つきかけたためいきを思わず飲み込む。後ろからの声は明らかにアルトリアへと向けられていた。
 しかも聞き覚えのある声。しかしまさか。
 緊張をはらみつつ振り向くと、そこには過たず想像したとおりの姿。長い黒髪をツインテールにした、よく見知っている上級生。
「凛…………」
「よかった、会えて。ちょっといい?」
 言葉は確認の形をとっているが、相手の気迫はとてもそんな猶予を許していない。確認というよりその言葉でアルトリアの同行を強制していた。
 とはいえ断る理由がないのもまた事実。なんとなくイヤ、程度の言い訳で躱せる相手ではない。
 いったい何を考えているのか、無表情な今の凛からは読み取れなかった。それがアルトリアにある種の脅威すら感じさせる。
 これからどんな話があるかはわからないが、もとより凛がアルトリアの決断に黙っているとは最初から考えていない。彼女とも話はしなければと思っていた。
 覚悟を決めてアルトリアは頷く。凛は行きましょう、と一言だけ言って背中を向けた。










 一階に降り、校舎の端っこへと進む。その途中、校舎の真ん中あたりにある一階の階段の陰。
 普通ならば気づかず通りすぎてしまいそうなところに、その扉はあった。
「こんなところに扉があったのですか」
「あのねえアルトリア。非常口の場所ぐらい確認しておくものよ。こういうのはいつ使うかわからないし、使う時は探してるヒマなんかないんだから」
 もっともな話である。
 今はただ単に校舎の中と外を隔てる役割しかしていない非常口の扉を開け、凛は外へ出た。アルトリアも後へ続く。
 まっすぐ視線を投げると弓道場が見えた。しかし凛はそちらへは行かず、校舎に沿って歩く。後をついていくとやがて体育館の裏に出た。
 体育館と校舎が作る、小さなデッドスペース。さっきアルトリアがさんざん探していた人気のない場所。遠くから生徒たちの騒ぐ声は聞こえてきても、確実に空間を隔てていることを感じさせるほど小さい。
 あれだけ探して見つからなかった場所が突然姿を現したことに、驚きと、徒労に終わったさっきまでの自分を感じずにはいられなかった。
 と同時に、少しだけ不思議に思う。
「……凛がこんな場所を知っているとは思いませんでした」
「なに、意外?」
「ええ。こういう場所はたいていどこの建物にもあるものですが……凛はあまりこのような、寂しい場所には来ないと思っていましたので」
 人気のない場所というのは今日のアルトリアのように、一人になりたい者が来るところだ。学校での彼女は優等生だというし、衛宮の家でも、礼儀はわきまえていても物静かなタイプではない。いつも人のいるところで、咲き誇る薔薇の花のように明るくしているのが凛のイメージだったのだが。
 そう伝えると、凛はわずかに苦笑した。
「たしかに一人よりたくさんの方が楽しいし、学校では優等生のイメージを作ってるけどね。
 魔術師っていうのはあんまり不必要に一般人と関わりすぎちゃいけないの。ヘタに人を寄せすぎると、正体がバレてしまいかねないから」
「そうでした。凛は一人前の魔術師でしたね」
 さっきの屋上での会話を聞いてそう思った。彼女は士郎のように最初から、セイバーであればこれまでと同じと思っていたわけではない。もっと色々な可能性を感情抜きで考えられる怜悧な魔術師だ。
「しかしそれならばどうして貴女は、優等生としての一面も持っているのです? 魔術師としての一面は持たねばならないでしょうが、学校での凛はいささか行儀が良すぎるようにも見えます。三つも顔を持っているのは多すぎでしょう」
「ふんだ。貴女が裏表なさすぎるのよ。女はたくさんの顔を持ってて当たり前なんだから」
 ぷいっ、と凛はそっぽを向く。アルトリアにすれば礼儀正しい優等生としての遠坂凛より、こちらの素直な凛の方が好きなだけなのだが。
 口を尖らせていた凛が、おもむろにアルトリアへと向き直る。
「でもアルトリアだってわたしたちにずっと黙ってたことがあるんでしょ」
「……………………」
「ごまかそうったってダメよ。たった今、わたしが魔術師だということをなんの疑問もなく受け入れた。
 それだけでも貴女が一般人じゃないっていう立派な証拠だわ」
「……相変わらず頭のいい人ですね、貴女は」
 はあ、と大きくためいきをついて、アルトリアは負けを認める。
 今の会話はかまかけでもあったのか。たしかに士郎へ全てを話してしまって警戒心が薄れていたというのはあるかもしれない。さっきの士郎と凛の会話を聞いて、凛にも情報が伝わったと知っていたかもしれない。
 その油断につけこむようなタイミングで切り込んでくるあたり、遠坂凛という少女は、敵に回せば本当に手強かった。
 彼女の感じた脅威を利用するかのように、凛は追及の手を緩めず質問を重ねてくる。
「それにアルトリア。貴女、さっきの屋上での話、聞いてたでしょ」
「っ、……気づいていたのですか……」
 忸怩じくじたる思いでアルトリアは唸った。まさか気づかれていたとは思わなかった。
「ええ。もっとも気づいたのは貴女がいなくなるときだけどね。階段を降りてく足音が聞こえたの。
 あのタイミングであの場所から立ち去るなんて、アルトリア以外に考えられないわ」
 鋭い。
 そういえばあのときは逃げ出すのに夢中で、自分の立てる足音のことまで考えていなかった。
 ということはもしや、士郎にも聞こえていたのではないだろうか。
 もしも士郎に、あの場面を盗み聞きしていたことがばれたら……
 自分の内に生じた焦燥に耐えられず、そわそわと落ち着きをなくしたアルトリアの様子から、何を考えているか読んだのだろう。凛は苦笑しつつ、
「安心しなさい。士郎には気づかれてないから。アイツ、自分の方に精一杯って感じだったしね。それでわたしだけ抜け出してきたの」
「そうですか」
 思わず安堵の息がもれる。
 できることなら士郎にこんなはしたないことをしていたと知られたくない。あれだけ彼に嫌われることをしておきながら図々しいとは思うが、不必要に嫌われたいとまではやはり思えないのだ。
 しかしそんな彼女の前で、凛はうむうむと頷きながら、
「でもねえ。困ったことに、わたしはこんな面白そうなことを黙ってられるほど口が固くないのよね」
「なっ、り、凛――――!?」
 焦って慌てて狼狽する。そんな表現がぴったりなほどアルトリアは取り乱した。
「やめてください凛! 貴女は多少意地の悪い人ではあったけれど、そこまで性根がひねくれてはいなかったはずだ!」
「……言ってくれるじゃない。ほんとに士郎に告げ口したくなってきたわ」
 アルトリア、失言。
 思わず口をおさえたアルトリアを、凛はムスッとした表情で見つめる。
「それじゃ交換条件。本当のところを教えてもらいましょうか」
「……?」
「士郎と仲違いした理由。士郎は、貴女がセイバーじゃないからって言ってたけど。
 ちゃんとアルトリアの口から本当のことを聞きたいの」
 まっすぐ真剣な瞳に見つめられ、アルトリアも表情を引き締めた。
 これが凛の本題だ。彼女を有無も言わさず引きずり出してまで聞きたいこと。
 ならば真摯に返すのが誠意というもの。もとより偽る必要もない。
「シロウの言ったとおりです。私はセイバーではない。それが唯一で、絶対の理由ですから」
 凛の片眉がぴくんとはねあがる。どこかさっき以上の不機嫌さを感じさせるように。
「本当にそんな理由?」
「はい。私に『セイバー』を重ねられても迷惑です。セイバーではない私には、その期待に応えられない。
 第一本当に私がかつてセイバーだったのかもわからないではないですか。単に私には『セイバー』の記憶があるというだけの話だ。もしかすると催眠術のようなもので、そう信じ込んでいるだけなのかもしれない」
 たしかに『セイバー』の記憶はある。でもそれは、本当に自分が体験してきたことではない。
 逆に言えば、セイバーとアルトリアを繋ぐ糸は、『セイバー』の記憶があるということだけなのだ。
 ならば全く関係ない赤の他人に『セイバー』の記憶を植え付け、そう錯覚させただけでも、今のアルトリアと同じ状態になる。記憶だけでは同一人物の証明にはならない。
 アルトリアが口にした言葉は、しかし。
「あのね。同じ人間でもないのに、そこまで詳細な記憶を持ってるわけないでしょ。もし貴女の言うような他人が信じ込ませた記憶なら、その人はどれだけ『セイバー』を知ってることになるのよ。
 士郎は断言してたわよ。貴女にセイバーの記憶があるに違いないって。
 それぐらいセイバーを知ってるのなんて、それこそ『セイバー』本人しかいないんじゃない?」
「………………」
 黙り込む。たしかにそのとおりだ。
 これが他人の植え付けた記憶なら、その人物はセイバーの一生を知っていることになる。
 しかし千五百年の時を挟み、聖杯戦争の記憶まで含めたセイバーの行動を知る者などいない。いるとしたらそれは紛れもない本人のみ。
「それにね。イリヤも言ってたわ。『アルトリア』は、アーサー王の転生後に間違いないそうよ。
 わたしは魂は専門外だけど、イリヤはわたしより詳しく知ってる。あの子は貴女を見てすぐにわかったらしいわ」
「そうですか……」
 小さく呟く。言われてみれば、イリヤスフィールはまったく何の疑問も抱かず、ずっと彼女を『セイバー』と呼び続けていた。あれはそういうことだったのか。
 彼らがそこまで言うのなら、もはや確かなことなのだろう。
 この魂は、たしかにかつて、アーサー王ともセイバーとも呼ばれていた存在なのだ。
 ――だとしたら。
「……凛。それならばなおのこと、私はセイバーではありません」
「……………………」
「貴女も気づいているはずだ。この身はもはや竜の因子もなければサーヴァントでもない。普通の人間にすぎません。
 こんな私では、士郎の剣になるという誓いを果たすこともできない。
 肉体だけではなく人格もです。今でこそあの頃の記憶もありますが、『セイバー』の記憶がないまま過ごしてきた十七年間は変えようがない。いくら過去の記憶が蘇ろうと、それは『セイバーに戻った』のではなく、『アルトリアがセイバーの記憶を得た』というだけのことなのですから」
 まっすぐに、恐れずに。
 自分の胸のうちをアルトリアは告げた。
 彼女にとっての絶対の真実。『アルトリア』が消え、『セイバー』に戻ることは有り得ないのだと。
 わずかな沈黙の後、凛が口を開く。
「魔術師の視点で見れば、存在っていうのは肉体よりも魂にるものなんだけど。体が普通の人間だって関係ないわ。魂が同じならそれは同じ人間よ」
「それでもです。そも私は魔術師ではありません」
「まあね。じゃあどうあっても、自分はセイバーじゃないって言うの?」
「はい。仮にもし今もどこかにアーサー王がいるとしても、それが私でないことははっきりしている」
 凛が無言でアルトリアを睨みつける。アルトリアもそれに正面から受けて立った。
 黙り込んだ二人の耳に聞こえるのは、風に揺らされた木々のざわめきだけ。
 やがて凛はためいきと共に視線をそらす。
「わかったわ。今はわたしが何を言っても無駄みたい」
 冷たくそう言うと、すっと踵を返した。
 諦めたのか。いや、呆れられてしまったのだろうか。
 仕方のないこととはいえ、やはり凛とも決別するのは辛い。向けられた背中はさっきの屋上で扉越しに感じたのと同じもの、二人の距離を示しているようにも見えた。
「でもね。アルトリア」
 立ち去り際、凛はぽつりと声をもらす。
「そうやって意地張って士郎とぶつかってる姿。昔の貴女とそっくりよ」
「……………………」
 言い捨てて、彼女は去ってゆく。足音が小さくなるのを、ただ黙って聞いていた。
 それがどういう真意か凛が言うことはない。アルトリアも問うことはない。
 もしかするとその言葉は、ただ感じたままを口にしたのかもしれなかったが。
「…………そうですか」
 凛には聞こえぬよう、小さく呟く。
 彼女の告げた最後の言葉。
 それがアルトリアには、こう言っているように聞こえた。


 ――――どれだけお前が否定しようとも。
 『アルトリア』には今も、セイバーの面影が残っているのだ、と。


 裏を返せば、それは。
 すでにセイバーを知っている人間には、アルトリアから永遠に『セイバー』の面影を振り払えないということだった。




次へ
前へ
戻る