君と星空を
かすかに震える肩をそっと抱き寄せる。
はっとして、藤花が俺を見上げた。
その目が潤んでいるのは、恐いからでも、悲しいからでもない。
根拠のないそんな自信を胸に、俺はそっと彼女と唇を重ねた。
力無く拒絶していた彼女の腕は、やがてためらいがちに俺を抱擁する。
潤んだ瞳。潤んだ唇。潤んだ息遣い。
そのどれもがいとおしくて、俺は彼女が壊れるほど抱き締めた。 そう、いっそこのまま壊れてしまえばいい。そうすれば、藤花は俺だけのものになる。
「少し苦しいな、竹田君」
「は?」
黒いルージュをした藤花は、笑っているようなからかっているような、いわく言いがたい左右非対照の表情をして……
「うーわーっ」
がばっとベットからはね起きて、啓司は目の前の空間を両手でわしゃわしゃとかき混ぜる。
はっと、そこで目が覚めた。
ぜぇぜぇ、と息を切らし、Tシャツは汗でべとべと。
まったく、フルマラソンを走り切った後でももう少し余裕があるのではないかという消耗ぶりだ。
物凄い夢を見てしまった。
急速になくなっていく夢の記憶の中からブギーポップのあの表情だけが取り残されて、鮮明に脳裏に焼付く。
もっと楽しい場面はいっぱいあったのに。よりによってなんでそこかなぁ。
啓司は頭を抱えた。
しかし、そんなことをしても、どうこうなる問題ではない。
だいたい、あいつは男なのだ。たとえ体が女なのだとしても。
いや、心は男だとしても、体はやっぱり女の子だということか?
微妙で倒錯的な命題を十分ほど考えてから、啓司はふといつのまにか止めた目覚まし時計に目をやる。
それは、かなり危険な時刻を指していた。
「やばっ、遅刻する!」
実際のところ、進路が確定してしまった啓司のような人間にとって、いまさら遅刻しようが、特にどうと言うことでもないが、こんな馬鹿な事で皆勤彰を逃すのはいただけない(狙ってたんですか?)。
啓司は大慌てで着替えを済ますと、朝食もそこそこに、家を出た。
今朝の夢が夢なので、今日は行くかどうか迷ったが、結局今日もあいつの所に行くことにした。教室の中でも孤立しがちな啓司にとって、今のところあいつだけが気軽に話せる友達だった。
放課後の屋上。黄昏時の太陽を背にうけて、今日もブギーポップはそこにたたずんでいる。
「やぁ、今日も来たね」
筒のようなマントの隙間からかるく手を挙げて、ブギーポップはゆっくりと啓司の方へ歩いていく。とりあえず、歓迎はしているのだろうが、あまり表情というもんがないので、真意はつかみかねる。
「よう」啓司も軽く手を挙げて、それに応えた。
そして、二人してフェンスに寄り掛かりながら、だらだらと取り留めの無い会話をする。
何の意味も無いけれど、それはとても大切な時間だった。普段のブギーポップ、というものを啓司は知らなかったが(そんなものがあるのかも怪しいものだが)、とにかく、啓司の前では彼は良く話をする。啓司の質問にブギーポップが答えるか、ブギーポップがかってに訳のわからないことを啓司に吹き込むか、二人の会話はそのどちらかだった。
「お前さぁ、世界の敵と戦ってるって言ってたけど、そんな女の子の体で大丈夫なのか?」
「別に全部が全部戦闘でカタを付けなければいけない訳ではないよ。それに、いざという時は借り物の強みで人間が無意識に抑えている力を使うことが出来るからね。やろうと思えば、普通の人間など問題にならない力を出すことが出来る」
「それって、藤花の体がやばいんじゃ……」
「うん、そうだな。だから普段は力を使わないようにしている。僕が警官を投げ飛ばす所を見たろ?相手の力を利用するのさ。合気道とか、柔術みたいなものだな」
「へぇ、少しは藤花の体のこと気遣ってるんだ」
「少しでも長く使うためには、大切に扱わないとね」
「……へ?」
ブギーポップがぼそっと言った言葉はよく聞き取れなかったが、それはとても恐いことのように思えたので、深くは追求しなかった。
「そうだ、俺にも少し教えてくれないかな? そーゆーの」
「生兵法は怪我のもとだぜ」
「いいからいいから」
そう言ってブギーポップの後ろに回り込む。
「TVでよくやってるだろ。痴漢に襲われた時の対処法とか」
「……それを君が覚えてどうするんだ?」
啓司はまぁまぁ、と言いながら、ブギーポップを後ろから抱き締める。
本当は合気道だの柔術などは、口実に過ぎない。確かめたいことがあったのだ。実際にブギーポップを抱き締めて、自分がどう思うか?
まさか、どきどきすることなど無いだろうが、万が一、ということもある。
あ、意外と華奢だ。
そりゃそうか、藤花なんだから。
う、この柔らかい感触は……。
ああ、心は男でもやっぱり女の子なのだ。って、そっちの結論に達したらまずいではないか。
啓司のそんな葛藤を知ってか知らずか、ブギーポップは仕方無い、といった様子で説明を始める。
「こういう場合、腕を水平に上げながら、体を落とすと簡単に逃げられる」
(いかんいかん、そうじゃないだろう)
「で、上体が崩れた相手の手をとって……」
(そんなことを考えてたらブギーポップにも悪いじゃないか)
「投げる」
「あれ?」
気がつけば啓司は宙を舞っていた。
目が覚めるともうすっかり夜になっていた。
痛む頭をさすりながら目線を上に向けると、そこに藤花の笑顔があった。
「あ、やっと目が覚めましたか?」
頭の下には柔らかい感触。
藤花が膝枕をしてくれていた。
「先輩ったらこのまま寝ちゃうんだもん。末真にい頼んでアリバイ作ってもらいますけど、とりあえず学校から出してくださいね。先輩」
「ああ、そうだな。ごめん」
記憶が書き替えられているのだろう。深く追求するのは藤花にもブギーポップにも悪い気がしたので、そのまま流すことにする。
「あ、そうだ。これ、友達から預かってたんです。先輩にって」
そう言って藤花はポケットから小さな紙切れを取り出した。
「失礼しちゃいますよね。よりにもよって私に渡さなくてもいいのに」
口ではそう言っているがあまり怒ってないらしい。
「へぇ、どんな人?」
「とってもかわいい人ですよ。それと、とってもかっこいいんです」
そう言って藤花はいたずらっぽく笑う。
そっと紙を開いてみる。
そこにはただ一言、『君と星空を』とだけ書かれていた。
星の明かりにうっすらと浮かび上がるその字に見覚えはなかったが、啓司の頭には、黄昏時にしか出てこれないあいつの、左右非対照の表情が浮かんだ。
その紙を丁寧に折り畳んで、ポケットにしまう。見上げれば、満天の星空が二人を見下ろしていた。
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