翌朝になっても、アルトリアの気分は晴れなかった。
それでも学生である以上、月曜日には学校がある。まして彼女は気鬱程度で気軽に休みをとれるタイプではない。
結局昨夜、誘われていた夕飯の約束はすっぽかした。あんな事があった後で平然と衛宮邸に顔を出せるはずもないし、士郎とて彼女が顔を出すとは思ってなかっただろう。だからあれ以来、彼とはまだ会っていない。
それでも剣舞の練習がある。皆で着々と準備を進めている劇を自分たちの都合だけで降りるわけにもいかない。士郎とは、その練習でどうでも顔を合わせないといけない。
つまりどんなに遅くとも、今日の放課後にはまた彼と会わねばならぬのだ。
「……………………」
自分がどんな風に彼と接すればいいのかはもう決まっている。毅然とした顔と態度で相対し、もしもまだ彼がセイバーとして見てくるようであれば、はっきり拒絶すればいいだけのこと。
けれど士郎がどんな顔で彼女を見るのか。それだけが気になった。
怒ったり軽蔑されたりするのならばまだいい。
彼女にとって一番辛いのは――――おそらく一番可能性の高い反応。
「……………………、」
一瞬、その顔を想像してしまい、チクリと胸に痛みが走る。
こんな気分のまま教室の喧噪の中で昼食をとる気にもなれず、どこか静かなところを探しているのだが。
「……ここも駄目ですか」
ちらりと覗いた特別教室に先客の姿を見つけ、アルトリアはためいきをつく。
そんな都合のいい場所は、この学校に来て二週間の彼女ではなかなか見つけられなかった。
裏の雑木林はまだ不案内な上に弓道場が近い。特別教室の中で遠慮なく入れそうなところは大抵他の生徒が使っている。そもそもどこが入っても良くて、どこが入ると怒られそうなのか、まだよくわからない。
どこかのデッドスペースでも見つかれば、とこうして校内を散策しているのだが、このままでは無駄足に終わる可能性も高かった。
「……さすがにそれはどうでしょう」
すでにおなかは五分ほど前に可愛い声をあげて抗議している。幸いにも周囲のざわめきにまぎれて誰にも気づかれなかったようだが。
しかしこの調子だと本当に昼休みが終わってしまう。人気のない場所を探して一階からあちこちさまよいながら、上へ、上へ。
そうして最後の扉にたどりつく。
校内はここが最後。他の場所を探すのならば外に出なければならない。外は外でグラウンドや体育館などもある。ここまで校内でハズレを引くならば、むしろそっちの方が良い気もしてきた。外で食べるのもたまにはいいだろう。座れるような場所があればの話だが。
とりあえずここが駄目なら、次は外を探す。そう思って扉に手をかけようとして、
「そういえば士郎のクラスは、文化祭の出し物、喫茶店だって言ってたっけ。ケーキ、どこから仕入れてくるの? フルール?」
ぴたり。と。
伸ばした手の先、扉の向こう側からした声に、動きが止まる。
今の声は。そして声の主が呼んでいた名前は。
「遠坂はイリヤと同じで豪華主義だからなあ。でも残念だったな、文化祭でそこまで原価の高いケーキは用意できないだろ。ベコちゃんだよ」
「ベコちゃんかあ……ま、しょうがないわね。で、衛宮くんはウェイターやるの? みんなで見に行ってあげましょうか?」
「そちらも残念でした。俺は厨房専門、表には出てこない」
「なによ、つまらないわね――って、ちょっと士郎。そんなに野菜ばっかり食べないでよ、わたしの食べる分がなくなっちゃうじゃない。男だったら肉を食べなさい」
「な、なんだよ、俺の弁当だぞ、なに食べたっていいじゃないか。遠坂こそ野菜ばっかり食ってないでもっと肉をとれ、俺を高コレステロールの塊にでもする気か?」
「女の子にお肉なんて勧めないでよ、肉類に関してはカロリー計算ちゃんとしてあるんだから」
漫才のような掛け合いをしながら仲睦まじく昼食をとっているであろう男子生徒と女生徒の声が聞こえてくる。扉越しで少しくぐもっているが、よく知っているその声。
声の主が誰であるかなど、もう疑いようがなかった。
衛宮士郎と遠坂凛。二人がそろって、この扉を開けた先にいる。
――気がつけば。
彼女が今いるところは、屋上へと続く階段の最中だった。
二人は扉一枚隔てたこちら側のことなど気づかず、話を続けている。
それが。
アルトリアには、絶望的なまでに断絶された、二人との距離のようにも思えた。
「そういえば士郎のお弁当って手作り? まさかお昼まで桜に作らせてるんじゃないわよね」
「たまに作ってくれることもあるけど、だいたいは自分で作るぞ。そこまで甘えられないからな」
「ふーん。でも作ってくる日と来ない日があるわよね? なんで?」
「安心して教室以外の場所で食える日にしか作ってこないから。遠坂みたいに、エサに群がるハイエナが多いんだようちのクラスは」
「なっ、ハイエナなんて失礼ね! ハイエナってのはどっかのプロレス貴族お嬢様のことでしょ」
「なんだそりゃ。プロレス貴族?」
「なんでもないわ。気にしないで」
凛がきっぱり打ち切ったせいで、会話はそこで途切れた。
二人ともそのまましばらく沈黙を続ける。
……そういえば、今の自分は盗み聞きをしている格好になるのではないか。
そこに気づき、アルトリアは彼らに気づかれる前にこっそり退散を試みる。
忍び足で一歩、踏み出そうとした瞬間。
「……聞かないんだな。昨日のこと」
その言葉がアルトリアの足を縫い止めた。
いつもより少し低い、小さな士郎の声。さっきまでの明るい雰囲気とはうってかわった、内緒話のような声。
昨日のこと、なんて。何のことだか、これ以上ないほど明白だ。
耳を塞がなくては、と思うのに、体が動かない。
その隙にもう一人の声も、あやまたず彼女の耳へ届いてくる。
「聞かなくてもだいたいわかるわ。だって二度目でしょ、士郎が一人でデートから帰ってくるの」
「そっか」
わずかな間だけ落ちる沈黙。その短い時間の中で、アルトリアの心臓はおそろしいほど心拍数を増している。
盗み聞きの罪悪感。思いがけず話の中心に据えられた緊張。これから話される内容への恐怖。
足元がグラグラして、血の気が引いてゆく。
「……遠坂は知ってたのか? こうなること」
「なんで?」
「前に言ってただろ。後で後悔するかもしれないって。
いや、後悔してるわけじゃないんだ。でもあれって、今の状況のことを言ってたのかなってさ」
ふぅ、とためいきをつく音が聞こえた。凛の声も普段よりわずかに低い。
「…………そうね。知ってたわけじゃないけど、予想はしてた。セイバーが、わたしたちの知ってるセイバーじゃないって可能性はね」
「っ…………」
思わず漏れそうになる声を、アルトリアは息と一緒に飲み込んだ。
胸が強く穿たれた痛みを訴える。それをおさえ、唇をかみしめた。
今さらだ。自分がセイバーではないことなど、誰よりも一番よく知っている。
「現状を冷静に見れば、セイバーがわたしたちと素直に会いたがってるわけじゃないってのはかんたんに想像できたわ。でなきゃ知らない人のフリなんてしないもの。記憶がないとか、知られたくない秘密があるとか、いろいろね。
そしてその原因を、わたしたちが取り除いてあげられる保証もない。
だから前と同じ関係をセイバーと築ける、なんて、過剰な期待をしちゃいけないと思ったの」
「………………」
「でもそれすら確実な話じゃなかったわ。向こうから近づいてきたなら、『アルトリア』は士郎と接触しようとしてるわけだし。
その状態で衛宮くんに、親しくなりすぎるな、なんて忠告はできなかった。
けどちょっと前、衛宮くんがアルトリアにおかわりよそってあげてた時の顔、聖杯戦争のときセイバーに向けてた顔とおんなじだったから。はっきりわかる前にこれ以上彼女を好きになると危ないかもしれないなって。
ほんとはもうちょっと距離を取れって言いたかったんだけど……」
「……遠坂。おまえの忠告ってわかりづらい」
「う、うるさいわね! 言ったでしょ、確証がなかったから、はっきり言うわけにはいかなかったって!
士郎が、ちょっと気をつけてみようかな、ぐらいに思ってくれればいいと思ったのよ」
最後はぶつぶつと呟くような口調で凛はぼやいた。
凛はとても冷静な魔術師だ。事態を客観的に測り、判断を下す能力を持っている。
一方の士郎は違う。魔術師というよりも魔術使いを目指す彼は、人の生死には冷静な面もあるが、基本的には一般人として感情を優先させることもままある。
それを好ましく思う遠坂凛としては彼の気持ちに意味もなくブレーキをかけたくなかったのだろう。
では、もしそれを告げていたら、士郎は――自分を取り巻く状況は今、どうなっていただろうとアルトリアは夢想した。
士郎は凛のブレーキを受け、アルトリアへの感情は疑いというフィルターがかかり、一歩引いて接するようになっただろうか。そうすれば今この時も彼女があの二人と一緒に食事できるような、『友人』としての仲を保てていただろうか。
それとも――――
また、扉の向こうから声がした。
「……あいつに言われたんだ。俺がセイバーを思う気持ちを押し付けるなって」
「――――。ふぅん。で、これからどうするの?」
「あいつが俺をキライだっていうんなら諦める。でもなんでだって聞くと、自分はセイバーじゃないからって言うんだ。そんなの納得できない。できるはずがない」
「セイバーじゃないって本人の口から言われただけじゃ納得できないのね。
でもなんで? ほんとはセイバーだって知ってるから? それとも――」
「決まってるだろ。俺は、」
「――――――!!」
いけない。ここから先は本当に駄目だ。
そう思った瞬間、これまでの硬直が嘘のように足は動き出していた。
耳へ彼の声が届くよりも早く階段を駆け下りる。絶対に声が聞こえないところまで必死に駆け抜け、気づいたときには二階と三階の間の踊り場までたどりついていた。
「っは――――はぁ――――」
息が苦しい。急に走ったから――ではない。
たった二階分走ったとは思えないほど呼吸が乱れて、息もうまく吸えないのは。
「……何をやっているのか、私は……」
わかっていたはずだ。
あの屋上に士郎と凛がいる可能性は極めて高かったことも。
昨日の今日、彼らが二人でいるなら自分の話題が出てもおかしくないことも。
士郎があれぐらいのことで諦めてくれるほど淡白な人間でないことも。
全部わかっていたはずだ。なのにどうして。
この胸は、こんなにも締め付けられてやまないのか。
「っ――――――――」
たぶん、今初めてわかってしまったからだ。
あの先の言葉。士郎が言おうとしていた言葉。
彼がアルトリアを想っている理由。彼女にこだわる理由。
それがどんなものであれ。
聞いてしまえば、自分の中で必死に保っているものが崩れ去ってしまうかもしれないと。
それが抑えている理性か、抑えられている感情かはわからない。そこは士郎の言葉次第だろう。けれどどんな言葉が飛び出してきても、何かがきっと崩れてしまう。
崩れた結果、今耐えているものが、耐えられなくなりそうで――――
士郎のたった一言が、そこまで彼女に対して大きな影響力を持っている。なぜなのか。それがどんな感情に起因するものであるのかは、すでに判っていた。
なにせ彼女も二度目なのだから。
「…………我ながらなんと情けない…………」
壁に頭をもたせかけて、深く深くためいきを吐く。
そう、この感情は知っていた。
だからたぶん、知らなかったのはひとつだけ。
存在するのは気づいていたのに、この感情が自分の中でこんなにも大きくなっていたのだと。
たった今、士郎の言葉から逃げ出すまで、彼女はたぶん知らなかった。
「……………………」
自分の気持ちもはっきりわかっていないのでは、かつて人の心がわからないと言われたのも当然のような気さえしてくる。
ああもう、ただでさえ士郎のことで悩みが深いというのに、自己嫌悪までつけたしてどうするつもりか。
もう一度、大きくためいきをつこうと吸い込んだ息は、
「ねえ、ちょっと」
後ろから呼びかけられる声に止められた。