……夜は一層その深さを増し、人から視覚を奪っていく。ちがうもの
天に星は無く、月も無く。唯々人の造り上げた人工の灯火だけが二人を照らしている。
こんなに寒い夜だというのに。
二人で寄り添わなければ耐えられない夜だというのに。
なぜ、二人の距離はこんなにも離れているのだろう?いつから気付いていたのだろう?
自問しても答は出てきそうになかった。
ひょっとしたら最初に出会ったあの時からもう気付いていたのかもしれないし、本当は今でも何もわかっていないのかもしれない。
現に私は直也の口から否定の言葉が出るのを待ち望んでいる。
「……それが君の『能力』?」
だが、直也の口から出たのはそんな言葉だった。
なぜだか、この暗闇の中で彼が笑ったのがはっきりとわかった。
私の顔も彼に見えているのだろうか。
私は力が抜けて倒れそうになるのを必死で堪えた。ここで膝をついたら負けだ。
誰に?
そう、自分に。
「そうよ。自分のことが必要無いと思っているものを、この世界から消失させてしまう力。自分の意志で使ったのは今日が初めてだけど」
戦いが始まった。
誰との?
自分とのだ!世界に風は無く、音も無く。
二人の間を流れる会話に想いは無く。
だが、それでも世界はここに在るのだ。
夢でも幻でもない、現実の世界。
そこに生きて居るのだ。「初めて?」
「そう、初めて。最初に使ってしまったのはいつだったかしら? ……小さい頃、飼っていた犬が事故にあったの。必死で看病したけど、もう手遅れだった。その犬が目の前で消えてしまった時、私にはそれがどんなことかわからなかった」
膝が震える。
寒さ?
怒り?
恐れ?
どれだろう?自分でもわからない。
「自分の力がどんなものか気付いたのは中学生の時。クラスの男の子が飛び降り自殺をしたの」
あまり思い出したくない過去だった。
だが、あの時の男の子の表情は今でもはっきり思い出せる。
「みんなで一生懸命止めたんだけど、私たちの目の前でその子は飛び降りた。その時に感じたの。『力の流れ』を」
高揚感と呼ぶにはあまりに冷たく鋭い高鳴り。
「消えてしまったわ。今の彼みたいに服だけ残して」
警察の懸命の捜査にもかかわらず、遺体はとうとう見つからなかった。
当たり前だ。彼は死ぬ前にこの世界から消えてしまったのだから。
「やはり君は『違う』。僕が惹かれる訳だ」
そう言って直也はその笑みを深めた。意味とは何だろう?
絶対に必要なものなのだろうか?
意味の無いものは無価値なのだろうか?
意味の有無を誰が決めるのだろうか?
君の生きる意味を、誰が決めた?「世界は同じもので溢れかえっている。そうは思わないか?」
直也は唐突にそんなことを口にした。その意味を理解できずにいる私の沈黙をどうとったのか、直也は言葉を続けた。
「世界中にいる人間のどこがどう『違う』?みんな同じだ。気持ち悪いくらいにね。人類皆平等とか、そういう事を言ってるんじゃない。生きる意味も死ぬ意味もない、どうでもいい人間ばかりだ」
そんな世界を変えたかった。直也はそう言った。
……世界を、変える?
「そう、世界を変えるんだ。すべてが、ほかのすべてと『違う』世界。すべてに生きている意味がある世界だ」
その目は私の力では消すことのできない、自分の生きる意味を知っている人間の目だった。君と僕とはどこが違う?
君と僕と犬はどこが違う?
君と僕と犬と鳥はどこが違う?
君と僕と犬と鳥と、この世界はどこが違う?
この宇宙とは?
どこが違って、どこが同じなのだろう?「それが、あなたの『能力』?」
「そう。僕は『変える』ことができる」
「それが彼?」
「その通り。少々歪んでしまったけれどね」
二人の間に落ちている黒いマントを、彼が居たという唯一の証を、直也は興味なさげに見下ろした。
「少々?その歪みの為に何人死んだの?」
直也の笑いが苦笑に変わる。
「新しいことに犠牲はつきものさ。それに、君のような『違う』人間は生き残った。……結局、死んだ奴はいてもいなくてもいい奴だったんだ」
「……彼と同じような事を言うのね」
私がそう口にした途端、直也の表情が一変した。
「こいつと同じ!?冗談じゃ無い!こんな出来損ないと一緒にしないでくれ!」
直也のそんな顔は初めて見た。
辛かった。逃げ出したかった。この世界から消えたかった。
でも、負けられない。
自分はまだ、生きて居るのだから。死んでいないから生きてるのではない。
そんなものなら生きていることのなんと虚しいことか。
前に進むために生きているのだと。
たどり着くために生きているのだと。
自分を信じるために生きているのだと。
そう願わずにはいられない。「君も変わる必要があるみたいだね」
直也が私の方に近づいてくる。
私は、後ろに下がらない。負けない。
「あなたには無理だわ」
「何が?」
直也の歩みは止まらない。
「あなたは世界なんて変えられない」
「どうして?」
私は後ろに下がらない。
「私がいたから」
二人の距離は縮んでいく。
心は離れたままなのに。
「私はここで死んでしまうかも知れない。私でないものになってしまうかもしれない。でも」
でも、きっと。
私は直也の目をじっと見つめた。
私は直也に勝てなかった。
でも、負けない。
「いつか、あなたを止める人が現れる。世界はあなたが思うほど同じじゃ無いから」
「その通りだ」
その声に私も直也も驚いて辺りを見回した。
そして、見つけたのだ。暗闇の中にたたずむ影を。
夜を切り取ったかのような漆黒の帽子とマントに挟まれた顔は雪のように白く、その瞳は射るようにこちらをみつめている。
「お。お前は……」
「ぼくが誰なのか……、君達はもう知っているはずだ」
そこには今消えたはずの、今私が消したはずの。
ブギーポップが立っていた。