるわけじゃないのに」
「あったり前でしょ。あんたみたいに一つのアイスに何万円も注ぎこまなくたっておいしいものはつくれる、の……よ」
なに気ない一言が、玲の心に嵐をもたらした。それは、前にあった時に食べたアイスの感想。
だが、それよりも前に……
玲の頬に涙が落ちる。なにか、とても大切なことを忘れている。我知らず、玲は叫んだ。
「あんた、いったい何なのよ!?」
「……僕は魔術師さ」
(「いいえ、詐欺師よ」)
泣き叫ぶ玲をピエロは……ペパーミントの魔術師は悲しそうに眺めていた。
「私は……!あんたは……!!」
(「同じだから、もう一緒でいてはいけないのよ」)
(「触っても、別に普通の人間と変わらないのね……」)
私は、なにを泣いているのだろう。心が苦しい。張り裂けてしまいそうだった。
でも、この苦しみの先に何か、とても大事な何かが……
(「ほんとにバカよね」)
(「私もバカだけどね。でも、やっぱりあんたには負けるわ」)
(「さよならよ、……それを言いに来たの」)
(「ごめんね」)
(「十助」)
「十助……」
「思い出しちゃったんだね、玲」
そう言った十助は、笑っているような泣いているような、ぐちゃぐちゃの表情をしていた。
「僕はバカだからうまく言えないけど、思い出して欲しかったけど思い出して欲しくなかったんだ。玲は、僕がいないほうがよかったから」
「バカ!」
言うが早いか、玲は十助に抱きついていた。
「前からバカだバカだと思っていたけど、ほんとに救いようのないバカね……」
そして、玲は今日という日の意味を知った。一年に一度、今まで言えなかった一言が言える日……
「あんたのこと、好きだったんだから……」
「れ、玲!?」
自分の胸で泣きじゃくる玲をどうしたらいいかわからず、十助はおろおろするばかりだった。
ずっと、ずっと。