淡い月の光を浴びながら、二つの足音が夜の街にひっそり響き渡ってゆく。
たった今出たばかりのバスを見送り、俺と遠坂は洋館街へ向かって歩いていた。
「あー、楽しかった」
「ほんっとーに容赦ないな、遠坂……」
呆れた横目で見てみると、遠坂はくぷぷぷと笑いをこらえきれない様子で口元をおさえていた。彼女の脳裏では、まだ金髪の少女の悶える姿が鮮明に残っているのだろう。
結局あの後、遠坂はひたすら少女の足をさわりまくった。そのたびに彼女は足のしびれに悶え苦しみ、それがますます遠坂を調子づける。
最後なんかいじめられすぎて涙目になって怒ってたもんな。
『金輪際、シロウと凛の前で正座はしません!!』
――などと言われたら困るので、適当なところでとっておきの和菓子と夕食を引き合いに止めておいたが。
ちなみにプラスで、フルールのクレープをおごらされることになったのも、たぶんあの光景を守るためなら安いもんだろう。うん。
藤ねえやイリヤたちも含めてみんなで夕飯を食べ、哀れあくまの生贄となった少女もさっき見送ったバスで帰っていった。今度は遠坂を送るため、洋館街のてっぺんにある遠坂邸へと向かう。
ひたひたと響く足音はやっぱり二人分。そんなに遅い時間でもないが、道には他に誰もいない。頭上には半分に欠けた半月。秋の夜風がひんやりと身体を包み込む。
「まさかアルトリアがあんなに楽しいものを見せてくれるなんてね。あそこまで足がしびれても顔色ほとんど変えないあたり、あの子、ものすごく意地っ張りだわ」
「セイバーが普通に正座してたんで忘れてたよ。正座に慣れてないなら、そりゃ足もしびれるよな。そういや学校の弓道場でも正座してたけど」
「ああ、最初に剣舞の話を聞いた日ね。
もしかしたらすっごくしびれてたのかも。さわってみたかったわ。気付けなかったのがほんとに残念」
遠坂は笑いをこらえるのに必死だ。あんまりこらえすぎて肩を揺らしていたりする。
きっとあの活きのいい反応を思い出しているのだろう。まったく筋金入りのいじめっこだなこやつは。
これ以上彼女が遠坂の毒牙にかかるのはしのびない。しっかり釘をさしておこうと、遠坂の方を向き、
「――――あの時はもっと他に気になるものがあったから」
思いもよらず真剣な顔を目の当たりにして、言葉を失った。
「…………遠坂?」
「ねえ衛宮くん。アルトリアはなんであそこにいたんだと思う?」
いきなり質問を投げかけてくる遠坂。なんでって、そりゃ。
「桜が剣舞に誘ったんだろ。だから――――」
「じゃあ、なんで前日みたいに逃げなかったの? あの子、わたしたちの姿を見ても全然驚いてなかった。
前日は一目見ただけで逃げ出してたアルトリアが、よ」
「……………………」
――なんで、って。
…………そりゃ…………
「…………………………………………」
そんなもの――――なんにも思いつきやしなかった。
「――これはわたしの推測だけど。
もしかしてアルトリア、自分からわたしたちに近づいたんじゃないかしら」
「な、それこそまさかだ。あの前の日は俺たちから逃げ出したやつが、自分から近づいてくるなんて」
「ええ、そうね。でも考えれば考えるほど不自然なのよ。あの子の行動」
遠坂はわずかに眉根をよせる。
「わたしたちでさえアルトリアが弓道場にいたとき、あまりにも予想外だったから一瞬動きが止まったわ。でもアルトリアはあくまで普通の顔をしてた。今日みたいに顔色を変えないんじゃない、まったく動揺してる様子がなかったの。
そう。まるで…………」
口調はあくまで平坦なまま、なんの感情も交えずに話す遠坂。それはとても冷たい口調であり、そして、
「最初から、あの日わたしたちがあそこに現れると知ってたみたいに」
覆しようのない真実を述べる口調だった。
ほんの一瞬足が止まる。
けど、それは。
そんなにおかしなことなのだろうか。
「桜から聞いてたんなら、知っててもおかしくないんじゃないのか?」
「もちろん、桜だったら話してても不思議じゃない。あとは綾子ってセンもありね。三人でミーティングしてて、もう二人助っ人――わたしたちが来るからって話題になる。すごくありえることだと思うわ」
「だろ。なら、」
「でもね」
俺の言葉を途中で遮り、厳しい口調と目線で斬りつけてくる。
「もう一回聞くわよ。だったらどうして逃げなかったの?」
「……………………」
たしかに、再びそこへ行き着くのだろう。
俺たちが弓道場へ来ると知っていたのなら、おそらく彼女は最初から来ない。
俺たちが来ると知らなかったのなら、もっと驚くはず。
どちらでもないということは、すなわち。
「たぶんアルトリアはわたしたちが来ると知っていた。少なくともその予感はあった。
にもかかわらず、今度は逃げないで弓道場に来たんだわ」
「……………………」
反論は、できなかった。むしろ遠坂の言い分は正しいように思える。
――――言われてみれば。
彼女の行動でおかしなところに、たった今気づいた。
あの時は、自分のことでいっぱいいっぱいで気づけなかったけど。
「……あいつ、自分から俺のこと、剣舞の相手に指定してきた」
「そうね。それも不自然な行動のひとつだわ」
最初、剣舞は彼女一人でやるはずだったのだ。
そこに相手が欲しいと言ってきたのは彼女。
相手役として俺を指名したのも彼女。
美綴が申し出たとき、断ったのも――――
「……………………」
まさか、あれは。
今の状況――学年も違えば部活にも入ってない、ろくに接点もない俺たちへ近づく、という状況を作りたいためだったのか。
「……でも、たった一日前だぞ。あいつが俺たちから逃げ出したのは。
なのに今度は会ってもいいって、どういうことだ」
「さあ。もしものもしも、もしかしてだけど、桜か綾子が説得してくれたのかもしれないわねー。衛宮くんは悪いヒトじゃないって」
本気ではないのだろう。遠坂はどこか投げやりな口調でぼやく。
俺も同意見だ。最初の彼女の驚き方は、とてもその程度で態度を変えるものとは思えなかった。そもそも前日の彼女の逃亡劇を知らない桜や美綴では、俺たちのことを彼女に詳しく話したり、ましてやフォローする必要など全くないのだから。
「あの時の桜の紹介の仕方、とても事前に話してたとは思えなかったけど。桜も綾子も士郎をかなり買ってるし。アルトリアの剣舞の確認を貴方にまかせるつもりだったみたいだし。微に入り細に入り、一から十まで全部話したのかもしれないわ。
そう――――あの場で誰もわたしたちの名前を出してないのに、アルトリアがわたしたちの名前を呼べるほど、詳しくね」
「なっっ――――――!?」
ちょっと、待て。なんだ、それは。
「遠坂、今の――――!」
「気づかなかった? あの日、弓道場で会ってから、桜が間に入ってお互いの紹介をしてくれたわよね。
アルトリアのフルネームはそのとき聞いた。でもわたしと衛宮くんの名前は上の名前しか言ってなかったのよ」
「………………………………………………………………」
待て。それってもしかして。
思い出せ。あの時のこと。そう、たしかあのとき――――
――――えっと、衛宮先輩と遠坂先輩には、昨日お話しましたよね。
――――アルトリアさん。この二人はわたしと美綴先輩の知人で、衛宮先輩と遠坂先輩です。
桜が紹介してくれて、
――――よろしくお願いします。衛宮先輩、遠坂先輩。
あいつは上の名で俺たちを呼んだ。
それに強烈な違和感を感じ、おそらく遠坂も同じ思いだったのだろう。
――――わたしたちのことは、下の名前で呼んでもらえるかしら。
遠坂がそんな要求を出して。それに対し彼女は。
――――これでよろしいですか、凛、シロウ。
「あ……………………」
気の抜けた声がもれる。そうだ、俺たちが名乗ったり桜が紹介する前から、彼女はたしかに。
遠坂は大きく大きくためいきを吐いた。胸の中のもやもやを全部吐き出してしまいたいかのように。
「名前ぐらいだったら桜か綾子が話した可能性はもちろんある。けど、ついでに言えばアルトリアは、貴方の料理のことも知っていたわ」
「え……料理?」
「そうよ。衛宮くんがアルトリアと稽古をした最初の日、あの子がなんて言ったか覚えてる?」
「…………そんなの、さすがに」
「こう言ったの。『シロウの作る和食は初めてですから』って」
「それって……」
さすがにさっきの話の流れからすれば、遠坂の言いたいことはわかる。
「そりゃ日本人の作る料理だもの、和食だって思うのも当然よね。わたしたちだってアルトリアが何か料理をふるまってくれるって言ったら、イギリスの料理を連想するし。
ただ――――そういう時の外国人って、普通『日本料理』って言うと思わない?」
「――――――――」
日本の料理だから日本料理。たぶん俺たちがイギリスの料理をイギリス料理と呼ぶように、外国人が呼ぶときはそう呼ぶだろう。
和食、洋食というのは日本人の呼び方だ。日本っぽい料理を和食、ヨーロッパっぽい料理を洋食。日本の食卓で出てくる料理を区分けして、日本人は名前をつけている。
それを外国人が使うのは不自然だと。
「…………どうして」
言われたことを受け入れるのが精一杯で。
だから頭に浮かんだ疑問はひとつだけ。
「なんで、すぐに言ってくれなかったんだよ。遠坂」
「言うつもりなんてなかったわ。アルトリアがセイバーかどうかわかるまでは。へたに混乱させたり、士郎の見る目が曇ったりしても困るもの。
でも今日、貴方があんまり嬉しそうな顔でアルトリアにおかわりをすすめるから」
「へ??」
なんだそりゃ。なんで俺が彼女へおかわりをすすめると、遠坂が今の話をうちあける理由になるんだ??
「……同じなのよ。前のときと。
だからここでちゃんと、士郎にはアルトリアを疑ってほしくって」
「…………疑う?」
遠坂の言っていることはわけがわからない。
しかし冗談や気まぐれで言っているのではないのだろう。
その証拠に遠坂の顔はこれ以上ないぐらい真剣だった。
知らずつばを飲み込む自分を、どこか遠くから眺めている気がする。
「もう一度だけ言うわ。お願いだから覚えておいて。
――――あんまりのめりこみすぎると」
それは、
「後で後悔するかもしれないわよ」
懇願にも似た、いつかの忠告。
「…………………………………………」
声を出せない。何か言わなくては、と思うのに、のどから声が出てこなかった。
なんでそんなことを言うのか。疑えとはどういうことか。前とはいつで、何が同じなのか。
聞きたいことはいくつもあるのに、遠坂の目があんまりにも本気すぎて。これを聞いたら、何か決定的に悪いことを引っ張り出してしまう予感がして。
頭の中の疑問はなにひとつ表に出てこない。
「……じゃ。送ってくれてありがとう」
遠坂の言葉で、今まで忘れていた周囲の景色が目に入ってくる。
俺たちはいつのまにか、遠坂邸の門の前で立ち話をしていた。
「……………………」
ひたひたと。響く足音は一人分。他に誰もいない夜の街を、家に向けて一人歩いていた。
今夜はみんな早くも寝てしまったのか。影絵じみた静かな街の中を歩いていると、さっきの言葉が耳に蘇る。
”ちゃんと、士郎にはアルトリアを疑ってほしくって”
疑え、とはどういうことか。遠坂は彼女がセイバーかもしれない話をいくつも出してきた。彼女がセイバーかもしれないと思い出せ、というのだろうか。
今更だ。そんなこと、最初に彼女を見たときからずっと思ってきた。
セイバーが戻ってきてくれたんじゃないか。ずっとその想いを抱きながらあの少女を見てきた。それを確かめたかったし、そうだったら確証が欲しかった。
たとえ、それが。
可能性など1%にも満たない、都合の良い願いだとしても。
「……………………」
一人分の足音と、周囲の闇より少し色濃い影を引き連れて、夜の街を歩く。頭上からはあえかな半月の光。そこに重ねて、あの少女の面影を思い描いた。
セイバーに似た少女。セイバーと似た心や仕草。セイバーと似ていない身体能力や知識。
それを心地良いと思っている自分がいることに、少し驚く。
もちろんセイバーとの思い出を、俺の意志と関係なく引っ張りだされるのは少し苦しい。けれど思い出が苦しいものばかりのはずはない。
セイバーと過ごした二週間は、大変なことばかりだったけど。
たしかにかけがえのない大切な時間だったのだ。
それを思い出すのが、嫌なはずなんてない。
「………………………………」
――――もしも。
もしも、あの少女がセイバーではないとしたら。
それでも俺は、彼女とうまくやっていけるのだろうか。
「……それこそ今更だ。今までどおりやっていけばいいだけの話じゃないか」
浮かんだ疑問に自嘲する。それはまったく問題がない。
彼女がセイバーに似てるからじゃなく、いいヤツだからうまくつきあっていけるという自信がある。俺がセイバーのことを知らなくても、彼女と知り合っていればそれなりにいい友人になったろうと思う。
もしも今、彼女がセイバーではないというはっきりした証拠があったとする。そうしたら、彼女とは普通の高校生、アルトリア=ペンドラゴンとしてつきあっていけるだろう。これまでの奇妙な符合も全て偶然。予想通りの絶望は辛いけれど、それでもいつかセイバーに胸をはって会えるよう俺は生きていくし、セイバーとまったく別の話であの少女とは普通にやっていけるはずだ。
「――――でも、それは違う」
そんな思考は、ただの逃げ。
何もかも問題をなかったことにして、楽な方へ落ち着こうとする逃げだ。
”―――シロウなら、解ってくれると思っていた”
あんな緊張した面持ちであんなことを呟いた少女が、セイバーと無関係であるとは思えない。
本人かどうかはわからない。けれど全く無関係のはずもない。
でなければ、アーサー王物語を読もうとして、あんな反応を見せるはずがないのだ。
「……………………」
――――――もしも。
もしも、彼女がセイバーだとしても。
どうして、あんな反応を見せるのだろうか。
「……………………」
考えるだけでは答えなど出ない。けれど考えるほかにできることはない。
教えていないであろう俺たちのことを知っている彼女。俺を剣舞の相手に指定して近づいてきた彼女。俺たちの姿を見るなり逃げ出した彼女。
セイバーだったら、俺たちの名前だって覚えてる。和食の件だってそういう言葉を使っても不思議ではない。
でも今度は、どうして最初に逃げたのか、どうして何も言ってくれないのかという疑問が大きく立ちはだかって、そこから先へは進めなくなってしまう。俺にはセイバーが正体を明かしてくれない理由なんてひとつも思いつかない。
「…………。
お前、いったい誰なんだ」
届かない疑問が口をついて出た。
夜空を見上げ、もう一度あの少女の面影を思い描く。
黒い夜空にぽっかりと空いた白い半月。
半分に欠けた月は、本当に半身を失っているようにも見えた。
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