俺一人がどうなることかと気を揉んでいた夕飯も無事に終わり、一同は食休みの時間帯に突入していた。
どうせならこの時間を使って後片づけをしてしまいたいのだが、
「後片づけはわたしがします。今日は先輩にごちそうになっちゃいましたから」
と桜が言ったため、手を出せないことになってしまった。それを言うなら桜が作ってくれた時は俺が片づけをすることになるのだが、桜はそっちもたまにしかやらせてくれない。
とても助かるし、ありがたいのだが、刻一刻と台所の支配権を奪われていってるようで焦ってしまうのが玉に瑕だ。あんまりいつもやらせるのは申し訳ないし。
ともかく本日は食器の片づけもしないということで。
「悪いな、こんなもんしかなくて」
「お、花文楽の塩せんべいだ。コイツをこんなもの、なんて言ってるとバチが当たるよ衛宮」
人数分の緑茶と共に持ってきた茶菓子を目敏くチェックする美綴。本日の俺は茶坊主である。
こんなに大勢が、それも珍しいお客までいるんだったら、家主としてはもっとちゃんとしたお茶請けを出したかったところだ。しかし突然のことなので、どら焼きやたい焼きといった定番の江戸前屋のお茶請けは数が揃わなかったのである。仕方なくとっておきの干菓子を出すことにした。
食卓の上に塩せんべいを置くと、藤ねえが歓声をあげて飛びつく。このせんべいは藤ねえお気に入りの逸品だ。
「こら藤ねえ、お客さんが先だろ。あんまりがっつくな、みっともない」
「う……な、なによう。あんまり生徒の前で叱らないでよ士郎。わたしの威厳がなくなっちゃう」
威嚇でノドをぐるぐる鳴らす虎みたいな声をだして口ごもる藤ねえ。
「だったらちゃんと教師らしく礼儀正しくしろ。そうしたらみんなの前では教師として扱ってやる」
「ぐわあ、生徒がいると家でも羽を伸ばせないというのかーー!?」
それが普通の教師の姿だ。というかいい大人なんだから、もうちょっと遠慮ってものを覚えてほしい。
俺が藤ねえを牽制している間に、他のみんなはめいめい茶菓子を取り終えている。さすがにもう止めておく理由がないのでここまでにしておいた。
ようやくありつけた塩せんべいを満面の笑みでばりばりかじりながら、藤ねえが金髪の少女へと向き直る。
「で? アルトリアさんの剣舞ってそんなにすごいの?」
「すごいかどうか、私では判断が――」
答えに迷う少女の脇から、今日ずっと彼女の動きを見ていた美綴が口を出す。
「ええ、すごいですよ。あたしも思わず見惚れる、というか……目が離せなくなるというか……」
今度は美綴が言葉に詰まった。うん、なんとなく理由はわかる。俺をめった打ちにしていた彼女の動きは、華麗でありながら舞踊とは別の気迫に充ち満ちていた。具体的な言葉にすると殺気と言う。
藤ねえは小さく首をかしげて、
「ふーん……? まあ美綴さんにそこまで言わせるんだったら文化祭は大丈夫みたいね。
それにしても、イギリス人の金髪美少女は剣術がトクイっていう法律でもあるのかなあ。アルトリアさん、もしかしてスポーツ万能少女? 美綴さんみたいに武芸全般イケちゃったりする?」
「いえ。私は剣しか使えません。初めは単に体力作りのつもりだったのです。
実は将来、医者を志しているものですから。何時間にも及ぶ手術を行うには体力も必要、と聞き及び、スポーツを始めようと思ったのですが……思いの他、剣術は水が合っていたようです」
「え、お医者さんを目指してるんですか? じゃあ頭いいんですね、アルトリアさんって」
驚きながら言う桜に、少女は微苦笑を返した。
「そんなことはありません。私自身はそれほど勉学が得意ではないのです。目標に手が届くよう、苦心の毎日を送っています」
「そうなんですか? それじゃなんでお医者さんになりたい、って――」
「……………………」
?
少女が、ちらり、と少しだけこちらに目を向けた気がする。
しかしそう感じた次の瞬間には、すでにその視点は元に戻っていた。
彼女は一度目をとじて、また開く。
「っ…………!?」
現れた瞳に、思わず息をのんだ。
――――知っている。この瞳を。
「人は悲しんでいるより、笑っている方がずっといい。ならば人々を悲しみから救える事をしようと思いました。
単純ですが、私には医者ぐらいしか思い付かなかった。
だから医者を志しました。まだこの世界には、医者へかかれず苦しんでいる人々がたくさんいる。
できれば自分ではどうにもならないものに苦しめられている人を守りたいと思ったのです」
まっすぐに前を見て。けれどここではない、どこか別の場所を見ながら、少女は断言する。
これは誓い。誰かへ向けての宣言ではなく、ただ己の信念を自らに刻み込む。
衛宮邸の居間で高校生の雑談の中という威厳もへったくれもないシチュエーションだが、彼女の心だけは本物だった。ならば場所ごときで、その誓いが色褪せることなどあり得ない。
みんなに笑っていてほしい。尊い彼女の願いがしっかりとした口調から滲み出ている。
だから、これはまぎれもなく。
自分という、最もごまかしのきかない者を証人とした、目のさめるほど鮮やかな誓いだった。
「――――――――」
その表情に目を奪われる。
意志の強い瞳は、かつて見た遠い星の輝き。
あの鮮やかさに、いつかも見惚れた。真っ直ぐに前だけを見て、どんな困難にも屈せず進む。一度も振り返らず、立ち止まらず、走り続けたその瞳。
病気に苦しむ人を助けたいから医者になる。そんな動機で医者になるヤツは決していないわけじゃない。
しかしその志をこんなに力強く宣言することなど、他の誰にできようか。
誰かを守りたいのではなく、守る。約束された未来が彼女の瞳の中に見える気がする。
……ずっと、この目に焼き付いていた輝きが。
お前の心の奥に仕舞っているものをひっぱり出せといわんばかりの光となって、この胸に蘇る―――
「わあ。困ってる人を助けたいなんて、衛宮先輩みたいですね」
「そうだね。こいつも学園で困ってる人がいれば、どこへでも顔を出すお助け人間だった」
唐突に名前を出されて我にかえる。桜と美綴は人助けという単語から俺を連想したようだ。
皆の注目が少女から俺に移っている。六対の瞳に見つめられ、思わずたじろいだ。
「な……なんだよみんなして」
「うん、そうだよねー。士郎も人助けするのが大好きなのよね」
はあ、とためいきを吐きながらぼやく藤ねえ。その顔が悩みの色になっていることが不思議なのだろう、美綴が疑問符を浮かべた。
俺の人助けが度を越していることに、藤ねえは気づいていて美綴は気づいていない。その差からくる齟齬。以前から藤ねえはこのことに関して心配だと言い続けている。
そりゃ俺だってこの在り方が歪んでいるのには気づいている。かつて彼女にも言われたものだ。自分を代価にするのではなく、自分の命を勘定に入れず他人を助けようとするのは大馬鹿者だ、と。
けれど――――
「……誰かを助けたいと思うのは間違いじゃないだろ」
この在り方は、もう変えられない。
あの日、たった一人だけ助けられた。その時からすでに決まっていたことだ。
たとえその道程で。
一人ぼっちで斃れ、朽ち果てたとしても。
「まあ俺なんかは医者になる頭もないから、せいぜい体張るぐらいしかできないけど」
「……いいえ」
やんわりと横から否定する声。見れば、少女の聖緑の瞳が俺を見つめていた。
金髪の少女は優しく微笑み、胸にそっと指を添え、
「せいぜい、などと謙遜してはいけません。思っているだけでなく、その身で行動できること。それが何より大切なのです。
きっとシロウの願いは私などよりずっと大きい。その願いが大きければ大きいほど困難も大きいでしょう。
しかしシロウならばきっとできる。私はそう信じています」
一点の曇りもなく断言する。なぜかはわからないが、俺の理想は彼女の中で絶対の信頼を勝ち得ているようだった。
厳かに、粛々と。告げる少女の声は、まるで天からの託宣にも似て。
彼女にそう言われると、本当にできると信じられるような、不思議な気分になってくる。
少女は俺を見つめ続ける。柔らかく笑んだ表情にどうしようもなく見とれた。
貴方を信じている、と。
言葉ではなく表情で、彼女は語りかけてくる。
真摯で、慈愛に満ちたその表情は。
告白でもされているんじゃないかと思えるほどひたすら一途で――――
「っっっ――――――――」
カア、と顔が急速に沸騰する。そんなにたいした意味じゃないだろう、と心のどこかで囁く冷静な声がするのに、頭はちっとも言うことを聞いてくれやしなかった。
知るはずもない俺の理想を、無心に信じてくれる純粋な瞳。
そんな瞳に見つめられて何も思わないなんてあり得ない。
ああもう、こんな時にかぎって心臓の鼓動が痛いほどうるさい。少しは静まれ、喉から飛びでてくるだけじゃなく彼女に聞こえたらどうしてくれるんだ。
しかし心臓は逆にもっともっとと走りだしている。どうすればいいんだと頭が真っ白になってきたとき。
「そ、そうなんだ。じゃあアルトリア、医者になりたいならドイツ語とか勉強するのよね?」
遠坂が横から口を挟む。見ればその顔もわずかに赤い。
かろうじて周囲を見回す余裕ができると、桜や美綴なんかもどこか頬を染めているようだった。俺ならまだしも、なんでみんなまで?
金髪の少女も遠坂の方に目をやる。彼女の視線がそれてやっとこっちも金縛りがとけた。
「はい。カルテはドイツ語で書くのが基本ですから。しかしまだ学んだことはありません」
「だったらわたしが教えてあげましょうか。基礎くらいならレッスンしてあげられるわよ」
「本当ですか? それは助かります」
喜びの表情を見せる少女に対し、ずっと脇で黙っていたイリヤが口を尖らせた。
「えーっ、リンのドイツ語はホントにかじった程度じゃない。むしろリンが勉強しなおした方がいいわ。そんなんじゃご先祖さまに申し訳がたたないでしょ」
「なんですって!?」
「ふーんだ、ネイティブに勝てると思ってるの? ねえセイバー、リンなんかよりわたしの方が上手よ。面白そうだから教えてあげよっか」
遠坂の申し出は半分以上親切だが、イリヤはほとんど興味本位の申し出だ。途中で興味が逸れたら丸投げされる危険性がイリヤにはあるが、遠坂だとしっかり貸しにつけられそうな気がする。もし俺が言われたらどっちにすべきか相当悩むなこりゃ。
いつのまにか話は『どっちがドイツ語家庭教師にふさわしいか』遠坂VSイリヤで盛り上がっている。あかいあくまとしろいこあくまの熱戦はいつ見ても手に汗にぎるバトルだ。俺としてはこっちを見ていたほうがよほど心臓にはいい。
あんな顔をそう何度も見せられたら――――
チラリと、遠坂とイリヤの間にはさまれた少女を見る。困った顔で二人をとりなす彼女。
こうして見ると普通の女の子なのに、なんだったんだろうさっきのは。
また茹だりそうな顔をみんなに見せるわけにもいかない。やっかいな話は後で考えることにして、女魔術師同士の舌戦の観客に戻った。
やがて夜も更ける時間となり、最年長者である藤ねえの口からお開きが宣言されて。
客や客じゃないやつらが家に帰ってゆく。
こんな大人数で食事をしていても、この家に住んでいるのは俺一人。こうやってみんなを見送ることもまた衛宮邸の日常だ。
「じゃあね衛宮。今日はごちそうさま」
「大変おいしい食事でしたシロウ。お世話になりました」
新都にアパートを借りて一人暮らしをしているという少女は、同じく新都に家がある美綴と一緒に帰るそうだ。もうすでに外は夜の空気だが、一人で帰るのでなければ幾分安心だろう。
一緒に家を出るため玄関に来ていた藤ねえが、教師の顔で詰め寄ってくる。
「士郎。今日は美綴さんが一緒に帰るっていうからいいけど、ちゃんと明日っからはバス停までアルトリアさんを送ってあげなきゃダメよ」
「わかってるよ。女の子の一人歩きは危ないもんな」
たとえ俺より剣術が強くても、彼女はれっきとした女の子だ。今は竹刀も持ってないし。
……まあ剣道五段とはいえ藤ねえとて女性なのだが、どうにもこの人を守るべき女の子として見ろ、というのは難しい。子供の頃からの習慣ってなかなか抜けないな。
「ん、よろしい。じゃあ行こうか二人とも」
藤ねえにうながされ、二人も衛宮邸を後にする。彼女たちの後ろ姿が扉で遮られ。
………………。
………………。
……………………ふう。
なんだか急に肩の疲れがおそってきた。
どうやら自分でも気づかないうちに緊張していたらしい。無理もないとは思うのだが、これくらいで動揺するのはやっぱり修行不足かもしれない。
強張った肩をまわしつつ、居間に戻る。台所では桜が洗い物をしていた。
「悪いな、後片づけやらせちまって。今日は量多いだろ?」
「いえ。弓道場の合宿だともっとたくさん洗うんですから、これっくらいはお茶の子さいさいです」
頼もしい宣言をして、桜は洗い物を続けている。
――――さて。
俺は、俺の仕事をやらないと。
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