居間を横切って縁側に出る。
 名前も知らない夜の鳥が月明かりの中で鳴いている。
 そんな、切り取られた影絵のような世界と家との境界線である縁側に。
 遠坂はちょこんと座り込み、俺を待っていた。
「士郎。桜は?」
「今は洗い物してるよ。今日は人数が多かったから、あと十五分ぐらいかかるんじゃないか」
「そ。なら大丈夫ね」
 洋館街組である遠坂と桜は、これまた一緒に帰るということで話がついていた。桜が洗い物をしてくれているので、遠坂はそれが終わるのを待っているという形になる。
 実に自然な、空白の時間の作り方だった。
 たしかに夕飯の後、何度も連続で遠坂だけを家に残すのは不自然だ。藤ねえたちに余計な疑いを持たせてしまうかもしれないと言ったこいつの頭の回転にはいつも舌をまいてしまう。
 とはいえあまり時間はない。単刀直入に本題に入ろう。
「で。どう思った遠坂」
 率直に問いかける。主語のない言葉だが、遠坂には通じるだろう。もとより遠坂はその話し合いのために残ったのだから。
 鍛錬の時はほとんど俺が例の少女に接していたが、夕飯とその後の会話には遠坂も加わっていた。だから遠坂の目から見た彼女に関する推測が知りたかった。
「うぅん……」
 月明かりの下で悩ましげに遠坂はうなる。その姿は文句なしの美少女なのだが、しかし。
「……わかんないわ」
「おい」
 わずか十秒足らずで遠坂は、悩ましげな美少女の姿を放棄した。
「昨日と今日話してみて、なんだかセイバーっぽくないなって思うことはずいぶんあったの。
 穂群原の制服がカワイイとか、甘いものは大好きとか、世界史が得意で数学がニガテとか。話してみるとホントに普通の女の子なのよ。そりゃ日本とイギリスの違いはあるけど、どこからどう見ても現代人なのよね。もうちょっと時間があれば初恋の話とかも聞けたかもしれないし」
 ふふん、と楽しそうに遠坂は笑う。ああ、そういやこいつ、前にセイバーと恋愛関係の話ができたとき、それはそれは嬉しそうにもてあそんでいたっけ。慌てるネズミをいたぶるネコのような表情。
 くわばらくわばら、ぱくっといかれないよう気をつけなければ。
「あの学校や私生活の詳しさ、昨日今日現代に来たセイバーが装えるものじゃないわ。仮にセイバーに聖杯で得た知識が今も残ってるとしても、微分積分なんて言葉がアーサー王の口から出てくるとは思えないしね。
 それなのに、セイバーじゃないと断言するには、あんまりにも仕草が似すぎてる」
 遠坂もあの食事中の頷きを見たのだろう。いや、俺のフォローをしてくれたんだから見ていて当然か。
 遠坂は小さく首を横にふって、
「だからまたしてもお手上げよ、残念ながらね。……で、衛宮くんは? なにか気づいたこととかある?」
「ああ…………」
 今日一日のことを思い返してみる。
 剣舞の鍛錬のこと。食事の支度中のこと。夕飯の最中と、彼女が帰るまでのこと。
 その中で、あと遠坂が気づかなさそうなことといえば。
「…………道場で打ち合ってたとき、つい途中からセイバーのつもりでやっちまった」
 はああぁぁぁあ、と隣から大きな大きな重いためいき。
「なに? それであとちょっとでアルトリアをひっぱたきそうになったってわけ?」
「う゛…………」
 言ってくれるな。あれは完全に俺の失点で、女の子を打ちのめしそうになるなんて男失格なわけで、ああでも言いたいことはそうじゃない。
「剣の構え方がセイバーとまったく同じだったんだ」
「………………………………」
 遠坂が俺を鋭く見据える。俺も黙って彼女を見つめ返した。
 剣など握ったことはないだろうが、遠坂だって聖杯戦争を経験してきた人間だ。たとえばセイバーとアーチャーの構えがまったく違うことなど言うまでもなくわかっているはず。
 剣の構えは人によって異なってくる。剣を使った戦い方はそれこそ人の数だけパターンがあると言えて、たとえば体格とか身体能力とか師匠の教え方とか、そういったものが如実に影響してくるのだ。
 構えはその戦いの最も始めの部分。剣道のような構えの決まった武術と違い、彼女のそれは自己流、あるいは誰かに教わったものなのだろう。一目見ただけで、戦うための構えだとわかった。
 それが、セイバーと同じ。偶然と言うにはできすぎている。
 偶然とはたまたま起こるから偶然だ。何度も起こる事柄を偶然とは呼ばない。それはもう必然と呼ぶべきもので。
 とはいえ。
「…………。まあ、どちらにしてももう少し様子を見る必要はあるわよね」
 疲れた色の吐息を遠坂はもらす。彼女にしては慎重な意見だが、異論はなかった。
 ずいぶんと可能性は狭まっている。だが、まだ確証はないのだ。
「わたしもそんなに毎日こっちに来るのはおかしいし。明日からアルトリアの観察は衛宮くんにまかせてもいいかしら」
「ああ。そうしてもらえるとありがたい」
 あの子が本当にセイバーなのか、どうしてもこの目で見極めたかった。
「じゃ、わたしは別方面から攻めてみるわ」
「別方面?」
「状況証拠だけじゃない、れっきとした物的証拠をね」
 なんだかキナくさい響きだな。まあいくら名門の後継者とはいえ、この年で管理者セカンドオーナーを務める遠坂のことだ。俺ではわからない魔術的な手段を何か知っているのかもしれない。
「ありがとう、遠坂。世話かけるな」
「あら。衛宮くんがそんなこと言ってくれるなんてね。じゃあこれ、貸しにしてもいいの?」
 にんまり。
 たっぷりと含んだものをにじませて、というより見せ付けて、遠坂は底意地の悪い笑みを見せる。
 ―――ううっ。マズイ、ここで引いたら間違いなくつけこまれる。
 そうわかっていても、あの笑顔の裏に透けて見えるモノに見据えられて反論できない。なんだか頭からパクッと飲み込まれている感じ。さっき気をつけようと思った状況まで、すでに追い込まれている。というよりもこの件に関して、遠坂の協力抜きでの真相究明はかなり厳しい。彼女が等価交換を持ち出してきたら言うことを聞くしか方法はないのだが。
 蛇に睨まれたカエルとはこのことか。哀れな生贄と化した俺を、しかし遠坂は苦笑ひとつであっさりと解放した。
「バカね、冗談よ。わたしだってこのままほっとけないし。だったら役割分担して適材適所といきましょう。
 衛宮くんのほうがわたしよりセイバーのこと色々知ってるでしょ?」
「あ、ああ。まあな」
 たしかに俺の方がセイバーと接していた時間は長い。たった二週間の間ではあったが、それでも遠坂の知らないことをたくさん知ってると自負している。
 しかし、だからこそ迷う。
 食事のときの頷くクセ。ムキになって怒る生真面目さ。それらはセイバーとよく似ている。
 反面、俺の裸を見るだけで悲鳴を上げたり、あれだけの打ち込みで剣の勝負に負けかけたり、明らかにセイバーとは思えないところもある。
 あの少女は最初、俺や遠坂を上の名前で呼んだ。衛宮、遠坂、と。しかしセイバーは初めから下の名前で呼んでいた。それは別人であるという証のようでもあり。
 同じ日に、彼女は俺とセイバーしか知らない一言を使った。”シロウなら、解ってくれると思っていた”と。それはセイバーでしかありえない証のようでもある。
 そして。

『自分ではどうにもならないものに苦しめられている人を守りたいと思ったのです』

 今も残像が眼に焼きついている、彼女の輝き。
 あんな光を持つ人間はそうそういない。
 彼女の誓いは、正しいとか清いとかよりも、ただ尊かった。
 己が誓いに全身全霊をかけて臨む。彼女の表情にはそうと感じさせる力があった。
 ともすれば頑固で、強情で、融通が利かなくて。けれどとてつもなく一途で、真摯で、純粋で。
 誓いの内容というより、誓いを全うしようとする魂に目を奪われた。きっとこれから先、彼女がどんな誓いをたてようとも、それは一心に守られることだろう。彼女の高潔な誇りと共に。
 こんなに尊い魂の在り方をしているのは、きっと一人だけしかいない。
「……………………」
 そうだ。さらにあの後、彼女はなんと言ったのか。

『きっとシロウの願いは私などよりずっと大きい。その願いが大きければ大きいほど困難も大きいでしょう』

 まっすぐ俺を見つめ、迷わず言い切った。まるで俺の願いを、理想を知っているかのような口ぶりで。
 誰も悲しませない正義の味方になる。あの場で誰も口にしなかった衛宮士郎の理想。何も知らずに言える事だろうか。これからの先行きを見通しているとしか思えないあんな言葉を。
 まして、俺を知らずに――――


『シロウならばきっとできる。私はそう信じています』


「――――――――――――――――」
 一度は消えた火が再び顔にともる。ああくそっ、だから静まれってのに。
 あんなに綺麗な笑顔を見せられるだけでも十分反則だ。なのにああも心から信頼していると伝えられたら、どうしたらいいかわからなくなっちまう。あんな瞳に見つめられるのは照れるけど、ずっと見つめられていたいという矛盾した衝動。
「あらぁ? 衛宮くん、顔が真っ赤よ。なに想像してるのかしら?」
 隣からにまにまとした笑顔で遠坂が覗き込んでくる。ぐ、しまった、こいつがいたのを忘れてた。
「ううううるさい、いいだろなんだって」
「そうかしら? 士郎が気付けないけどわたしに気付けることだってあるかもしれないじゃない。ほら、とりあえず何を考えたのか言ってみなさいよ」
 遠坂に聞かせられることじゃないとわかっているはずなのに、執拗に迫ってくるあかいあくま。
 こいつに生半可なごまかしは通用しない。それでもやっぱり本当のことなんて言えるもんか。
 遠坂の顔を見る。あちらも退きそうにない。ならばてっていこうせんだ、と口をひらきかけて、
「遠坂先輩。わたし、洗い物終わりましたからそろそろ帰りますけど、遠坂先輩はいかがですか?」
 背後から桜の声を聞いていた。
 たった今まで満面に浮かべていたでびるスマイルをキレイに消し去り、遠坂は優等生の仮面をかぶる。
「そう。わたしもいつでも出られるわ。行きましょうか。
 それじゃ衛宮くん、今晩はごちそうさま。また明日ね」
 仮面と知っている俺ですら思わず固まるほどとびっきり華麗な笑顔を残して、遠坂は桜と玄関に向かう。
「………………。すでにあいつのは猫かぶりのレベルじゃない」
 きっとヤツの身体には魔術回路のスイッチの他に、もうひとつスイッチがついているに違いない。










 一人になると、急に風の冷たさが身にしみる。
 あの二人の背中を見送って、居間に戻ろうと一歩進んだとき。
「シロウってばいつまで待たせるのよ。もう帰ろうかと思っちゃったわ」
 ぷんすかと頬をふくらませ、廊下の角からイリヤが現れた。
「イリヤ? 藤ねえと一緒に帰ったんじゃなかったのか」
「あ、ひっどーい! セイバーのこと後で説明してくれるっていうから食事のとき引いてあげたのに!」
 イリヤは手をぶんぶんと振り回して怒っている。しまった、そうだったっけ。
 たしかにイリヤはセイバーの正体を知っている最後の人間だ。あの少女のことを教えないまま会わせるべきではなかった。
「ごめん、イリヤに教えるのすっかり忘れてた」
「反省してよねシロウ。わたしだけ仲間外れにしようだなんて許さないんだから」
「うん。そんなつもりはなかったけど、結果的にそうなっちまったな。ほんとにすまない」
 心をこめて謝罪する。イリヤはそれで気を良くしたのか、得意げな顔になって、
「わかればよろしい。突然だったからビックリしちゃったのよ。シロウにはぁ、しっかり埋め合わせしてもらわなきゃね」
「…………お手柔らかに」
 俺をやりこめたのが嬉しいらしく、楽しそうに笑うイリヤ。その顔に困惑や動揺はまったく見られない。驚いたと言ってはいるものの、イリヤは俺や遠坂みたいに混乱してはいないようである。
 そういえば。イリヤはずっと彼女を、ある名前で呼んでいた。
「――イリヤ――」
「ん? なにシロウ?」
「イリヤは……どう思う。あいつ、セイバーだと思うか?」
「ええ。だってセイバーだもの」
 こっちが拍子抜けするくらいあっさりと。
 夕焼けを見て、明日の天気が晴れだというかのような気軽さで、イリヤは俺たちが悩んでいる問題に答えを出してきた。
「それより説明してよ。なんでセイバーがこんなとこにいるの?」
「あ、ああ。じつはだな――――」
 彼女がうちの学校に来た留学生であること、弓道部の助っ人として剣舞をしてくれること、俺も一緒に剣舞へ参加するので稽古のために訪れたことを話していく。イリヤはいちいちあいづちをうちながら大人しく聞いていた。
「そんなわけで、もうしばらくうちへ来ることになると思う。文化祭までは稽古しなきゃいけないんだ」
「ふーん、そうだったんだ」
 特に感想をもらすでもなく、それで話を切り上げるイリヤ。ずいぶんあっけらかんとしてるな、彼女のことで疑問とかないのだろうか。
「そうだったんだ、って……それでいいのかイリヤ?」
「いいわ。経過が気になっただけだもの。どうせ結果は変わらないんでしょ」
 そりゃそうなんだけど。
 イリヤはあっというまに踵をかえし、玄関へ向かおうと縁側を後にする。
 と、あと数歩のところで振り返り、……なんか睨んでないか?
「思い出したわ。やっぱりちょっとだけ良くないかも。もしかしてセイバーとシロウがよりを戻して、またシロウを取られるかもしれないし」
「なっ…………!」
 ちょい待ち、話が飛躍しすぎだイリヤ!
「ま、イリヤ、それは違う、だって俺は、いやあいつは、その」
 彼女はあたふたと狼狽する俺をじろりと無言のまま睨め付ける。これはこれで遠坂とはちがった迫力がある。
 思わず言葉をのみこんでしまうと、イリヤはふいに表情を笑みの形に崩した。
「うふふ。でも戻ってきてくれて嬉しいのは本当よ。わたしもセイバーのコト好きだから」
 無邪気なだけじゃない。心の底から喜んでいる、とびっきりのイリヤの笑顔。
 イリヤは本当に、あの少女の存在を嬉しく感じている。
「じゃあねシロウ。おやすみなさい」
 それだけ言うと、イリヤはさっさと玄関に向かっていった。見送りはいらないのだろう、俺が行くのを待たず扉を開けて出て行く気配がする。
 これで本当に一人きり。
 その静寂の中で、イリヤの言葉が耳に蘇る。
 わたしもセイバーのコト好きだから。彼女はそう言っていた。
 どういうわけか。
 イリヤは、あの少女がセイバーであると信じ込んでいるらしい。
「……それにしたって、俺が取られるって……」
 あの子がセイバーだったら、たしかにそういう形になるのだろう。別にイリヤを粗雑に扱うつもりはないが、俺は今でもセイバーのことが好きで、そっちに時間をとられるのはきっとイリヤにとって面白くないことに違いない。
 けれど、あの子がセイバーとは無関係でも、イリヤはそう言うのだろうか。
 俺が彼女に取られるって――――

『シロウならばきっとできる。私はそう信じています』

「っっ――――――――」
 …………重症だ。
 さっきの笑顔を見たとき、俺の体にももうひとつスイッチができてしまったんじゃないだろうか。あの笑顔を思い出すだけで、顔に異様な熱が集まってしまう。
 ああくそっ、今はそんな場合じゃないっていうのにっ。
 まずは彼女がセイバーかどうかを調べるのが先で。とにもかくにもそれが最初で。他のことはみんな後回しで。
 ちゃんとわかってる。わかってるんだ。
 ――――だけど。
「………………………………」
 心臓が飛び出してきそうな錯覚を覚え、とっさに口を手でおさえる。
 あの子とセイバーの関係を調べるのが最優先。それが判明するまでほかのことは置いておかなくちゃならない。
 でもそんな理屈をすべてふっとばしてしまうくらい、あの笑顔は。
 とんでもなくきれいで、やたらに緊張して、動けないくらい頭の中がぐちゃぐちゃになって、でもずっと見ていたいほど嬉しくなる笑顔だった。




次へ
前へ
戻る