生徒たちの活気あふれる学校にも、静かな場所というのはあるもので。
 図書室。保健室。職員室――はたまに藤ねえがさわがしいので除外。あとは冬の屋上。
 それからここも、学園内で静かな場所のひとつに入るだろう。
 学校のはずれにある弓道場。放課後になれば部員もやってきて賑やかになるのだろうが、昼休みというこの時間帯は静かなものだった。なにせ裏は林という立地条件だから、用事がない人間以外そうそうここへは寄り付かない。たとえば昼飯の惣菜パン片手にやってきた俺みたいなヤツの他は。
 校舎から出て少し歩くと、白い壁と重厚感のある屋根がすぐ視界に入る。いつ見ても学園の施設にしては立派な弓道場だ。
 けれど同時に、その前で立ち尽くす一人の少女の姿も見つけてしまった。
「あれ?」
 うちの学園で唯一の金髪を持つ少女は、入り口でうろうろと所在なさげに立っている。ときおりそっと中を覗いてはすぐ離れ、そしてまたうろうろうろうろ。
 その姿があんまり挙動不審なんで、軽く声をかけてみた。
「おーい」
「――――!!」
 犬に吠えられたウサギみたいに、びくんっ! と身体を震わせる少女。
 かと思えば、
「…………おぉっ!?」
「シロウ、静かに……!」
 突然こっちに猛突進して、人の首ねっこおさえながら、小声で要求をつきつけてくる。
 な、なんなんだいきなり。
 見れば彼女は口にひとさしゆびを当て、黙ってなさいのポーズ。どうやら騒ぐのは都合が悪いらしい。こっちもそれに合わせて小声で問い返す。
「…………静かにって、なんでさ? 桜に呼ばれてきたんじゃないのか?」
 少なくとも俺はそうだ。文化祭の舞台の打ち合わせをするから、という理由で俺と彼女が呼ばれたはずだが。
 その質問で、彼女の眉間に深くしわが刻まれた。
「ええ、そうなのですが。ちょっとあちらは取り込んでいまして……」
「取り込んでる?」
 少女は目で弓道場を指す。さっきちらちら覗いていたことから合わせて、どうも中には誰かがいて何かをやってるらしい。
 物音をたてぬよう、抜き足差し足で弓道場へ忍び寄る。少女も俺が静かにしていることがわかると、同じく近づいてきた。
 こっそり中を覗くと四人の女の子たちが座って話をしている。
 あれは――――
 一人は桜。こっちに背中を向けているが間違いない。
 桜と向かい合う形で座っているのは、たしか弓道部の二年生たちだ。去年の終わり頃に中途入部してきたのを覚えている。
 部員たちの顔はどこか固く、少なくとも楽しくおしゃべりをしようという雰囲気じゃない。何かの相談事だろうか。
 と、そのうちの一人が手にしていた白い紙を床に置いた。
「――――ほら、ちゃんと退部届も書いてきたから。これでいいんだよね?」
 続けて他の二人も紙を差し出す。ここからでは細かい内容までは見えないが、『退』という決定的な文字が読み取れた。
 差し出された書類と言葉に息をのむ。同時に三人もの部員が退部の申請に来ているのか。
 桜は若干うつむきぎみで、
「そんな。まだ入って一年も経ってないじゃない。すぐに上達しなくてもあきらめないで、」
「アタシたち、そんなに弓道好きってわけじゃないんだもん」
「そうそう。朝練とか大変だし。放課後もあんまり遊ぶ時間ないし」
 引き留めようとする桜の言葉を遮り、部員たちは口々に言い募る。桜はそれに返す言葉を持たない。
 ここからでは表情は見えないが、彼女の肩がますます落ちたのがわかった。意気消沈しているのだろうか。ただ、力なく一言、
「…………じゃあ、どうして弓道部に入ったの?」
 部員たちは一瞬沈黙する。
 しかしそれも数秒に満たない。一人が少し低い声で答えた。
「……間桐先輩が誘ってくれたから。間桐先輩がいるんだったら面白いかなって」
「そう…………」
 桜の相づちはひどく乾いていた。肩はもう落ちきっていてこれ以上動かない。
 刹那の静寂が落ちる。その間、各々の胸に去来するのは何なのか。
「…………それじゃ、アタシたちはこれで」
 この言葉を辞去の挨拶として三人は席を立つ。桜は彼女たちが立ち上がっても、じっと座して動かない。
 マズい、このまま入り口に立ってると見つかるな。と思った瞬間、強く腕が引かれた。
 金髪の少女が無言で俺の腕を掴み、逃げようと訴えている。もちろん異論はない。
 彼女の勢いに逆らわず、その場を後にした。










「ふう――――間が悪いところに居合わせちゃったな」
 弓道場の裏の雑木林で大きく息を吐く。
 弓道部には何度も出入りしているが、まさかあんなシーンに出くわすとは思わなかった。
 一緒に逃げてきた少女は、心配そうに顔を歪めている。
「シロウ。桜は落ち込んでいたようです。放っておいて良いのでしょうか」
「うーん…………」
 もちろんなんとかしてやりたい。桜が落ち込むのも当然だ、一気に三人も退部するというのだから。
 とはいえコトは弓道部の問題だ。いくら現部長や元部長と親しいからって、部外者が口を出していい問題じゃない。
 それにさっきの子たちは桜がとりなしても考え直すそぶりすら見せなかった。今さら俺が説得したところで退部を取り消したりはしないだろう。
「とりあえず弓道場へはもうちょっと時間を置いて行こう。あと、夕飯は桜の好きなものを作る。
 それで少しは元気が出るといいんだけど」
「…………そうですね。歯がゆい方法ですが、おそらくそれが最善でしょう」
 さっきのシーンを覗き見ていたと言う事もできないし、仮に言ったところで簡単に慰める言葉なんか思いつかない。逆に桜に気を使わせて、元気ですと返されてしまっては本末転倒だ。消極的な方法だが、まずは遠回しに元気づけるしかない。
 少女は眉をひそめて難しい顔で、
「それにしても理解できません。先ほどの部員たちは桜がいたから弓道部に入ったと言った。にもかかわらず退部を希望するとは、何か桜に失望するような落ち度でもあったというのでしょうか」
「あー……いや、たぶん違う」
 さっきの部員たちは二年生だ。桜と同学年である。
 たぶん彼女たちの言う『間桐先輩』とは。
「…………桜には、俺と同い年の兄貴がいたんだ。さっきの間桐先輩っていうのは、その兄貴の方だと思う」
 ぴくり、と身体を震わせる少女。桜の兄の話など聞いたことがないので驚いているのか。
 それとも。多少なりとも、そいつを知っているからなのか。
「でもそいつ――慎二は、今年の二月に行方不明になっちまった。だからあの部員たちは弓道部に見切りをつけたんだろう」
 前に藤ねえがぼやいていた。最近、慎二の勧誘してきた部員たちが少しずつ抜け始めている、と。
 慎二の勧誘した部員たちの中にも、弓道部に入り弓道の楽しさに目覚めたヤツが多少はいるのだが、ほとんどの子たちは慎二といるのが楽しいという理由だけで弓道部に在籍していたらしい。慎二が行方不明になって――――正しくは聖杯戦争の犠牲者になってはや八ヶ月。それだけ経つと、慎二不在の弓道部にいる意味はないと、辞めていく女子部員の数がバカにならないそうだ。美綴も引き留めてはいるという話だが、なかなか説得には応じてくれないとか。
 そういう部員は練習も特に熱心ではないため、大会で代表になるようなうまい部員たちではない。いわば弓道部の屋台骨とも言うべき部員たちはそっくり残っている。しかし部員の数というのは、ある意味学内での発言権や部費にも関わってくる。頭の痛い問題だが、慎二に代わる男子アイドルでもいない限りそういった女子の流出は防げないだろう。
 ――と、そこまで考えてようやく気がついた。
 伏し目がちな金髪の少女の瞳がどうしてか、落ち着きなく揺れている。
「? どうした?」
「……桜は兄を失ったのですね。やはり彼女には大きな痛手なのでしょうか」
「そうだろうな。桜、慎二のことを大事に思ってたみたいだったし」
 慎二はずいぶんと桜に冷たく当たっていたが、桜はずっと慎二のことを気にかけていて、俺にも仲直りしてほしいとよく言っていた。ケンカしていたつもりはなかったが、こんなに桜が思ってくれているのに慎二はどこが気に入らないんだろうと憤慨したものだ。
 もちろんそんな兄がいなくなった直後、桜はずいぶん塞ぎこんでいた。一時期はまったく笑わなくなってしまったのだ。イリヤのおかげで立ち直ってくれたが、今も忘れたわけではないのだろう。ましてこんな事があれば余計に。
 少女の顔は、さっきの桜のように俯いている。その表情には暗い影が色濃い。
 彼女は関係ないはずの慎二の話を、俺以上に深刻に受け止めている様子だった。
「辛いでしょうね。何かを失うことはもちろんですが、それが理由で他の何かをも失うことは、悲しみをより深くさせる。
 桜は兄を失っただけでなく部活の仲間たちも失った。それぞれを個別に失うより、もっと失望が強いはずだ。桜は大丈夫でしょうか」
 桜の悲しみを悼んでぽつりぽつりと言葉を紡ぐ少女。
 しかしその瞳の中に、声の中に潜む痛みは、他人を思いやる同情や憐憫だけではない気がした。
 まるで、今この時も彼女自身が。
 同じ苦しみに、身を浸しているかのような。
「…………そうだな。たしかに辛いと思う。でもさ」
 そんな悲しそうな顔を見ているのは嫌だ。女の子は泣き顔より笑顔の方が絶対にいい。
 彼女の聖緑の瞳を曇らせる悲しみを、どうにか取り除いてやりたくて。
 慰めになるかはわからない。けれど自分の中にある、精一杯の思いを口にした。
「何かを失うことはたしかに悲しいけど、残るのは痛みだけじゃない。失ったものは、ちゃんと思い出を残してくれるんだ」
 桜は慎二をなくして悲しんでいる。俺だって友人がいなくなったのは悲しい。
 けれどこの胸には、アイツとバカなことをやって騒いだ思い出がある。
 初めて慎二が俺に声をかけた晩。
 一緒に無駄話をして時間を過ごした放課後。
 上級生を相手に二人で立ち向かったケンカ。
 どれもこれも、懐かしくて大切な思い出だ。今もこうやって覚えているし、これからもふとした瞬間に思い出すだろう。
 失った誰かを思い出すことはそれだけで悲しい。けれど失った悲しみだけではなく輝かしい思い出があるから、人は頑張って進んでいけるのだ。
 ――――そう。
 この金髪の少女を見るたび、俺がセイバーを思い出すように。
「…………」
 少女はじっと俺を見ている。彼女の瞳に苦しみの色はもうない。
 ただ、かすかに探るようなものがあるだけ。
「シロウにもそういう思い出があるのですね?」
「よくわかったな」
「なんとなく。そういう顔をしています」
 ほんのわずかに口元で笑む少女。気をとりなおしてくれたのだろうか。
 彼女が元気を取り戻してくれたのが嬉しくて、俺も少しすがすがしい気持ちになった。
「……そうだな。俺にも、俺を守ってくれる思い出がある」
 思い返すのは二人の顔。
 かつて何もかも燃やされた俺を、泣きながら見下ろしていた人の嬉しそうな笑顔。
 朝焼けの中で別れた、最期の最期に思いを伝えてくれたまっすぐな瞳。
 それは今でも鮮明に思い出すことができる。まるで網膜の奥底までその風景が焼き付いてしまったみたいに。
 きっと一生忘れない。この命が終わっても忘れることはないだろう。あの二つの風景だけは。
「いなくなっても、ずっと胸に残ってる。俺に目標をくれた親父と、目標へ走り続ける力をくれた俺の剣が。だから」
 もしも、この少女がセイバーなら。
 今も、おまえを忘れてはいないのだと。
「今の俺は、そんな二人がいてくれたから頑張れる。きっと目標に手が届くって信じられる」
 そう、わかってもらえるように。
 万感の思いをこめて、言葉を、心を伝える。
「……………………」
 少女は俺の言葉に何を感じ取ったのか、わずかにうつむいた。
 言われたことを飲み込むのに時間をかけていると感じたのは思い違いだろうか。
 やがて彼女は再び顔をあげて、

「――そうなのですか。シロウは今もその人たちのことを大切に思っているのですね」
 見せたのはとびっきりの笑顔。

「――――――っ!?」
「さあ、行きましょう。私たちは桜に呼ばれているのです。もういいかげん行かなくては」
「ちょっ、…………!」
 引き留める声が途中で止まる。少女は唖然とする俺を置いて、さっさと脇目もふらず弓道場へ行ってしまった。
 一人になった雑木林は、強い風が吹き抜けていやに肌寒い。
 あまりにも衝撃が大きすぎてしばらく動けなかった。
 去り際に見せた彼女の笑顔。
 それがなぜか、泣いているようにしか見えなかったことに強い焦燥を覚えながら。




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