「……………………」
 そのときの衝撃は、初めて彼女を見たときと同じくらいだったと断言できる。
 だってこんなことを聞かれるなんて、普通なら思いもしない。
「イリヤスフィールはいつも私をそう呼んでいますね。セイバー、と。
 なぜかと聞いてみても、セイバーはセイバーだとはぐらかすばかりで、答えようとしないのです。
 しかし今日、シロウも私をそのような人物として話していた。ならば貴方も、『セイバー』という言葉の意味を知っているのでしょう」
 聖緑の瞳が射抜く。真っ直ぐに、ただ透明な視線で。
「だから貴方に問いたい。『セイバー』というのは誰なのですか」
「………………………………」
 そう、聞かれても。
 まさかお前の事だ、などとは言えない。
 いや、そもそも―――
「…………。その前に聞くけど。
 本当に、お前は心当たりがないのか?」
「………………シロウ。質問に質問で答えるのは良くない」
 返ってきたのは、イエスともノーとも取れぬ答え。
 俺にまではぐらかされると思ったのか。それとも、答える気がないのか。
 少女は変わらず俺を見ている。静かに見据える瞳からは、何も読み取れない。
 ただ、真摯に答えを求める意思だけが伝わってくる。
 その瞳の前に嘘はつけなかった。
「…………俺の、好きだったヤツだよ」
「『だった』?」
「もう、いなくなっちまったんだ。
 あいつは、半年前の冬―――」
 思い出す。あの顔を。あの声を。あの魂を。
 そっくりなそれらを持つ、少女の前で。
 聖杯を求めて召喚に応じたセイバー。何も知らない俺をいきなり助けてくれて、マスターなんて自覚もなかった主を守るため傷だらけになって戦った少女。
 女の子だっていう自覚がなくて、平気な顔して男の俺と同室で寝るとか主張した。少しは男を頼ってくれてもいいのに、自分一人の力で勝とうとしていた。
 あんなにきれいなのに自分のことは全然わかってなくて、女じゃなくて騎士だなんて言い張って。でも俺から見ればどうしようもないほど女の子で。
 自分の生涯を国に捧げ、みんなを守ろうとした姿は尊く気高く。頑張ったやつは幸せになるべきなのに、彼女は自分が幸せになる権利なんてこれっぽっちも考えてなかった。俺が幸せになれと言ったら反感を抱いた。そんなセイバーに腹が立っていた。
 強くて凛々しい騎士王に憧れ、弱くて繊細な少女を守りたかった。
 そして、最期まで自分の誇りを貫き通す選択をしたセイバーを、本当に愛していた。

”シロウ”

 今でも思い出す。あの顔を、あの声を、あの魂を。
 彼女との出会いと別れの思い出だけは、きっと地獄に落ちても忘れない。
 幸せにしたくて、でも一緒にいるより、もっと大切なことがあって。
 だから俺たちは――――
「…………セイバーは、死んだよ。自分の人生に納得して」
 そう、きっとそうなのだろう。
 セイバーは言った。王としての務めを最期まで貫く、と。
 だから彼女は納得して、逝ったはずだ。そうに決まっている。
「……………………。申し訳ありません」
 ふいに、少女から謝罪の声。
 まなじりの下がった顔は、彼女の方がセイバーの『死』を悲しんでいるように見えた。
「気にしなくていい。俺も納得してるから」
「そんなはずありません。それではなぜ―――」
 彼女はポケットからハンカチを取り出し、俺の頬にあてる。柔らかい布が優しく目元をぬぐっていく。
「貴方が、泣いているのですか――――」
「………………え?」
 言われて目尻に指をやると、なぜか水が手についた。
 目から出てくる水。さすがに汗をかくほど暑くない。じゃあこれは、彼女の言うとおり――
 おかしいな。ほんと、なんで泣いてるんだ俺。
 間違いなく、あいつの生き様には納得していたはずなのに。
 涙が、溢れて止まらない、なんて。
「ぁ……………………」
 本当に止まらない。まるで蛇口が壊れた水道だ。涙は後から後から湧いて出る。
 くそっ、どうしたんだ。止まれってのに。
 これじゃあ俺が、あいつの事を、
「……死が悲しくないなどと、軽々しく口にするものではありません。
 貴方は、命の重さを知っている人だ。誰よりも」
「っ」
 少女の言葉に息を飲む。
 そうかもしれない。あの火事の中で、いかに人の命がちっぽけなものか、だからこそ生きていることと死んでしまったことの価値がどれだけ大切か、骨の髄までたたきこまれた。
 だけど。
「なんで、そうだと思うんだ?」
 十年前のことを知る人間など、一握りしかいないのに。
「……………………」
 少女はまた口をつぐんで下を向いた。最も肝心な事となると、彼女は決して口を割ろうとしない。
 ――――最も肝心な事が何であるかを知っているかのように。
 弱々しく俯いていた顔が、ふいにまた力を取り戻して上がる。
「セイバー、という人の事はわかりました。
 貴方は、いえ、貴方がたは、私がその人に似ていると言うのですね」
「いや、似ていると言うか」
 どう見ても本人に見える。
 少なくともイリヤにもそう思えるから、『セイバー』なんて呼ぶんだろう。
 普段はワンパクなしろいこあくまだが、彼女は生粋の貴族のお嬢様である。初対面の人を理由もなく、他人の名前で呼ぶなんてことはありえない。
 そんなイリヤが『セイバー』と呼ぶくらい、彼女は似ている。
 少女の瞳にかげりが落ちた。
 それは、この事を問うこと自体が罪であると言いたげな。
「なるほど。似ているという話はわかりました。
 けれど考えてみてください。貴方の知るセイバーという人はすでに亡くなっているのでしょう。常識的に考えれば、私たちは別人です。
 それでも、なぜ貴方は私が『セイバー』だと思ったのですか」
「なぜって…………」
 思わず言葉に詰まる。
 それを話して良いものかどうか。
 セイバーは実は、イギリスどころか世界にその名を轟かせたアーサー王その人で。
 聖杯戦争なんて魔術師の闘争にサーヴァントという役どころでかり出された、英雄だったという事を。
 ……セイバーだと思う理由なんて、似てるからという以外には何もない。
 根拠も理屈もなく、ただ顔と言動が似てるだけ。
 しかしその似ている度合いが半端ではないのだ。双子の姉妹でもこうはいくまいというほどに。
 だから、本人かと思った。なんでここにいるのか理由はわからない。でも本人じゃないかと思った。
 けれどやはり根拠はなかった。もしもこの少女が一般人なら、聖杯戦争の話をしたところで信じてくれるわけがない。もっと真面目に話してくださいとか怒られるのがオチだ。
 なにより一般人相手に、魔術の話をするわけにはいかない。
 ――――それとも。
 ここはわずかな可能性を信じ、思い切って話してみるべきなのだろうか。
「………………………………」
 俺が無言のままでいる事を、どう取ったのか。
 金髪の少女は突然、今まで以上に深く顔をうつむかせる。
「……失礼しました。聞いて良いことではなかったようですね」
「え?」
 その声音に驚いた。
 少女は俺と目を合わさぬまま、横をすりぬけて土蔵を出てゆく。
「ちょ、ちょっと……!」
「……今日は帰ります。夕飯をごちそうさまでした」
 呼び止めても振り返らない。
 決して走らず、けれど歩くスピードとしては異様に速い。
 遠くなる背中は、なみなみと注いだコップから今にも水が溢れそうな光景を連想させる。
「―――なんだってんだよ―――」
 呆然と後ろ姿を見送りながら呟いた。
 どうしても、あいつの声が耳に残って離れない。
 …………なんで、彼女はあんなにも。
 必死に感情をおさえるように、声を震わせていたんだろう――――










 いつもならバス停まで送らせてくれるのに、どうも彼女は早々帰ってしまったらしい。
 少し遅れて縁側に上がった時、もう衛宮邸に少女の姿はなかった。
「……………………」
 なんだか、すごく良くない予感がする。こんな胸騒ぎはいつ以来だろう。
 もしかして俺は、
 とんでもない過ちを犯してしまったのではないか。
「……………………」
 けれど、それが何かはわからない。
 わかるとすれば。
 どうしてあの時、すぐに腕を掴んででも、彼女を止めなかったのか――――
 ……今からでも遅くないかもしれない。
 きっとまだバス停に向かい、坂を下っている頃だろう。
 行ってみようかと身を乗り出した瞬間。
「士郎!! いる!?」
 家中に響く大声に動きを止めた。
 いつの間に入ってきたのか。声に続いてパタパタとせわしなく廊下を走る音がして、
「なんだ、いるんじゃない。不用心に鍵あけっぱなしで出かけたかと思ったわよ」
 無遠慮に入り込んできたのは。
「遠坂? どうしたんだ、こんな時間に。夕飯は終わったぞ」
 本日の夕飯時に顔を見せなかった遠坂だった。
 用事があるから、と放課後に別れ、今日は自分の家へ帰ったはずだったのに。
 なんでこう、肩をいからせて突撃なんかしてくるんだろうか。
「わかったのよ。あの子の素性」
「……素性?」
 はてな、と首をかしげる。素性、とはまた穏やかではない単語のような。
 素性。身の上。……正体。
「…………! わかったのか!?」
 あの少女の正体が。
 遠坂は力強く頷き、手に持っていた大きめの茶封筒から書類を取り出した。
 色々と英語で書かれた字よりも、目をひくのは金髪の少女の写真。
 おそらく証明写真だろう。見せてもらったことはないが、学生証に貼ってありそうな真面目なやつだ。
「魔術協会を通じて、アルトリアの故郷に問い合わせをしたの。
 通り一遍の調査でだいたいわかったのはラッキーだったわね。まったく隠してないんだもの」
 言って、パン、と重ねられた書類をたたく。
「ウェールズの片田舎の小さな町に生を受け、以後そこで成長してる。
 戸籍には怪しいところも細工の痕跡もない、まぎれもなく本物だし、近所の住民たちの記憶もあった。まず間違いないわ」
「…………つまり?」
「あの子 ―――アルトリアは本当に、この十七年間を生きている。それも赤ん坊として生まれ育ってね。
 つまり彼女が『サーヴァントとしてのセイバー』である可能性が完全に消えたのよ」
 では、彼女は普通の……あ、いや、普通かどうかはわからないが。
 ちゃんと生きている、人間、なのか。
「だとすると…………やっぱり、あいつ」
「思い付く可能性としては他人の空似か、生まれ変わりかのどっちかね。それで」
 鋭い視線が向けられる。厳しい眼差しは、冷静に現実を見つめる魔術師としての遠坂の瞳。
「どっちだと思う? 士郎」
「俺は…………」
 あの、金髪の少女は。
 セイバーほどじゃないけど強くて、とても真面目で、ごはんをおいしそうに食べてくれる女の子。
 セイバーと同じくらい気高い心と、誓いを全うする魂を持っていて。
 他人のために自分が犠牲になってしまう危ういやつで。
 それだけ強いくせに、目を離せないほど弱い横顔。
 遠坂は言った。彼女の観察を俺にまかせる、と。それはつまり、道理や確率なんてものをなにも考えないで、ただあいつの様子だけを見て結論を出せということだ。
 セイバーか赤の他人か。つきつめれば、答えはそれだけ。
 ならば。
「………………あいつは、」


「なあんだ。二人で何してるのかと思えば、いまさらそんなこと話してたの?」


「「!?」」
 突然の声に遠坂と二人で振り向く。言葉の内容より、まずそこから声がしたということにびっくりした。
 声に続き、暗がりの向こうから姿を現したのは、
「イリヤ…………なんで!?」
「ちょっとシロウの様子が気になったから残ったの。まさかこっちがまだこの段階だとは思わなかったけど」
 呆れたためいきひとつつき、よくわからないことを言ってイリヤは腰に手をあてた。
 まるで動じない彼女の態度を見て、遠坂が苦い顔をする。
「アンタは驚かないのね。もしかしてなんか知ってるの?」
「知ってたわ。最初に言ったじゃない、セイバーなんでしょって。
 リンは忘れてるみたいだけど、わたしはアインツベルンの娘なんだから」
「………………?」
 首をかしげる遠坂。俺にもイリヤの言いたいことはわからない。けれどイリヤは当然という顔をして自信をのぞかせる。
 ……そうか。もしも。
 イリヤが彼女を『セイバー』と呼ぶのに、俺たちが感じた以外の理由があったとしたら。
「なあイリヤ。なんで初対面からあいつをセイバーって呼んでたんだ? よく似た他人っていうのが一番可能性としては高いはずなのに」
「あれはセイバーよ。だって魂が同じだったもの」
「…………魂?」
 魂。非現実的な言葉であり、一般人が使うときはもっぱら精神性なんかのことを指して使う。俺も、彼女とセイバーは本質的に似てるなって意味で、魂が似てると何度も思った。
 しかし魔術師がその言葉を使うとき、魂というのは人間を構成する要素のひとつとして使われるのだ。
 小さく息をのみこみ、イリヤを見る。
 俺と遠坂を見返す顔は、一人の魔術師の貌だった。
「シロウが知らないのは今さらだけど、リンが気づかなかったのは遠坂のうっかりで済ませていい問題じゃないわね。それともリンも知らないのかしら。
 アインツベルンの目指す第三魔法は魂の物質化。こと魂に関しては、どこの家系よりも熱心に追い求め続けた自負があるわ」
「なっ、第三魔法……!?」
 遠坂からもれる驚きの声。
 魔法というのは現代の科学ではどうあっても実現不可能な現象を起こす魔術のことだ。魔術師である以上、それを目指すのは一族の目的のひとつでもある。
 魂の物質化、というのが具体的にどういうものかは想像もつかないが、つまりイリヤの生家であるアインツベルンという一族は、魂の研究をすすめている家だということなのか。
「……イリヤ。魂が同じって、どういうことなんだ?」
「どういうこともなにも、そのままの意味よ。
 たとえば、んー……人形があるとするじゃない?」
 イリヤに人形という言葉を言われるとドキリとするが、話の腰を折らず素直に頷いた。
「人は死ぬと次の生のために転生するわ。
 転生っていうのは、これまであった人形を全く別の人形にしてしまうようなものなの。服や髪型はもちろん、髪の色も目の色も、それどころか鼻やアゴの形まで変えてしまう。
 当然体型も全然別の物にして、まったく違った人形に見えるぐらい手を加えるの。女の子の人形だったのに男の子に見えたり、子供の人形だったのに老人の人形に見えたりするぐらいにね。
 いくら元の人形を覚えていても、それを他のたくさんの人形の中に混ぜておいたから探せと言われて、見つけられる人はまずいない。万にひとつにも満たない可能性で当てずっぽうを当てるのがせいぜいよ」
 でも、とイリヤは指を一本突き出し、
「セイバーはそれが当てはまらない。たしかに別の人間なんだけど、今の人形の例で言えばせいぜい服を変えたぐらいなの。
 それでも随分印象は変わるわ。パッと見、人形に詳しくない人にはわからないかもしれない。
 だけど見る人が見れば、どう見ても前と同じ人形というのは一目瞭然よ」
 つまりセイバーの魂は、ほとんど転生という現象を受けていないようなものなのか。多少の違いはあれ、専門家の目にはすぐわかるぐらい。
「けどイリヤ、魂がそのままだって、肉体は普通両親から作られるもんだろう。なんであいつはセイバーにそっくりなんだ?」
「さあ。よくは知らないけど、よっぽどセイバーの影響が強かったんじゃない」
「影響が強い?」
「一般の世界の理屈では魂なんて存在しないものとして扱われてるから、シロウは納得いかないのね。
 でも魔術の側から見ると、人を構成しているのは魂なの。記憶とか脳とか魔術回路とかはそっちに存在してて、肉体を介して現実世界に干渉している、っていうのが正しい形かな」
「………………」
 なんだか生物の授業の常識が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく感覚。
 しかしイリヤはこれでも俺よりずっと神秘に近い人間だ。俺なんかでは理解の及ばない知識を知っていて当然なのだろう。
「だからセイバーの魂が、今のセイバーの外見を作ってるんだと思う。両親の遺伝子とかそういうのと関係なしでね。なにせあのアーサー王だもの。元の遺伝子の情報なんて書き換えられてしまうぐらいの影響力を持ってても不思議じゃないわ。
 いえ、もしかすると、セイバーの魂自体が形をもって母親の胎内に宿ったのかもしれない」
「……以前、何度も転生して不老不死に近い生を得た魔術師がいたと聞くわ」
 横から遠坂が、補足なのか質問なのか、ぽつりと声を発する。
「その魔術師でさえ、どこかの胎児に融合する形で生まれ変わりを行うから、身体はその胎児のものを使ってたらしいけど」
「ふん。あんなのおそまつな転生ごっこよ。わたしたちが目指してる第三魔法とあんな寄生虫を一緒にしてほしくないわ。他人の身体を使わなくちゃ転生できない時点で、魂が物質化してない証拠じゃない」
 不満そうに口を尖らせるイリヤ。なんか聞いてるとすごそうな魔術みたいだけど、イリヤにとってはお気に召さないらしい。
 遠坂は頬杖ついて、
「それにしてもよくセイバーの魂だってわかったわね。なに、アインツベルンではそこまで魂の区別をつけられるわけ?」
「いえ。普通ならそんなのわかんない。というより気にしようなんて思いもしないわ。でもね。
 ――もう、わたしは大切な人の魂を見間違えたりしたくないから」
 またわからないことを言ってイリヤは俺を――なんで俺?
「イリヤ?」
「気にしないで。今のシロウには関係ないことだし」
 寂しそうな笑顔を浮かべる銀色の少女。
 しかし気にしないでと言われても、そろそろ俺の方は限界だ。
「悪い、イリヤ。そこらへんの説明は飛ばして、結論を言ってくれ」
 第三魔法なんてものに興味はない。
 知りたいのは、たったひとつだけ。
 遠坂がじっとりと諦めの視線で俺を見た。
「――――知ってはいたけど、衛宮くんは魔術師じゃなくて魔術使いになりたいんだから、魔法には興味がないってことなのよね。まあ他に気になることがあるってのはわからなくもないし。
 イリヤ、はっきり言ってあげて」
「そうね。シロウだもの、わたしたちの悲願を飛ばしてくれってのも大目に見てあげる。
 いい、シロウ。あれは間違いなく、シロウの知ってるセイバーの今の姿よ」
 きっぱりと。
 まったく迷いもなくためらいもなく、イリヤは断言する。
「でも、同一人物と言えるかどうかはわからない。
 今のセイバーはシロウにも届かないぐらいうすっぺらい魔力だし、タイガから聞いたけど、身体能力も普通の人間並みなんでしょう? もしかすると記憶だって全部はっきりしてるか怪しいものよ。
 正直あのくらいの再現度なら、わたしがシロウを人形に移し変えた方がはるかにうまいわ。魂を移し変えるのに失敗したみたいなあの存在を、セイバーって呼んでいいのかはシロウ次第だけど」
「……………………」
 それでも。
 たとえあの時と色々なものが変わり果ててしまったとしても。
 セイバーは――セイバーだ。
 ”シロウ”と、最後のウを小さく発音する、彼女独特の呼び方にも。
 俺の理想を眩しそうな瞳で応援してくれる姿にも。
 自らに課した誓いを貫き通そうとする尊い精神にも。
 ちゃんと、セイバーが残っている。
 アルトリアという少女の中には、たしかにセイバーが生きているのだ。
「…………セイバー」
 口の中でその名を呼ぶ。
 それだけで、胸の奥が少しあたたかくなった。
 セイバーが、今、生きている。あの時と同じではなくても、彼女の息遣いを聞くことができる。
 それだけで、今は十分すぎた。
「――――――――ねえ」
 注意をうながす声がする。
 遠坂はどうにもこの結末に不満だと言いたげな表情を浮かべていた。
「なんだよ、遠坂。嬉しくないのか?」
「嬉しいわよ。でもひとつだけ、わからないことがあるの」
 遠坂の顔は晴れない。嬉しいと言いつつ、彼女はその感情を素直にうけとめられないのだろう。
 沈んだ表情の中で、口の端だけが強く結ばれ、ひとつの決意をあらわしている。
 それで思い知った。
「アルトリアが、セイバーだっていうのはわかったわ。
 でも――――」
 それならば。
 なんで、俺たちに他人として接するのか。
 ――遠坂は、俺たちが今まで先送りにしてきた問題に、あえて直面しようとしている。
「――――――――――――」
 わかるわけない。わかるのなら、とっくに遠坂にも話してる。
 遠坂は口に手をあてて、
「わたし、もしかしてセイバーがサーヴァントとしてここに来てるなら、令呪みたいなもので黙らされているかもしれないって思ったの。あとは何かの事件に関係してて、わたしたちを巻き込まないため、とかね。
 でもアルトリアは普通の人間よ。調べてみたけど、魔術関係者ってわけでもないし、隠さなきゃいけないことは一切ないみたいなの」
「つまり、黙っている理由がない?」
「いいえ、実際に黙っているのだから理由はあるはず。けどそれが思い当たらない」
 彼女の視線がうろうろとさまよう。わずかの後、それがピタリとイリヤで止まった。
 視線の意図を汲み取ったイリヤは、軽く肩をすくめる。
 意味するところは明らかだ。イリヤにもそこまではわからない。
 遠坂が悩んだ顔のまま言葉をもらす。
「……もしかして、わたしたちのこと忘れてるのかしら」
「それはないだろ。遠坂だぞ、あいつが俺たちの名前を最初から知ってたって言ったの」
「でもイリヤが言ってたでしょ? セイバーの再現度は完璧じゃないって。
 だったらむしろセイバーの記憶をほとんど覚えてなくて、なんとなく、夢のような感覚で覚えてるのかもしれない。わたしたちの名前とかは、そんな気がしたから言ってみただけなのかも。
 本人の無意識下でしか覚えてないっていうのは、十分有り得る話だと思うけど」
「………………いや」
 そんなはずはない。あいつが、俺たちのことを忘れてるなんて。
 感情で言ってるわけではなく、事実としてそう思うのだ。

 ――――シロウなら、解ってくれると思っていた。

 ――――きっとシロウの願いは私などよりずっと大きい。

 ――――貴方は、命の重さを知っている人だ。誰よりも。

 そんな、言葉が。
 いつまでも偶然だけで出てくるはずはないのだと。
「ちゃんと覚えてるよ、あいつは。絶対に」
 遠坂は表情を消して俺を見つめていたが、ふいに口元をゆるめた。
「……いいわ。衛宮くんがそこまで言うなら、とりあえずそういうことで話を進めましょう。
 けどこれ以上アルトリアを観察してたって答えは出ない。だとすれば」
「だとすれば?」
「あとは直接本人に聞くしかないわね。正面きって問い詰める以外、本当のことはわからないでしょ」
 実に直球ストレートな意見を出してくる。しかしちょっと待て。
「一応聞いとくけどな。問い詰めるって、どうやって聞く気だ」
「え? 明日の放課後にでもアルトリアをつかまえて、催眠術とかかけてみようかなって思ってるけど?」
 遠坂さん。それは犯罪です。
「待て待て待てっっ! いくらなんでもそれはダメだ! 人権侵害だぞ!!」
「う……わ、わかったわよ。たしかにちょっとマズいかもね」
 良かった、遠坂は意見をひるがえしてくれた模様。俺の反対ひとつで簡単に思い直すあたり、本人もあまり正当な手段とは思ってなかったのではあるまいか。
「じゃあ正直に聞く? アルトリアに、貴女はセイバーなのかって」
「うーん…………」
 いまいちうまくいかない気がする。それで答えてくれるなら、とっくに自分から正体を明かしているだろう。
 それに。

 ――――『セイバー』というのは何者ですか?

 今日、セイバーのことを聞いてきたのは彼女自身。
 どういうつもりで聞いてきたのかは不明だ。けれどこうやって聞くということは、自分から話すつもりはないってことじゃないだろうか。
「あんまり正攻法で攻めるのはよくない気がする。へたに警戒されたら、俺たちじゃ手を出せなくなりそうだ」
「そうね。最終的な証拠なんて、アルトリアがセイバーだって認める以外にないんだもの。
 どんな理由があるのか知らないけど、逆に態度を硬化させたら厄介だわ」
 うん。あいつ頑固だし。
 黙っている理由はわからないが、むしろわからないからこそ、最後の一手は切り札にとっておくべきだ。
「だったらやっぱりまどろっこしいけど、周りから固めていくしかないわ。本人が言い逃れできない状況か証拠が手に入ったところで一気にたたく」
「物騒な言い回しだな。戦いじゃあるまいし」
 なんだか聖杯戦争のときの作戦会議を思い出す。
 けれど遠坂はキツい眼差しでにらみ返してきた。
「なに言ってんの、ある意味これは戦いよ。彼女と、わたしたちのね。
 じゃあこれからの方針が決まったとこで、今日はお開きにしましょ。
 士郎、ちゃんとイリヤを送ってあげるのよ。近いからってこんな時間に、子供を一人歩きさせるもんじゃないわ」
「あ、じゃあ遠坂も一緒に行こう。イリヤを藤村の家まで送ったら、遠坂も送るから」
「わたしはいいわ。あっちの方まで歩くのは疲れるもの。それにもう子供じゃないしね」
「バカ、子供じゃないから危ないんだろ」
 腕に覚えがあるとはいえ、遠坂だって女の子なのだ。逆にこいつの場合、そういう油断が一番危ない。
 むっと軽く睨んで忠告すると、遠坂の顔が楽しそうに歪んだ。
「あらぁ? それってもしかして、衛宮くんが送りオオカミってことかしら」
「なっ…………!!」
 待て、なんでそうなるっ! こないだだってちゃんと無事に送り届けたじゃないか!
 そりゃ遠坂ん家は一人暮らしだけど、そういう意図はまったくもってないっっ!
 思わず慌てる俺の顔を見て満足したのか、遠坂の笑顔は人の悪いにやにや顔からスッキリとした微笑みに変わった。
「ふふ、冗談よ。本当に送らなくていいわ、一人で帰りたい気分だし。それよりイリヤを送ってあげて」
 言い捨てると、ばいばい、と後ろ手に手を振って、遠坂は玄関に向かう。
 彼女の後ろ姿からは、今夜の話をどう受け止めたのかは読み取れなかった。
 ……そうだな。俺もゆっくり考えよう。けどその前に。
「じゃあ――行こうか、イリヤ」
「うん。そういえばシロウに送ってもらうのも久しぶりね。あ、そうだ、手つないでもいい?」
「あー……じゃあ、藤村組の人に見られないとこまで」
「えーっ、それじゃあつまんないーー!!」
 ぷくーっと風船みたいに頬をふくらませて怒るイリヤ。すでに魔術師の顔ではなく、すっかりいつもの子供っぽいイリヤだ。
 文句を言いつつ、それでも俺が家まで送るなんてささいなことがホントに嬉しいのか、手を引っ張ってせかすイリヤに引きずられながら外に出る。
 家の前の道は人通りも少なく、ひっそりと静まり返っていた。
 ずいぶん前に藤ねえが、ついさっき遠坂が通っていった道。
 その二人の間には――――
「……………………」
 逃げるように帰っていった、金髪の少女を思い出す。
 遠坂の乱入で、結局彼女を追いかけるタイミングを逸してしまった。


 ――――失礼しました。聞いて良いことではなかったようですね。


 ……答えることができなかった。なぜ彼女をセイバーだと思うのかという質問に。
 どうしてそのことで彼女があんな悲しい声をしていたのか、今でもわからない。
 いや、そもそも。
 彼女はあの質問を通して、俺に何を聞きたかったのだろう。

「シロウ、ライガがたまにはこっちにも遊びに来なさいって。バイクの調子を見てほしいって言ってたわ」
「あ、ああ……」

 上の空でイリヤに返事する。
 無邪気で楽しそうなイリヤの顔が目の前にあるからこそ。
 今日最後に目にした、少女の小さな背中が、今も泣いているように思えてならなかった。




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