「おじゃまします……」
小声でそっとつぶやくと、綺は正樹の部屋のドアに手をかけた。
この中には誰もいない。それどころかこの谷口家には今、誰一人として住んではいなかった。
正樹の両親は海外を飛び回っていたし、正樹自身も今は寮生活だ。そういうわけで、ここ最近は荒れ放題になっていたこの家を掃除すると言い出したのは綺自身だった。
もともと、正樹が寮に入る羽目になったのも綺に責任があった。その罪ほろぼし、というわけではないが、少しでも正樹の役に立ちたいと思ったのだ。
そのことを彼女の現在の保護者である霧間凪に話したところ、何も言わずにこの家の鍵をくれたのには驚いたが。
なんで持ってるの?
その問に返ってくる答はなかった。
そんなこんなで掃除も滞りなく進行し、残すところこの正樹の部屋のみとなったわけだ。
恋人の部屋に無断で入るのだから、少し緊張する。
知らない女の子の写真とかでかでかと貼られていたらどうしよう……?
あまつさえそれが裸だったりしたら……!?
とめどなく沸き上がる不安に胃をキリキリさせながらも、綺は思い切ってドアを開く。
「わぁ……」
そこは、主によって心地よい具合に適度にちらかされた空間が広がっていた。窓から差し込む明かりが室内を暖かく照らしている。
女の子の写真は貼られていない。もちろんポージングしている男の人の写真も貼られていないし、富士山のテナントや『根性』と書かれたキーホルダーなども貼られていない。
それどころか、鉄アレイやルームランナー、大リーグ○ール養成ギブスなどのフィットネス器具も置いていない、ごく普通の部屋だ。
ちょっと安心。
綺は掃除機を持って正樹の部屋に第一歩を踏み入れた。
さすがに、しばらく使っていないせいかうっすらとほこりを被っているが、それほど汚れてはいない。
軽く部屋を見回してみると、机のスタンドに貼ってあるプリクラのシールが目についた。
それは、初めて形にした二人の思い出。照れ笑いを浮かべる正樹の横に無表情で立っている自分がおかしくて、綺はなんだか泣けてきた。
あれからいろんな思い出を二人で作ってきた。でも最初は、最初のころの私はなんとつまらない顔をしているのだろう!?
笑っていられる自分を改めて驚く。笑顔なんて作り物しか知らなかったわたしがこんなにも笑っていられるのは正樹と、そして凪や健太郎達のおかげだった。
嬉しくなって鼻歌など歌いながら掃除をはじめる。
ベットのシーツを取り替え、大きなゴミを捨てて、掃除機をかけて。
あ、そうそう、ベットの下はほこりが溜まりやすいから念入りに……
がさ
「?」
ベットの下になにかある。
取り出そうとして、綺の手がぴたりと止まった。
これはもしや、えっち本ではないだろうか?
綺の頭の中に擦り込まれた統和機構のデータベースによれば、ベットの下は男の子のえっち本隠し場所ベスト3にランキングされるポイントだ。
なんでそんなもん集計してるのか、というツッコミはこのさい置いといて。
(そそそそそそうよね、正樹だって男の子だし。興味だってあるわよね。正樹とはまだ……ゴニョゴニョ……だし)
思いっきりうろたえる綺だったが、その手はベットの下の物体をむんずとつかんでいた。
(でも、私というものがありながら、こーゆーのに手をだすのは……どうなのかしら?)
さっきまでの嬉しそうな笑顔はどこへやら。
目がマジだった。
このままでは青少年に絶大な効力を発揮する精神攻撃、『隠してあったえっち本を机の上に整理して置いておく』
を実行しかねない勢いだ。
やってしまえば正樹は二度と立ち直れず、廃人になってしまうかもれない。
それでも、私は!!
ぐいっ
「……って、あれ?」
出てきたのはマンガ本だった。表紙には一組の男女が描かれているが、服着てるし。
ぱらぱらとめくってみる。
やっぱり服着てる。
「あは、あはははははははは……」
そうよね。正樹がエッチ本なんて隠してあるわけないよね。
そう言えば、前に電話で寝る前に読んでた本が無くなったとか言ってたっけ。
そうそう、それそれ。
「正樹ってこんなの読んでるんだ。……えーと、シャドウ……」
お腹をすかせた霧間さんは、綺の帰りを待っていた。
綺がなんでもやってくれるので、最近ちょっとぐーたら気味。つい最近も「その皮下脂肪は冬眠の準備か?」とか余計なことを言った健太郎を血の海に沈めたばかりだった。
「しかし、いくらなんでも遅くないか?」
そろそろ自分で料理を作ろうかと凪が立ち上がった時、玄関ががちゃり、と開く音がした。
「よぉ綺、遅かったな。今俺が……?」
綺を迎えた凪の言葉が途中で止まった。
ゆらぁり、と部屋に入ってきた綺の目が決意に燃えていたから。
なんだか無駄に。
そして、その胸には大事そうに抱えられた一冊の本。
「凪……」
「な、なんだ?」
綺が持っていた本をぎゅっと握る。
「凪って、好きな人いるんですか?」
「……は?なんだいきなり……いや、特に生きてる奴じゃいないけど」
「だから正樹に強くなって欲しいんですか?」
「え?会話が噛み合ってないんだけど、綺?」
「でも血は通ってない!!! 本当の『弟』じゃないっ!!!」
ばばーんっ
「ぅぉーぃ、ぁゃー?」
凪そっちのけで一人大盛り上がりの綺。
「ずっと、ずっと気になってたけど……言えなかった!!!言っちゃいけないって分かってるケド……それでも、もう抑えられないもの!!!私……」
綺の頬を伝う一筋の涙。
「どうしようもない程、正樹が好きなの」
「……」
二人の間を一陣の風が吹き抜ける。
どこから吹いてきたのかはないしょ。
「だから、教えてほしいんです。凪にとって正樹は唯の弟なの? ……それとも好きになれちゃう立場にいる男の子なの!?」
「俺が……正樹のことを……」
そう言った凪の顔は、笑っていた。
綺は直感する。これが正樹や健太郎が何より恐れている、凪の『コロス笑ミ』なのだと。
自分が、やりすぎてしまったのだと。
「あーやっ」
猫撫で声というやつだろうか。取っ捕まえて三味線にするつもりだ。
思わず一歩後ろに下がる綺の数倍上をいくスピードで近づいてきた凪は、その両の拳を綺のこめかみに当てた。
「そんなうすらぼけた事を考えるのは、この頭かな?」キリマ流交殺法表技『うめぼし』
えぐれるほど痛い。ぐりぐりぐりぐり
「いーたーいーやーめーてー」
「んー?他に言うことがあるんじゃないのかな?」
ぐりっ
「あうーっ、ごーめーんーなーさーいー」
凪の拳がはなれた。綺は立っていられなくなり、両手でこめかみを抑えてその場に崩れ落ちた。
「うー」
痛みの余韻に苦しむ綺に苦笑しつつ、凪はキッチンへ向かった。
「まったく、変に勘ぐらなくても正樹はお前のもんだよ。今日は俺が夕飯作るから、そこでうめいてろ」
キッチンへ消える前に一度だけ振りかえった。
「今度やったら、マジで殺すからなっ?」
その時の凪の微笑みは、綺が見たなかでもっとも艶やかで美しかったと、その日の彼女の日記に記してあった。