昼のチャイムが鳴り響くと共に、学校全体が騒がしさを増す。
 ついさっきまで授業という枠の中へ閉じ込められていた生徒たちのパワーが爆発するのが昼休みという時間だ。
 とはいったものの、俗に腹が減っては戦はできぬとも言う。つまり昼休み最大の目的は腹ごしらえをすることなのであって。
 俺も含めた多くの生徒たちが、昼食を確保したり食べる場所を探したりするために移動を始めていた。
「お、衛宮、今日は購買か?」
「ああ。弁当用意してないからな」
「なんだよー。俺たちの貴重なカロリーがー」
 ぶーぶーとクラスメートたちから上がる文句の声。勝手に俺の弁当から横取りすることを前提にされても困ってしまうのだが。他の誰よりまず俺が。
 不平不満をもらすクラスメートたちの声を背に、教室を出て購買に向かう。適当にパンでも買って屋上で食べようか。今日は一成も生徒会の仕事で詰めているはず。たまには一人さびしく昼食をとるのもいい。
 そんなわびしい昼食事情に思いをはせながら階段を下りかけたとき。

「おや、シロウ」

 ――――――っ!?
 名を呼ばれ、上を見た瞬間ぎょっとする。視線の先に見慣れた金髪碧眼の、いつか共に戦った少女を認め、意識が凍りついた。
 けれどすぐ思い出す。……ああ、そういえばそうだっけ。
「昼食ですか?」
「ああ。購買ですまそうと思って」
 少女に答えつつ階段をのぼっていく。同時に彼女の隣にいた人物も俺に気がついた。
「お、衛宮、ちょうどよかった。こっちこっち」
「どうした。美綴がいるってことは文化祭関係の話し合いか?」
 少女と何か話していたらしい美綴は、そう、と気の抜けた声で返事をする。
「衛宮にも聞いといてもらいたいのよね。劇の配役のことなんだけど」
 そう言って手に持っている紙の束を見せ付ける。金髪の少女と二人、最初の紙面をのぞきこんで、ふむふむとうなずいた。
 紙に書いてある俺と彼女の名前。その上には簡単な役名。カンタンなというか、これ以上わかりやすい役名もないな。
「つまり、私が味方の護衛役で、」
「俺が敵側のヤラレ役、ってことか」
「うん。んっと、それでセリフの方がええっと…………」
 ページをパラリとめくる美綴。手元を眺めていると、演劇の台本とおぼしきト書きやセリフの書かれた紙が流れてゆく。
「えー…………あったあった。アルトリアさんは、実典といっしょにあたしや間桐の護衛で……舞台の中盤、移動シーンから出番だね。そのすぐ後に衛宮とチャンバラやってもらって、終わった後にちょこっと出ておしまい、と。
 んで衛宮は、敵の護衛役だから…………」
「待った美綴。敵の護衛役ってなんだよ。この台本だと、敵は俺一人で出るみたいだぞ」
「あー、ごめん、そうだったそうだった。えーっと衛宮は、味方のヤラレ役で…………」
「味方じゃない、敵。まさか味方同士で打ち合うつもりか?」
「ああそっか、もう……ったく」
 美綴は苛立たしげにうなり、首をぶんぶんと振る。そのしぐさは何かを振り払おうとしているようにも見えた。
 さっきからどうも変だな。こいつは普段はきはきざっくりとした喋り方をするのに、今日はどこか反応が遅い。簡単な間違いも多いようだし、まさかこの状態は。
「美綴。もしかして眠いのか?」
「うぅ…………わかる? 昨日のうちに台本しあげておきたかったから徹夜でさ。午前中はなんとかなったんだけど、さすがにこの時間になると…………」
 ふああぁぁ、と大あくび。男勝りな美綴だが、こう見えて礼儀作法の類はきっちりしている。親のしつけか本人の性格か、ともかく人前であくびなんていう無様なまねをそうそう見せる人間ではないのだ。その美綴がこうも醜態をさらすあたり、今日は本当に眠いのだろう。
「平気か? 昼休みくらい寝たほうがいいんじゃないのか、また午後も授業あるんだから」
「んー……そうだね、でもおなかも減ったし…………。お昼を食べてから、少しだけなら…………」
 ぶつぶつと口の中で考えをまとめ始めた。それはいいが、なんだか漏れ聞こえる声は寝言のようで、危なっかしいことこの上ない。
「んー、でも衛宮に説明もしちゃいたいし……お昼も食べたいし……」
「じゃあ昼飯食いながら説明してくれ。その後寝ればいいだろ」
 助け船を出してやると、美綴は、
「おぉ、それ採用。じゃあ購買に行かなきゃね」
 さっき俺がのぼってきた階段を下り始めた。手の中の台本を丸めて振りかざす姿は、どっかの海賊の船長というか。彼女の背中が、ついてこれるか?とか語ってるような気がする。なんの錯覚だろう。
「ほら、衛宮もアルトリアさんも早く行くよ。とっとと行かないとマズいコッペパンしか残んないんだから、あの購買」
「な、まずいパンしか……!? それは一大事です、行きましょうシロウ!」
 危機感を覚えた少女が後に続く。もちろん異論はない。俺も最後尾について歩を進めた。
「あ、そういえば衛宮――――」
 前を行く美綴が、何かを言おうとこっちを向いた。
 その、勢いで。

「――――――っ!」

 息をのんだのは誰だったのか。
 グラリ、と美綴の体が大きくゆらぎ、そのまま後ろへ倒れてゆく。
 美綴の後ろには何もない。ぽっかりと下り階段が、彼女の体を飲み込もうと大きく口を開けているだけ――――!
「美綴――――!」
 必死に手をのばす。
 くそ、届かない…………!
「!?」
 視界を金色の影が走る。
 ほんの一秒あるかないかの時間の中、その光景はスローモーションのようにゆっくりと、鮮烈に目にやきついた。

 ズダァアァン!!

 周囲の生徒が何事かと振り向くほどの音をたて、落下した体は壁にたたきつけられた。
 硬直は一瞬。次の瞬間には頭で考えるより早く、足が階段を駆け下りる。否、考えている余裕などなかった。頭の中は今目の前に広がる光景でいっぱいだ。
 なんでこんなことに。なんで――――!
「大丈夫か!?」
 とても平気だとは思えないが、他に気のきいた言葉なんてあるもんか。
 倒れた二人・・は俺の声に反応して身じろぎをする。
「っう…………な、なんとか平気…………って、ア、アルトリアさん!!?」
 先に体を起こした美綴が、自分が下敷きにしている人間を見て悲鳴をあげた。
 金髪の少女は美綴と壁の間に挟まれる形で倒れている。
「っつ………………」
「だ、大丈夫!? しっかりしてよ、ねえ!?」
「…………大丈夫です。っ、それほど大事ではありません」
 俺が美綴を助けようとしたように、少女も手をのばしたのか。俺よりも美綴に近い位置にいた彼女は、落下する美綴に追いつくことには成功したものの、ふんばって止めるだけの余裕はなかったらしい。
 だからおそらく、自分の体をクッション代わりにして美綴の衝撃を和らげたのだ。
 慌てて美綴が体をどけると、少女もゆっくりと身を起こす。


 ――――刹那。
 いつかの光景がフラッシュバックした。


 一見大丈夫そうだが、階段から落ちて無傷なんて考えられない。目の前で起こった出来事が信じられなくて、つい声を荒らげた。
「ばかっ、何やってんだ!」
「む――馬鹿はないでしょう。私も受け身ぐらい心得ています。この程度で怪我をするほど貧弱な鍛え方はしていません」
 俺の言い分が気に入らないのか、顔をしかめて言い返す少女。たしかに言ってることは正しいのかもしんないが、だからってこいつは――!
「女の子が体張って守るなんてことしなくていいんだ!」
「な、それこそ馬鹿な! 今はああでもしなければそれこそ惨事になっていたではありませんか! それともシロウは彼女が怪我をしても良いと!?」
「そんなことは言ってない! ああもう、どうしてわかんないんだ!」
「わからないのはシロウの方だ! 私の何が間違っていたというのです!」
「っ、だからなあ…………!」
 言いたいことなんてひとつだけだ。
 問答無用で少女の脇とひざに手を差し入れ、全力で持ち上げる。
「きゃっ!?」
 まさか突然抱き上げられるなんて思ってなかったのだろう。小さくかわいらしい悲鳴がもれた。
 それがあまりにも女の子らしくて、心臓がドキドキするより先に怒りが増す。
「女の子が怪我なんてするなって言ってるんだ!
 ほら、保健室行くぞ。美綴、先に行ってるからな!」
 なぜかぽかんとしている美綴に声をかけ、そのまま階段を駆け下りる。一階の保健室に向かって、スピードを緩めずに走った。
「シ、シロウ! こんな格好は困ります、下ろしてください! 一人で歩けますから!」
 いくら走っているとはいえ、いや走っているからこそ、俺たちはより人目をひいている。そうでなくともこの格好はたしかに恥ずかしい。抱えている方だって大胆なことをしてる自覚はあるのだから、抱えられている方はなおさらだろう。
 それでも、どこにどんな怪我をしてるのかわからない彼女を歩かせるなんて、できるはずなかった。
「いいから黙ってろ。ちゃんと保健室で手当して、本当に平気だったら歩かせてやる」
「っ、横暴な……!」
「悪かったな。でも俺、こういうの嫌なんだ」
 目の前で人が怪我をするなんて耐えられない。まして今のは俺がもっと早く反応できていたら防げたかもしれなかった。美綴も彼女も落ちることなく、俺が掴まえてやれれば良かったんだ。
 自分の未熟さは十分承知しているつもりだが、それでもこうやって、目の前にいる誰かを助けられないのは嫌だ。それで誰かが傷つくのは嫌だ。さらに言うなら、そうして傷を負っておきながら平気だと言い張る彼女を見ているのが、たまらなく嫌だった。
 少女はまだ何事か文句を言っているようだったが、そんなものは無視する。わずかに暴れているのを無理やりおさえこんだ。
 足をとめずに真っ直ぐ保健室に駆け込む。しかし。
「あれ…………」
 保健室には誰もいなかった。どうやら養護教諭はどこかに出かけているらしい。
 いつ戻ってくるかわからないものを待ってもいられないし、救急箱を使わせてもらおう。これで応急処置ぐらいできるといいんだけど。
 少女を椅子に座らせ、机の上にいつも置いてある救急箱を近くに寄せた。
「それで、どこか痛いところは? 骨とか折れてるかもしれないから、正直に言うんだぞ」
「おおげさな。シロウ、いくらなんでも骨折を隠すほど私も物好きではありません。そこまで大きな怪我をしていたらあの時に言っています」
「――――む」
 わずかに怒った顔で頬をふくらませる少女。俺の取り越し苦労だと言われているようだ。しかし意地をはってケガを隠している可能性も否定できない。
「じゃあ今から調べてみるから、痛かったらちゃんと言えよ」
 ほっそりとした白い足を手にとり、足首を右へ左へ動かしてみる。注意深く顔を観察していたが、整った顔は歪むことがない。
 念のため両手両足ともにやってみたが反応は同じだ。どうも本当に平気な様子。
「ほら、大したことはないと言ったでしょう。強いて言えば壁に押しつけられた衝撃で苦しかったのと、手の甲をすこし擦りむいた程度です」
 それも時間が経っているから、内臓の苦しさも今は皆無だという。
 ――――どうやら今回は俺の考えすぎだったようだ。ちょっとみっともないとは思うが、それ以上に彼女が無事だったという安堵の方が大きい。
「そっか。良かった。じゃあ手だけでも手当を…………」
 とバンソウコウを取り出した時点で、ようやく気づいた。
 手にした彼女の腕はしなやかで、まさしく女の子という印象を与える。
 まだ知り合って数日もたっていない女の子の腕を、その――――男の俺が持つというのはいかがなものかと、とか――――
 そこまで思い至り、慌てて手をはなす。
「あー……………………。
 …………自分でやるか?」
 顔が熱い。落ち着いた頭は正確に状況を判断し、それゆえに恥ずかしさが一気に襲ってきた。
 というかさっきから抱き上げて走り回ったり手首足首をぐりぐりと回したり、さんざん彼女の体に触れてしまったのだが、緊急事態とそうでない時を一緒にするわけにはいかない。冷静になった今ではそうそうアタリマエのように彼女に触れることなどできなくなっていた。
 救急箱を押しやり、促してみる。と。
「……………………」
 少女はしばし思案し、
「…………。私をここまで連れてきたのはシロウだ。
 ならばシロウが責任をもって手当してください」
 わずかに頬をそめて、そう言った。
「あ――――う、うん…………」
 たしかに平気だという彼女を強引に抱きかかえてきたのは俺だったりするわけで。ならばこれは、まさにアタリマエの展開なんだが。
「…………………………………………」
 ごくり、とつばをのむ。
 ええい、何を緊張しているのかっ。これは手当なんだ。手当、手当。
 頭の中をその二文字だけにして、よけいな雑念が入りこまないようにする。できるかぎり、感情を殺して、救急箱の中から消毒液を持ち上げた。
 綿にふくませて傷口をそっとなでる。
「…………っ」
 びくん。
 少女の指が小さくはねる。傷にしみるのだろうか。
 おそるおそる手を握って固定し、もう一度綿でなでる。
 慣れたのか予想していたのか、今度は指は動かなかった。
「――――――――」
「――――――――」
 二人とも無言。俺は黙々と手を動かし、彼女はじっと俺の手元を見つめている。その視線に緊張して手が止まりそうになるが、なんとかぎくしゃくと手当を進める。
 にじんだ血と汚れを一緒に拭き取り、出しておいたバンソウコウをはりつけた。
「これでいい……と思う。うまくできたかよくわからないけど」
 自信のない声を出すと、少女は小さく苦笑した。
「大丈夫でしょう。手をすりむいた程度で、そう大した手当は必要ありません。これで十分すぎるくらいです」
「いや、何度も言うけど女の子なんだから。傷痕が残っちゃ大変だろ」
 男の俺ならつばでもつけておけばいいけど、女の子の体に傷が残るなんて不名誉きわまりないだろう。
 ところが彼女は、ますます苦笑を深くする。
「貴方はいつも女性に対して、そういう態度で接しているのですか?」
「――――――それは」


 もう一度、今度ははっきりと脳裏に蘇った。
 それはいつかの光景。

 俺を守って、バーサーカーの凶刃に倒れたセイバー。
 血にまみれた細い体。苦痛をにじませながら、それでも立ち上がる不屈の姿。
 見ちゃいられない。そのままじゃ死んじまう。俺なんかのために彼女が。
 だから一刻も早く、止めなきゃいけなくて、守らなきゃいけなくて――――


「……………………」
 言われるまでもない。
 たしかにこの反応は、少々いきすぎだった。過敏ともいえるぐらいのおおげさな反応。
 いくらなんでも有無をいわさず保健室まで運び込むなんて、普段なら俺だってやったりしない。
「…………だって、女の子は守るもんだろ」
 動揺が顔に出ないことを祈りながら、いつも思っていることを口にする。
 彼女は、仕方ないですねと呆れたように笑った。おそらく納得してくれたのだろう。
「――――――」
 そのまま無言で救急箱の片づけをする。じきに美綴も来るだろう。また使うことになるかもしれないから箱は閉めないでおいた。
 ただ、彼女から目をそらした後も。
 あの時、美綴をかばった少女が体を起こす時に思い出した光景。バーサーカーにやられ大怪我をしたセイバーの姿が、頭から離れなかった。




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