The Lost 夜が世界を覆い隠そうとしている。世界は急速にその彩りを失い、全てが闇の中に沈んでいく。
痛いほどの静寂。
今、この場を支配しているのはいったい何だろう?
怒り?
憎しみ?
ひょっとしたら哀れみなのかもしれない。
様々な負の感情に歪むブギーポップの顔を見ながら、奇妙なほど静かな気持ちでさやかはそう考えていた。
ゆっくりと一歩踏み出す。直也はなにも言わない。
「何でお前が……、お前たちがっ!」
ブギーポップが吠えた。だが、その足は一歩後ろに下がっている。
あいつの力ならば、私など一瞬で殺せるだろうに。
何があいつをこうしてしまったのだろう。もともと、恐怖から逃げることしか知らなかったのだろうに。
力を手に入れて、自らが恐怖となった今でも、あいつは恐怖に立ち向かうことを知らない。
だから。
ゆっくりともう一歩踏み出したさやかにびくり、と反応して、ブギーポップはもう一歩後ろに下がった。
「お前なんか、片手で殺せるんだ。お前みたいなムシケラは……!」
彼の言っていることは正しい。だが、その腕は彼の意に反してぴくりとも動かない。いや、彼の意に沿ってと言うべきか。
ブギーポップの後退が止まった。後ろを振り替えれば、そこにはがらんどうの空間が広がるばかり。
「ここから落ちても平気かどうか、試してみる?」
さやかが初めて口をひらいた。その声はブギーポップとは対象的にひどく落ち着いている。
「ひょっとしたら助かるかもしれないわよ?」
「だ、黙れっ!」
さやかがまた一歩踏み出す。
もう、二人の距離は縮まるばかりだ。
「来るな!」
もう一歩。
「殺すぞ!?」
もう一歩。
「お、お前は恐くないのか!?」
「あなたはね」
もう一歩。
「そ、そうだ。お前はみ、見逃してやってもいい」
「見逃さなくてもいいわよ。別に」
もう一歩。
「お前は……ひっ」
二人の距離はもう息のかかるほどだった。ブギーポップの足が半歩下がる。
「試してみる気になった?」
「黙れ!!」
思わず伸びた腕がさやかの胸ぐらを掴む。だが、その手には力がこもっていなかった。その手をそのままに、さやかはゆっくりとブギーポップを見据えた。
「あなたがここから逃げる方法がひとつだけあるわ」
その言葉に懐疑と不安、そしてほんの少しの希望を込めてさやかを見返すブギーポップ。
「この世界から消えることよ」
「嫌だぁっ」
さやかを押し退け、逃げだそうとしたブギーポップは数歩進んだ所で崩れ落ちた。腰がくだけてしまったのだ。
振り返りもせずにさやかが続ける。
「無駄よ。自分でもわかっているんでしょう?自分がこの世界に必要ないって。それに、今のあなたは心のどこかでこう思ってる。『この恐怖から逃げられるなら死んでもいい』ってね」
「助けて、助けてぇ」
手を前を伸ばし、命乞いをするブギーポップの顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「そう言って泣いている人を、あなたは何人殺したのかしら?」
さやかの手に力がこもった。
「消えなさい。心、体、魂……。あなたの全てと共に」
空気が凍った。そして、ブギーポップの表情がからっぽになる。
次の瞬間、ブギーポップの体が消えた。彼が見にまとっていた衣服がばさりと地面に落ちる。
なにかが弾ける幽かな音が聞こえた。
痛いほどの静寂。後には何も残らない。
ブギーポップは、……ブギーポップを名乗っていた少年は、この世界から消失した。
結局さやかは、あの少年の名前すら知らないままだった。
「さやか……」
「あの時」
ためらいがちにかけられた直也の声に、さやかは振り返らずに応えた。
「あの時、ブギーポップはあなたの顔を見たのかしら?」
「さやか?」
しばしの沈黙。
「『なぜお前たちがここにいる』……あいつはあなたを知っていた」
さやかの声が微妙に震える。
「あの時、あなたは誰を助けたのかしら?」……その時、私は泣いていたのかも知れない。