強い風が橋の上をかけぬける。
足音は遠く去ってしまい、もう聞こえない。
いや、気がつけば聞こえなくなっていたと言うべきか。自分のした事に対する慚愧の念に押し潰されそうだった彼女にとって、周囲が再び見える状態になるまでそれだけの時間を要した。
秋にしては寒い風がアルトリアを舐る。橋の上だから風はなおさら強い。一人になったとたん、やたらと寒さが躯を苛んだ。
橋の欄干に置いていた手元を見ると、いくつかの水滴が落ちている。自分の頬を流れる液体と同じものだと理解することは容易かった。
「シ、ロ…………」
思わずつぶやきかけた言葉が誰の名か気付き、寸前で飲み込む。
許されない。彼の名を呼びかけることも。届かぬ謝罪をすることも。
彼の名を口にし、謝れば、それで気持ちが楽になってしまう。彼に届かずとも、それだけで少しは気持ちが楽になってしまう。
許されない。あんな言葉を投げつけて、自分だけ楽になるなんて。
彼の心を傷つけた。たくさんたくさん傷つけた。彼の告白がまぎれもない本心であることは、誰よりもよくわかっていた。
それでも――――彼女にはああ答えるしかなかった。
「ふぅ――――っ…………」
喉からせりあがる嗚咽を抑え切れない。アルトリアはそのままずるずると崩れ落ちた。
わかってる。これは自分で決めたこと。彼女が『セイバー』としてできる、最初で最後の仕事。
これから先、彼女が背負っていかねばならないもの。
覚悟はしていた、つもりだった。こんな事態を想定して、きちんと考えて出した結論のつもりだった。後悔しないよう、正しい事なのだと信じているつもりだった。
それでも、こんなに気持ちが苦しいのなら、やらなければ良かったと後悔する。
こんな重い使命を一生背負っていくぐらいなら、いっそ心が鉄になってしまえばとさえ思った。
☆★☆★☆★☆★☆
「えええぇぇぇぇっっ!?」
『初めて』衛宮士郎と出会った日。一目見た瞬間から、素っ頓狂な声を彼の隣の女生徒―――遠坂凛があげるまで、アルトリアの時間も止まっていた。
呆然とこちらを見つめる瞳と、この国では幾分珍しい赤毛の硬質な髪。同年代の少年に比べ若干低い背と少し幼い顔立ちは、彼を年より若く見せているが、今にも少年の域を脱しようとしている。
初めて見る顔だが、知らない顔ではない。
まさか、本当に会えるとは思わなかった。
会えるとは、思わなかったのだ。
「あ…………!?」
後ろから声をかけられて我に返る。
彼女の足は、いつのまにかその場を逃げ出していた。
しかし気付いても今更止まれない。止まる気もなかった。
「ま、待っ……!」
声はおいかけてくる。捕まらないよう、彼女はさらにスピードをあげた。
慌てて二年B組の教室に駆け込む。
ここに逃げ込めば絶対に安心、というわけではない。だが他に逃げる場所は思い当たらなかった。
自分の席について呼吸を落ち着ける。彼らがまだ追ってくるかどうか、怖くて顔を上げられない。
――――大丈夫そうだ、と思ったのは、それから一分ほどしてのことだった。
「ペンドラゴンさん、どしたの? 大丈夫?」
前の席の少女が声をかけてくる。反射的に顔をあげると、そこには知ったばかりの少女の顔。
『彼』とは違う。まぎれもなく、今日初めて顔を知った少女だ。
「え…………ええ、大丈夫です。少し迷ってしまいまして、授業までに戻れるか心配だったものですから」
「うんうん、そっか、そうだよねー。まだ慣れないもんね。じゃあ次はあたしが案内するから、行きたいところあったら言ってね」
口から出任せでついた嘘を、少女は快く信じてくれた。わずかな罪悪感を抱えつつ、感謝します、と礼を言う。
ちょうどその時チャイムが鳴った。少女は前を向き直り、アルトリアは再び思索の海に身を沈めた。
その夢を見るようになったのは、いつの頃からだっただろう。
ほんのいくつかの夢を、何度も繰り返し見る。夢は決まって、同じ場面を同じ展開で流れていった。ちょうど録画したテープを何度も何度も見せられるように。
薄暗いガラクタだらけの小さな小屋の中、尻餅をついた少年がこちらを見上げている。自分は青いドレスと騎士のような鎧を着て、少年を見下ろしている。なぜか少年の服は血まみれだった。
次の場面は同じく薄暗い、腐った水の臭いがただよう小部屋の中。今にも死にそうなほど胸から血を流した少年が、陰気な神父に頭をつかまれ、涙を流して必死に叫んでいる。その叫びを聞くのは胸が痛い。
そして最後は黄金色に染まる朝日の中で、彼女は後ろにいる誰かに向かって言葉を紡ぐ。
”最後に、一つだけ伝えないと”
”……ああ、どんな?”
振り向けば、そこにはやはりあの少年。
見知らぬ少年なのに、彼の事などなにも知らないのに、なぜか独りでに口が動く。
”シロウ――――貴方を、愛している”
……夢はそこで必ず終わった。後も先もない。『シロウ』と自分がそれからどうなったのか、そもそもどうしてそうなるのか、知る術は全くなかった。
ただの夢。どんな奇怪な夢でも、大抵はそんな風に日々の暮らしの中で片付けられる。
それはアルトリアのおかしな夢も例外ではない。
だから、そんな事を考えたのも、ただの気まぐれだったのだ。
「おまえ、留学先を日本に決めたんだって?」
兄は信じられないものを見る目で彼女を見ていたものだ。かねてより留学して見聞を広めたいという彼女の希望は伝えていたが、家族は行き先をヨーロッパのどこかかアメリカあたりと見ていたらしい。
「あんな国、英語も通じないってもっぱらの噂だぞ。そんな極東の国に行って何するつもりだ?」
言葉の通じる国では異文化としての意識が薄い、というのがアルトリアの建前だった。不便のないようにと日本語を学ぶと、知らない国の言語は信じられないほどスムーズに頭の中に入っていった。教えた日本語教師の方が驚いて、貴女の前世は日本人だったのだろうと冗談を言ったほどだ。
そうして、この冬木の地にやってきた。中心都市である東京か、古の歴史をもつ京都に行くだろうと考えていた家族はまたしても仰天したらしい。
とはいえこれはほんの気まぐれ。
だから本当に『シロウ』に会えるなんて、本気で思ったことはなかった。
そもそも『シロウ』という人間自体、実在するのではなく彼女の想像上の人物だと思っていた。想像上の相手には世界中のどこへ行っても会えるわけはない。
――――でも。
『シロウ』という名が日本人に多いのだと知った時も。
地図で冬木という地名を発見して、ここに滞在しようと決めた時も。
彼女の脳裏には顔と名しか知らぬ赤毛の少年の姿があった。
「では次のページ。宮下、読みなさい」
「はい。『こうして西ローマ帝国の崩壊と共に、諸国はそれぞれ独立せざるをえなくなり――』」
いつもならば純粋な興味で勉強する、得意な世界史の時間。しかし今は全く頭に入らない。
窓の外を見上げると、深く青い秋の空。
なぜかこの空だけは、遥か遠い時代と国でも変わらず、それが今のここと繋がっているのだと思えた。
その晩に見た夢は。
これまでとは比べ物にならない、信じがたいものだった。
「――――――――っっっ!!」
がばり、とアルトリアは跳ね起きる。ここはどこか。自分は誰か。今はいつなのか。
「…………今のは、一体…………」
通常、夢なんてものは目が覚めた瞬間から忘れていくものだと決まっている。そしてどんなにたくさん見ても、覚えているのはほんの一場面というのが相場だ。
それなのに今夜の夢は、実際に見てきたかのように鮮明で。起きたところで忘れることがない。
そう、これはまるで。
「記憶、のような――――」
背筋が寒くなる。異民族に荒らされる村。王になるのだと誓った『彼女』。魔術師、などというファンタジーな存在に未来を見せられ、それでも笑って剣を抜いた。鉄仮面のような無表情の中に自分を押し殺し、王として政治を執り行い、王として異民族と戦う。人を、たくさんの人を、殺して、殺して、自身も返り血で血まみれになって――――
「う…………えぇっ…………」
まだ起ききらない身体を叱咤してトイレに駆け込む。今まで人の遺体など、祖母の葬式でしか見たことはなかった。それも大往生し、専門家の手で綺麗にされたものだ。
あんな斬殺された人を見るのは初めてで。映画なんかよりよほどリアル。
こみあげる吐き気に耐えることができなかった。
ひとしきり嘔吐して胃の中が空っぽになる。いまだ吐き気はおさまらないが、もう戻せるものはない。
口をゆすいで寝室に戻ると、さっきまでの夢がまた思い出された。
頼っていた者たちの離反と裏切り。それを悲しいと感じる感情は『彼女』にはない。つとめて冷静に、あきれるほど当然に、その戦力の穴をどうやって埋めるか考え、実行する。
だが、そんな『彼女』の王国も、ついに終わりの時が来た。
息子の造反。死体だらけの丘の上、息子と一騎打ちをした『彼女』は瀕死の重症を負い、そこで強く思った。
聖杯が欲しい、と。
何かが、それを聞き届けた。死後を捧げよと声がする。『彼女』はそれに頷いた。
「そして――――ここに…………?」
日本という極東の地。聖杯戦争という魔術師を主体とした殺し合い。これに勝てば聖杯が手に入ると聞かされ、『彼女』はがぜん張り切った。
だが、ここでも『彼女』は裏切られる。聖杯は自らの手で破壊される。
そうして、次のチャンスに賭けた、その瞬間。
これまでのように初めてではない光景が開けた。
「――――――――――――」
鮮烈な映像ばかりの中で、いっそ懐かしいとも言える、今まで何度も見てきた夢の中の光景。
薄暗い、ガラクタだらけの小屋の中。尻もちをつき、服を血に濡らした赤毛の少年が呆然とこちらを見上げている。
自分の口は自然に動いていた。
”―――問おう。貴方が、私のマスターか”
それからの光景は、ほとんどが赤毛の少年――『シロウ』とのものだった。
傷つき、殺されそうだった『彼女』を庇って腹を裂かれた彼。サーヴァントであるという『彼女』の主張に対し、女の子だろうと反論する。それでも、やがて共に戦うと誓ってくれた。頑なに王であろうとする『彼女』に、少女に戻っていいのだと説得する。
どこかの地下で、神父に騙し討ちされ胸を貫かれた『シロウ』。過去の悲劇をもう一度見せつけられ、聖杯の力ならばそれをなかったことにできると言われ、それでも聖杯を拒否した。
死者は蘇らない、と。
そんな、当たり前の事実に、けれどそれが当たり前であることが悔しくて、涙を流しながら訴える。
その姿を見て、『彼女』も覚悟を決める。真実を思い出す。
二人で出した結論は一つ。『彼女』は求めた物を、今度は自らの意思で破壊した。
別れ際に、ひとつだけ伝える。万感の想いを込めて。
”シロウ――――貴方を、愛している”
「………………………………」
カチ、カチ、と響く時計の音だけがやけにうるさい。けれど唯一知覚できるその音が、今はとんでもなく自分を現実に繋ぎ止めているのだと感じた。
声が出ない。これが夢だとは、ただの夢だとは、到底思えなかった。
けれどやすやすと信じられることでもない。魔術師だの過去の英雄を召喚しての戦いだの、現実感がなさすぎる。そもそも夢の中で彼女が呼ばれていた名前。それはイギリス人であれば誰もが知る名ではなかったか。
十七年間で培った理性は、こんなものはただの夢だと断じてくる。どこかもっと深いところにある直感は、これが間違いなくかつての記憶なのだと訴えてくる。
確かめる方法。自分でそれを行う術はまるでない。ならば。
「やはり、『シロウ』に聞くということに…………」
『シロウ』。夢の中で『彼女』が愛した少年。夢で何度も見ていたせいだろうか、彼の事は見知らぬ他人とは思えない。
その一方で、『彼女』は恐い。夢の中でアーサー王ともセイバーとも呼ばれていた存在が恐い。背筋にゾクリと寒気が走り、アルトリアは小さく震えだした身体を抱き締める。
「――――――――――――」
確かめるのも、本当は、恐い。
『シロウ』と初めて会った時に逃げ出したのと同じ恐さだと、今ならわかった。
自分の中にある未知の記憶。いや、すでに知ってしまった以上、未知ではない。その記憶が作り上げる『彼女』。
記憶が裏打ちされれば、自分の中にもう一人の自分がいると認めざるをえなくなってしまう。
これまで十七年間、そんな記憶などなくてもやってこれたのだ。今さら『アルトリア』として生きるのに、こんな記憶は必要ない。
けれど知ってしまった。自分の前世、かつて起こった出来事を。
……記憶喪失になった人間が、過去の自分を知る気持ちに似ているのかもしれない。記憶のなかった期間が長ければ長いほど、知らずにいた過去の自分が今の自分をどう変えてしまうのかという恐れ。過去の自分に今の自分が食い殺される錯覚。
いっそ知らないフリをして、このままなかったことにするという手段も選ぶことはできる。
それでも、ただひとつ。どうしても確かめたいことがあったから。
――ググッ。
一度だけ、身体を抱き締める腕に強く力をこめて。
アルトリアは彼への接触を決意した。
☆★☆★☆★☆★☆
「……………………」
もう一度。あの時と同じ、強く力をこめて。
彼女は再び前を向く。
拳を握りしめた腕で、目元の液体を全て拭い去った。
「……これが最後だ。もう迷わない」
言い聞かせる。己自身へ。
あの後誓ったのだ。彼の誇りを最後まで守り抜く、と。
ならばもう泣くことはない。泣く必要すらもない。
これからどんな辛い想いをしようとも、それは彼の誇りを守るため。
士郎がもしも先程ので諦めていなければ――おそらくは彼の心を、再び傷つけることとなる。
けれどそれは、きっと士郎のためなのだ。
諦めてくれるまで傷つけられる彼の心を思えば、自分の心が流す血など、どうというほどのものはない。
強く強く顔に吹き付ける向かい風の中、一人の少女が心を固めて立ち上がった。
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